1984年11月22日放送の「ザ・ベストテン」10位で初登場した生放送での、テレビで歌うことがなかったシンガー・ソングライターの貴重な歌声 井上陽水「いっそ セレナーデ」
26歳で新たに大学を受け直したため、ぼくが大学を卒業したのは30歳だった。就職するにも応募にあたり年齢制限もあって、さしたる就職活動もしなかったがある外資系の会社に受かり、学生生活と訣別した。だが、約2か月の研修期間を終えたその日に辞表を提出した。後先考えない行動だった。そして、海外で一人暮らしを経験してみたいと思い、すぐさまアメリカのシカゴに向かい、アパートメント暮らしを始めた。日本を出るとき、一枚だけ日本の歌手のカセットテープを持って行こうと思い、井上陽水のセルフカバーアルバム『9.5カラット』をカバンに入れた。その中の一曲が「いっそ セレナーデ」だ。日本に住むアメリカ人の友人からの「一緒に今作りたい雑誌を創ろう、早く日本に帰って来いよ」との誘いで帰国するまで、毎日のようにそのアルバムを聴き続けていた。
井上陽水の音楽との最初の出合いは中学生のときだった。当時よく聴いていた福岡のRKB毎日放送のラジオ番組「スマッシュ!!11」から流れてきたのがアンドレ・カンドレが歌う「カンドレ・マンドレ」という曲だった。どこに惹かれたのかは、よくわからないが、ポップでテンポがあり、お気楽な詩の世界のように聞こえたが、綴られた詩の世界の裏側に何かありそうなものを中学生のぼくに勘繰らせた、それまでに出合ったことのない曲だった。新しい音楽に耳ざとい同じクラスの友だちと二人で盛り上がった。この友だちは14年前に56歳の若さで突然死した。中学を卒業してそれぞれ別々の高校、大学へ進学したが、交遊は続き生涯の大親友だった。1969年7月にCBS・ソニー(現:ソニー・ミュージックレコーズ)から発売されると、いきつけのレコード・ショップですぐに購入し、その親友とまわし聴きした。演奏は小室等率いる六文銭で、編曲も小室等が担当している。アンドレ・カンドレの活動はシングル盤3枚のリリースで終わり、71年にはポリドール・レコードに移籍し、井上陽水と名を改めた72年5月リリースの最初のアルバム『断絶』で、ぼくは再びアンドレ・カンドレ=井上陽水の世界にとりこまれることになった。
当時の中学生にとってはLPレコード(アルバム)はなかなか高価で手が出ず、もっぱらドーナツ盤ばかり買っていた。ヒットしている曲に興味があり、ヒット全集以外アルバム自体に興味がなかったのも事実だ。それでも、初めて買ったLPレコードはサイモンとガーファンクルだった。井上陽水の『断絶』に出合ったとき、ぼくは高校生になっていた。音楽にしてもヒット曲を追いかけるのではなく、アーティストの音楽性を追いかけるようになっていた。吉田拓郎や南こうせつとかぐや姫(後にかぐや姫)なども、シングルではなくLPレコードを求めるようになっていた。映画のサントラ盤、ザ・ビージーズやバート・バカラック、トニー・ベネット、ボブ・ディラン、レナード・バーンスタイン、ヴァイオリニストの前橋汀子、チューリップ、はっぴいえんど、NSP(ニュー・サディスティック・ピンク)、五つの赤い風船、ビリー・ジョエルなど、アルバムのコレクションも増えていった。陽水の『断絶』もその一枚だった。というより、むしろ『断絶』に出合い、ぼくはLPレコードを買うようになった。
『断絶』は井上陽水名義でリリースした最初の作品で、2か月後には収録されている「傘がない」がシングルカットされ注目された。収録曲は全曲井上陽水作詞・作曲、星勝編曲。「傘がない」のほかにも、「人生が二度あれば」(アルバムの2か月前に陽水のファーストシングルとしてリリースされている)、「感謝知らずの女」、「愛は君」など、学校から帰ると毎日聴いていた。
