《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 16 豊竹靖太夫(文楽太夫)
滋味のある声と語り口で、人間をリアルに描写。大学で国語学を学んだことも、テキストの研究や言語への洞察に役立っているのだろうか。今年で芸歴22年。豊竹靖太夫(47)は、義太夫について語る言葉を豊かに持つ中堅の太夫だ。
大学院で言葉を研究するはずが……
大阪の芸能、文楽の世界にあって、靖太夫さんは東京出身の太夫だ。夏目漱石生誕の地である早稲田の喜久井町に生まれ育った。
「中学時代は中島みゆきさんの歌にはまって、その歌を『簡単な言葉で難しいことを言う』と誰かが評しているのを読み、言葉というものの面白さを感じていました。古典芸能になんとなく興味を持ち始めたのもその頃から。高校時代は地下鉄で通学していたので、駅に置いてある営団地下鉄のフリーペーパーに毎月、歌舞伎や能などの入門の記事が載っているのをよく読んでいました」
一方で、高校の部活ではオーケストラに勤しんだという。
「小学校の塾で知り合った女の子と高校で再会し、誘われて。その子と同じヴァイオリンになったのですが、それまで楽器を弾いたことがなかったばかりか、楽譜の読み方もおぼつかなくて。四分音符はこの長さ、二分音符はこの長さ、付点がついているとこの半分で〜など、覚え直しました。ヴァイオリンは難しかったですが、楽しかったですね。ヴァイオリンを弾くためだけに高校に行っていたようなものです(笑)」
言葉への興味から、中央大学の文学部国文学科に進学。卒業論文のテーマは「万葉集の係助詞について」。
「広辞苑の編集のトップをされていた山口明穂先生のゼミに入りまして、僕が新聞記事の書き手の気持ちは文章のどこに出るのかを探るという発表をしたところ、山口先生から助詞や助動詞について指導していただいたんです。当時しきりに『は』と『が』、つまり『僕は今日カレーを食べた』なのか『僕が〜』なのかの使い分けができていない人が増えたということがよくニュースなどで語られていたのですが、先生は、『は』と対になるのは本当は『も』だとおっしゃっていて。それで、万葉集の『は』と『も』のどちらが、否定的な言葉に繋がりやすい係助詞なのかを調べて、大学の卒業論文にしたんです」
大学生活では、伝統芸能にもさらに親しんだ。
「当時、学生課で先着10名か20名で、歌舞伎や文楽のチケットを無料で配っていて、2回ぐらい行きましたし、能狂言も好きで、詞章を読んだりNHKの番組を見たりしていました。大学4年の時には、大学のOBであるNHKの元アナウンサー、葛西聖司さんのオープン講座を受講し、『やっぱり古典芸能は面白いなあ』と思いました」
しかし、伝統芸能の道に進むとは夢にも思っていなかった。大学院に進み、留学をするつもりだったのだ。
「英語が得意ではないのでせめて第二外国語のドイツ語はしっかり身につけようと思い、ドイツ文学の大学院の授業に混ぜてもらって、修士の院生1人と博士の院生1人とで僕と先生の4人で、文学を訳して読んでいたんです。その先生に国文学のほうで大学院に進みたいと話したら、比較文学のような形で留学するのはどうかと提案してくれ、書類も用意してくれて。指導教授の推薦状が必要なので、山口先生に書いてもらっていました。ところが、院試の筆記が終わり、次の面接で面接官の先生から『君は大学に行って何を研究したいんだ』と問われた時、自分は卒論の延長で、面白いと思ったことをそのままやるだけだと単純に考えていたことに気づいたんです。このまま進んだらまずいなと思い直し、合格したにもかかわらず、進学を止めてしまいました。山口先生にも、ドイツ文学の先生にも、非常に申し訳ないことをしました」
突如、進学をやめた靖太夫さんは就職の準備もしておらず、1年間、することがなくなる。そこでふと思い出したのが、文楽の研修生募集だった。