同年12月には2枚目のオリジナル・アルバム『陽水Ⅱ センチメンタル』がリリースされた。もちろん全曲、井上陽水の作詞・作曲である。「つめたい部屋の世界地図」「東へ西へ」「かんかん照り」「夜のバス」「神無月にかこまれて」「能古島の片想い」「夏まつり」「紙飛行機」「あどけない君のしぐさ」などが収録されており、このアルバムでぼくはさらに井上陽水の音楽にはまった。「能古島の片想い」を歌うためだけに友だちとフォークギターをもって能古島にも行った。能古島は博多湾の島で、福岡・姪浜港から船で10分程度。秋のコスモスの名所であり、『火宅の人』の作家・檀一雄が晩年を過ごした島としても知られている。「東へ西へ」は、92年に元シブがき隊のモッくんこと本木雅弘によりカバーされ同年のNHK紅白歌合戦でもソロで初出場し歌唱している。2004年には布袋寅泰がアルバム『YOSUI TRIBUTE』でもカバーしている。
73年3月には森谷司郎監督、栗田ひろみ主演の東宝映画『放課後』の主題歌として「夢の中へ」が3枚目のシングルとしてリリースされ、陽水にとってはオリコンシングルチャートで初めて20位以内(17位)にランクインした。89年には斉藤由貴がハウス・ミュージックを採り入れシングルとしてカバーしている。陽水版のカップリング曲「いつのまにか少女は」も映画の挿入曲になっている。同年9月には4枚目のシングル「心もよう」がリリースされオリコンチャート7位のヒットとなった。カップリング曲の「帰れない二人」は、作詞・作曲ともにRCサクセションの忌野清志郎との共作だった。情感のあるいい曲である。
そして同年12月1日には1年ぶりとなる3枚目のオリジナル・アルバム『氷の世界』がリリースされた。発売日当日、ぼくも福岡市・天神の福岡ビルにある日本楽器天神店(現:ヤマハミュージックリテイリング福岡店)に出かけたが、開店前だというのに『氷の世界』を求める客が殺到していたのを思い出す。「夢の中へ」や「心もよう」のヒットで井上陽水の名が認知された証だろう。
陽水の代表作とも言える「氷の世界」、ライブでの歌唱頻度も高い「帰れない二人」、小椋佳が作詞を担当した「白い一日」、細野晴臣も参加している「心もよう」、作曲・編曲を星勝が担当し、星の所属するザ・モップスも本アルバムと同日にシングルリリースしている「あかずの踏切り」、ちあきなおみが自身のアルバム『ルージュ』でカバーしている「小春おばさん」などが収録されており、オリコンのアルバムチャートに100週以上ベスト10位内にランクインを続け、発売から2年後の75年8月には日本レコード史上初のLPセールス100万枚突破の金字塔を打ち立てた。74年の日本レコード大賞ではアルバム『氷の世界』は企画賞を受賞している。大賞の森進一「襟裳岬」の作曲の吉田拓郎、「精霊流し」で作詞賞を受賞したさだまさし、など日本の音楽地図が塗り替えられようとする兆しがうかがえる年だった。ちなみに授賞式に吉田拓郎がジーンズ姿で出席し話題になったが、陽水は欠席している。
そのほかにも、シングルとしてリリースされた曲には74年「闇夜の国から」「夕立」、75年「御免」「青空、ひとりきり」、79年の「なぜか上海」、山口百恵への提供曲をセルフカバーした80年の「クレイジーラブ」、81年「ジェラシー」、ドラマ「ニューヨーク恋物語」の主題歌に使用された82年の「リバーサイドホテル」に「とまどうペリカン」、86年の「新しいラプソディー」、映画『少年時代』の主題歌「少年時代」、91年の「Tokyo」、ドラマ「素晴らしきかな人生」の主題歌に使用された93年の「Make-up Shadow」に「カナディアン アコーデオン」など数々の話題曲を陽水は生み出していった。
「いっそ セレナーデ」は84年10月に23枚目のシングルとしてフォーライフ・レコードからリリースされた。フォーライフ・レコードは、75年に陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、小室等が中心となって設立したレコード会社で、現役ミュージシャンが、しかも人気のフォークシンガー四人がレコード会社を設立するというので、当時、社会的にも大きな反響を呼んだ。
「いっそ セレナーデ」は陽水自身が出演したサントリー「角瓶」のイメージソングに起用され、オリコンシングルチャートでも最高4位を記録するヒット曲となった。