「応募要項を取り寄せる時、志望を聞かれました。ヴァイオリンをやっていたため三味線の音色にも惹かれていて迷ったのですが、(八世)豊竹嶋太夫の浄瑠璃が一番好きだったので、太夫と答えて。同期は、最初は3人いましたが、残ったのはのちの希太夫くんと僕の二人で、どちらも太夫志望。指導には、当時の太夫のすごい方々が来てくれました。(七世竹本)住太夫師匠、(九世竹本)源太夫師匠、嶋太夫師匠、今の(豊竹)若太夫師匠……。研修は大変だったけれど、本当に恵まれていましたね」
≫嶋太夫師匠、そして千歳太夫師匠のもとで
嶋太夫師匠、そして千歳太夫師匠のもとで
2004年、靖太夫さんは憧れの嶋太夫師匠に弟子入りし、初舞台を踏む。嶋太夫師匠にとって、最後に取った弟子だった。
「嶋太夫師匠は入門した時、『自分は器を一から作るのではない。できたものを、こうじゃない、こうじゃないと修正していくのが師匠の役目だ』とおっしゃいました。弟子それぞれについて、今何が大切なのか、あるいは何が足りないのかを考えて教えてくれましたね。それにはまらないとものすごく怒られましたけれども。舞台稽古を師匠が客席で聴いて『一杯』にやっていないと、『今日は舞台稽古だからこんな感じなんやな、明日からはもっと一杯にやるんやな』と、怖いことを言うわけですよ。それだけ、一杯にやることをものすごく大事にしている方でした」
文楽では、持てる力を全て出し切ることを「(筒)一杯(つついっぱい)」と言う。2015年、文楽若手会東京公演2日目、『一谷嫩軍記』熊谷陣屋の段の靖太夫の語りは、まさに一杯と呼ぶに相応しい、渾身の語りだった。
「その若手会の大阪公演の時、舞台稽古だったか初日だったか、終わると師匠がちょっと怒っているんです。で、『もう一遍、上に上がれ』と言われて、三味線弾きさんと一緒に舞台に上がって、稽古してもらいました。今から思えば多分、一杯にやれてなくて、師匠としては許せなかったんでしょうね。兄弟子だった(豊竹)呂勢(太夫)さん兄さんにもそれはよく言われましたし、最近では三味線弾きの鶴澤清志郎さんに『君は嶋太夫師匠の弟子なんだから、もっと一杯に語らなきゃダメだよ、君がやらなくてどうするんだ』と言われました。嶋太夫師匠は一杯に語るその人物表現や技巧がすごく巧みな方でもありましたね。師匠の病院や買い物のお供をすると、例えば街の人に会ってお話しする時も、どなたに対しても、決して大きな声ではないのですがまるで義太夫を語っているように表現豊かに話していたのが、印象に残っています」
その嶋太夫師匠は、2016年に引退、2020年に亡くなり、現在は、かつて兄弟子だった竹本千歳太夫の弟子となっている。
「嶋太夫師匠のもとにいた時、下稽古は今の師匠や呂勢さん兄さんがしてくださっていたんです。今の師匠はわからなくても、難しいことも言ってくれる。それが実は根本的なこと、大切なことだからだと思うのですけれども。また、太夫には三段目語り、四段目語りなどという分け方がありますが、師匠はどちらもなさっていますし、幅広く様々なことをご存知なのも大きいですね」
ごく短いフレーズの中で守るべき音程や言い回しが細かく決められている太夫の語りを習得するのは非常に大変な作業だ。
「終わりがないのはどの分野も同じですが、確かに太夫はワンフレーズの中に何をどれだけ込めるかという決まり事が多い。でも、それだけではだめです。千歳太夫師匠がインタビューで言っていたことで印象的だったのは、千歳太夫師匠の師である(四世竹本)越路(太夫)師匠の言葉なのかもしれませんが、『形だけでもダメ、情だけでもダメ』。形の中に情が入ってないといけないんです。形を作るのも大変ですし、情を入れるのも、入れ方ももちろんありますね。今の師匠からは、『拍子を大事にしなさい』『床本を素読みする時も、それを意識しなさい』とも言われます。節にも詞(ことば)にも拍子があり、素読みすると、基本的にその拍子通りに作曲されているのがわかります」
靖太夫さんの語りは地声が活きていて自然な印象を受ける。どのようなことを意識して語っているのだろうか?