84年11月22日放送の「ザ・ベストテン」の第10位にランクインし、滅多にテレビの歌番組に出ない井上陽水が例の回転ドアから姿を現したときには、思わず椅子から立ち上がってしまった。小室等からはメッセージレターが届き、なんと吉永小百合はスタジオに電話をかけてきて祝福していた。やはり、陽水がテレビに出演するのは特別な出来事なんだなと感じた記憶がある。番組では、初めて買ったレコードという話題になり、陽水はロイ・オービソンの「オー・プリティ・ウーマン」か、舟木一夫の「高校三年生」だった、と答えていた。当日の1位は小泉今日子「ヤマトナデシコ七変化」、2位はアルフィー「恋人たちのペイヴメント」、3位は松田聖子「ハートのイヤリング」、4位は薬師丸ひろ子「Woman“Wの悲劇”より」、5位は安全地帯「恋の予感」というランキングだった。舘ひろしも「泣かないで」が8位にランキングされ出演しており、陽水、玉置浩二、舘ひろしという渋い顔合わせが新鮮だった。
「いっそ セレナーデ」が収録されているセルフカバーアルバム『9.5カラット』がリリースされたのは84年12月21日だった。自身の提供曲を中心に選曲されており、水谷豊「はーばーらいと」(作詞は松本隆)、石川セリ「ダンスはうまく踊れない」、小林麻美「TRANSIT」(作詞は松任谷由実)、沢田研二「A.B.C.D.」、安全地帯「恋の予感」「ワインレッドの心」(作曲は2曲とも玉置浩二)、樋口可南子「からたちの花」(作詞は流れ星犬太郎名義の糸井重里)、そして中森明菜「飾りじゃないのよ涙は」を陽水自身が歌う。自身2作目のミリオンセラーとなる売上を記録し、オリコンチャートでも1位となった。85年の日本レコード大賞でアルバム大賞を受賞し、授賞式では「いっそ セレナーデ」と、安全地帯との共演で「飾りじゃないのよ涙は」を披露している。ちなみに、大賞は中森明菜「ミ・アモーレ〔Meu amore…〕」、最優秀新人賞は「C」を歌った中山美穂だった。
アメリカに発つ前に4歳年上の友人がこのアルバムをカセットテープにダビングしてくれもたせてくれた。音楽業界で仕事をしており、スティング、小田和正、稲垣潤一などのコンサートにも呼んでくれ、「雨の歌」、「九月の歌」、「さくらの歌」、「東京の歌」、「海の歌」など、テーマを設定して独自のコンピレーションアルバムを作っては、いつもプレゼントしてくれていたが3年前の8月に亡くなった。食べることが大好きで旨い店をよく知っていて、ハイセンスでおしゃれな友人だった。
シカゴから東京に戻り、誘ってくれたアメリカ人の友人と「nadir(ナディール)」という雑誌を創った。〝東京の今〟のカルチャーを発信したいと考え、パリ、ロンドン、ニューヨークなど海外でも発売していた。大使館も応援してくれドイツ人やオーストラリア人の読者から手紙が届いたりもした。87年頃だったか、松任谷由実の特集を組むことになり、ユーミンを知る3人に原稿を書いてもらうことになった。作家の林真理子、俳優の藤真利子、そして井上陽水。執筆依頼で青山の事務所を訪ね、井上陽水と初めて対面した。言葉使いも丁寧で優しく、あの声で「こんにちは」と挨拶する表情はスマイルだった。
その縁だったのだろう、89年に陽水がシングル「夢寝見」をリリースし、久しぶりにテレビの歌番組「ミュージックステーション」に出演することになったとき、バックダンサーや、ファッションなどのヴィジュアル面でお手伝いをすることになり、たびたび陽水と会ったが、変わらず丁寧な物言いで、穏やかなスマイルを湛えていた。
「いっそ セレナーデ」を聴くと、シカゴでのアパート暮らしで通ったスーパーマーケットやミシガン湖の風景、まったくの素人ながら編集者として初めて創った雑誌のこと、そしてぼくにさまざまな音楽シーンを体験させてくれた年上の友人との日々が浮かんできて、なんとなくメランコリックな気分になってしまう。
文=渋村 徹 イラスト=山﨑杉夫
※次回の「わが昭和歌謡はドーナツ盤」の立ち上げは12月11日になります。