「義太夫って、節があって、詞があって、また節になって……という、その連続がすごく大事。例えば急に節になった時、それは登場人物の感情が高まってなっていたりするので、お客様に違和感を覚えさせてはいけないと思うんです。どうしても三味線につられそうになるのですが、この前もある方にお稽古していただいた時、『太夫はスタートしたら最後までずっと自分の中で成立していかなきゃいけない、三味線がどう入ろうと、君は君で最後までずっと自律的に語り続けるんだ』と言われました。もちろん、三味線とはやりとりをしているんですが、時たまご挨拶するような感じと言いますか。嶋太夫師匠と(鶴澤)清介師匠がお稽古場に入って稽古した時、外でなんとなく聴いていたら、ある先輩が『今、二人は並んで一緒に語り出したけれども、ずっと絡み合って稽古しているわけじゃなく、時折、ご挨拶しているんだ』ということをおっしゃっていたのが忘れられません。そこが、弾き語りとは違う、一人ではできない面白さですよね」
では、自律的に語るためにはどうしたらいいのか。
「この文字はこのぐらいの長さで語るとか、三味線がそろそろ来るからここで終わる、とかではなく、この一塊はこういう拍子で語る、ということが太夫にある程度わかっていたら、自律的に語れるのではないかと思っています。義太夫は変化もものすごく激しくて、例えば7文字語ったら、次の5文字は違うリズムになっていたりする。そういうのが僕は今、たまらなく面白いですね。オーケストラをやっていた時も、ハーモニーや強弱や音程など、指揮者の先生や先輩方に注意されながら食らいついていましたが、思えば義太夫に通じるところがあるかもしれません」
≫感情をそのまま語りに乗せたい
感情をそのまま語りに乗せたい
コロナ禍で靖太夫さんは「義太夫節を勉強する会」を立ち上げ、素浄瑠璃の公演を行っているが、もう一つ、若手人形遣いが普段はできない大役の主遣いに挑戦する自主公演「若手人形遣いを観る会」も、もともと靖太夫さんがイニシアチブを取ってスタートさせたものだ。
「文楽の研修生の応募が、今は何人か入ってきてくれていますけども、ゼロの年がありましたよね。やっぱり中にいる若い人が輝いていたら、自分もやってみようかなと思ってくれるんじゃないかな、と考えたんです。そして、僕ら太夫は勉強したいと思ったら師匠に話をして三味線弾きさんとお願いすれば、素浄瑠璃という形でシンプルにできますが、人形遣いは三人遣いなので先輩方にも手伝ってもらわなければいけないし、さらに三味線と太夫を呼んで道具を揃えて……と大変なんですよね。若手の人形遣いさん達がなかなか動けずにいる中、僕にできることはしようと思い、いずれは人形遣いさんで運営してくださいねと言ってスタートしました。第1回が(吉田)簑悠くん、第2回が(吉田)玉延くんと(桐竹)勘昇くんで、第3回の(吉田)玉路くんの時から少しずつ、彼らに任せる形にしていきました。今年は9月5日に(桐竹)勘昇くんと(豊松)清之助くんが第4回を大阪で公演しますが、会場を押さえるのも彼ら自身でやってくれました」
さて、9月の国立劇場文楽鑑賞教室『仮名手本忠臣蔵』では、身売りの段を勤める。靖太夫さんが演じる六段目の身売りの段に至るまでに、塩谷の家臣だった早野勘平は浪人となり、主君・塩谷判官の仇討ちに加わるための金を必要としていた。妻おかるは夫のために祇園町へ身売りすることを決意し、父・与市兵衛は一文字屋から前金五十両を借り受けるが、その帰途に斧定九郎に襲われ、五十両入りの縞柄の財布を奪われる。その定九郎を勘平は猪と間違えて撃ち、その懐に財布をみつけて持ち帰る。そして身売りの段で勘平は、おかるを迎えに来た一文字屋の亭主が与市兵衛に渡した財布 が自分の持ち帰ったものと同じだと気づき、自分が舅を手にかけたと思い込む。罪を告白できないまま、おかるを一文字屋に送り出す勘平。その後の「早野勘平腹切の段」で、おかるの母に責められた勘平は切腹するが、彼が殺したのが実は与市兵衛を襲った定九郎であったことが判明し、仇討ちの一味への参加を許されて最期を迎える。
「『仮名手本忠臣蔵』の六段目では、勘平が誤解していて、おかるのお母さんも勘平を誤解していて、おかるは何も知らない。しかしお客様には全てわかっているんですよね。そこが、『菅原伝授手習鑑』の寺子屋の段のように、お客様もわからずに見ているのとは違う難しさです。財布の柄に気づいた勘平について『我が胸板を二つ玉で撃ち抜かるゝより切なき思ひ』という語りがあるのですが、勘平としては大きな衝撃ですし激しい節なのでバーッと語りたいんですけれども、心の中なのでちょっと加減が必要なんですよね。おかるとお母さんの別れも、別れはそこでしか示せないですからしっかりやりたいんですけれども、やり過ぎると次に控える切場『早野勘平腹切の段』に障る。良い場面なんですけれども、端場なので寸法は控えめにしなければいけません。おまけに一文字屋はちょっとチャリ(※)がかっていますから、色々な語り口をしなければならない忙しさもあるんです」
靖太夫さんがこの「身売りの段」を語るのは、2022年以来、二度目。
「その時と同じ(鶴澤)清丈’さんの三味線です。あの時は一文字屋を軽快に語ることができなかったので次はもっと磨き上げたいですし、あと、やはり勘平の気持ちをしっかり作りたい。その2つが特に大きな課題です。色々と研究して臨みたいと考えています」
芸歴も20年を超え、25年、そしてその先へ。改めて、文楽への思いを聞いた。
「義太夫節って、語る前に文章を読んでも、自然と涙が出てくる作品が多いんです。こちらが感情を詰め込め過ぎてもお客さんは堪ったものではないので、さじ加減が難しいんですけれども、その時の気持ちをがそのまま語りに乗せたい。やっぱりさっきの話じゃないですけど、形を作らなければならないので、演奏中もここがちょっと長過ぎた、押しちゃった、切ってしまった……などと考えがちなのですが、古典は自ずと盛り上がるようにできていますから、その形に則りながら、自分の感じたものをちゃんと乗せられるようになりたいですね」
※チャリ 滑稽でユーモラスな笑いの場面や演技
≫「技芸員への3つの質問」
「技芸員への3つの質問」
【その1】入門したての頃の忘れられないエピソード
色々ありますが、例えば師匠の着替えを手伝う時、それまで人に上着を着せたことなんてなかったので着せ方がまずくて師匠に怒られ、「何でも相手の気持ちになってせなあかんで」と言われたのを思い出します。僕らは登場人物の気持ちを考えなければならない。『仮名手本忠臣蔵』の身売りの段だったら、おかるのお母さんの気持ちは文章としてはあまり出てきませんが、そこもきちんと考えて語らなければならない。そういうことに繋がっている話だと思うのです。
【その2】初代国立劇場の思い出と、二代目の劇場に期待・妄想すること
師匠の白湯汲み(※)を初めてやらせてもらったのが2008年、国立劇場の舞台でした。しかも僕は、入門前の学生の頃から観て大好きだった師匠の『本朝廿四孝』十種香の段だったので、思い出の一つです。国立劇場は文楽劇場よりも白湯汲みの場所が床に近いんです。すごい迫力で、ドキドキしたのを覚えています。
今、国立劇場の代わりに上演している東京の劇場では、舞台装置のせり上がりができないところも多く、『祇園祭礼信仰記』のような大掛かりな舞台が上演できないんです。それ以外の理由でも、近年は全然出ていない演目があります。開場した時にはそういうものをぜひやってほしいです。
※白湯汲み 太夫と三味線がいる”床(ゆか)”の脇に弟子が控えて白湯を運ぶ、その役割のこと。切語り(きりがたり) と呼ばれる最高峰の太夫にのみ許される。
【その3】オフの過ごし方
芸術団体と地方公共団体の関わり方、さらには地方公共団体がどんな文化政策をするのかに興味を持って、そういう本をよく読みます。僕自身、自主公演などで助成金をもらうことがありますし、2021年に大阪文化祭奨励賞をいただいた時は、コロナ禍で文化芸術は社会に対して何ができるのかということをよく言われていたこともあって「僕もそういうことを考えたいと思います」と受賞式で言ったんです。新潟のりゅーとぴあ専属舞踊団Noism Company Niigataについて書かれた記事や『孤独な祝祭 佐々木忠次 バレエとオペラで世界と闘った日本人』(追分日出子著)など、面白かったですね。娘が習っているので、バレエの舞台も観に行きます。バレエは言葉を使わない芸術ですが、太夫も身体を使うので、バレエを観ながら、表現自体はもちろんですが、どういう姿勢が一番いいのか、今この人はどこに重心があるのだろう、などと考えるのも楽しいです。