第39回【私を映画に連れてって!】小泉今日子は観音さまか!?
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
先頃、岸恵子さんが93歳で亡くなられた。いつか映画をご一緒できたらと願ってきたが、叶わなかった。まさに生き方も映画女優と言える方だった。
ぼくと同学年の山口百恵さんは21歳で引退した。『山口百恵は菩薩である』(1979刊)も出版され、映画、ドラマ、歌手と、駆け抜けた人生が話題になった。
ぼくは22歳でフジテレビに入り、いきなり『南極物語』(1983年公開)のスタッフになった。ロケ地の稚内で、目の前にいる高倉健さんに、コーヒーいかがですか? と、ご馳走になった。1981年のことだとすると健さんは50歳。出演者の夏目雅子さんはぼくより1つ年上なので23歳。大スターだった。
あれから45年が過ぎ、2人とも既に鬼籍に入られてしまった。
小泉今日子さんと初めて会ったのは彼女が25歳の1991年。『病は気から~病院へ行こう2』(1992)に主演してもらった。そして今年は還暦を迎えた。
今のところ、ちゃんと一緒に作品を創ったのはこの映画だけである。
それでも時々、キョンキョンとまた映画やるなら……と妄想することが度々ある。アイドル全盛期の頃の彼女とは一緒に映画をやることは想像出来なかった。健さんの影響ではないが、三上博史、真田広之、原田知世、薬師丸ひろ子……と映画をメインの、というか映画俳優との仕事をぼくが望んでいたからだろう。
それが『波の数だけ抱きしめて』(1991)で、『私をスキーに連れてって』(1987)から始まる原田知世三部作がキャスト問題で崩れてしまった。ある意味でプロデューサー側のミスでもあり、原田知世に代わる女優など考えた事もなかった。今なら、スケジュール再調整となるはずだが、当時は既に東宝のラインナップには8月夏休み公開の期日入りのプレスが発表されている。まだ撮影前なのだが、公開まで既に半年ちょっとだった。
ホイチョイ三部作とも呼ばれ、ラストの映画をとにかく公開に間に合うようやるしかない。
幸い織田裕二さんは『彼女が水着にきがえたら』(1989)に続けて出演してくれる。
監督と話し合い、ここはキョンキョンにお願いするしかない! と言う結論に。
シナリオも彼女想定にしながら事務所社長も快諾してくれてホッとしたのも束の間、「本人がNO! なので諦めてくれ……理由は聞かないでくれ!」
時間も無いけど、主演もいない……
この時を思い起こすと、中山美穂さんには感謝しかない。二十歳のトップアイドル。彼女の思い通りの映画にはならなかったかもしれないが、三部作で最もヒットした映画になった。しかも、この時の出会いが無ければ『Love Letter』(1995)も誕生しなかった。変な言い方だが、キョンキョンのおかげでもある。
『病院へ行こう』(1990)は自身の東京女子医大病院整形外科入院物語、そして翌年、念願の千葉県立がんセンターに入院。自分のような「がん患者」しか入院出来なかった。
入院中、1本は看護婦(師)さんにエールを送る『ナースコール』(1992/長崎俊一監督/薬師丸ひろ子、松下由樹)のストーリーを書いた。そして、もう一つ、入院当日に出会った、アイドル歌手志望だった骨肉腫の女子中学生をモデルにキョンキョン想定でシノプシスを創った。
そして退院して、そのシノプシスを元に、直ぐに会いに行った。それまで色々あったが初対面だった。
その場で「やるわ」と。こんなにも自分に正直で実直でストレートな態度に感動した。
その姿は撮影が始まっても同じだった。
2年前の『波の数だけ抱きしめて』をやらなかった理由も聞いた。「あの時は自分が歌手であることのプライドや拘りがあって、自分の出演シーンに多くの(他の人の)歌が流れるはどうなんたろう……」というようなニュアンスの答えだったような記憶がある。ただ、自分が主演だから主題歌を歌いたいという事も無かった。『病は気から』は、まだ新人に近かった広瀬香美さんと喫茶室で何回か会い、主題歌の「愛があれば大丈夫」を創ってもらった。これがシングル盤デビューになった。生番組である「夜のヒットスタジオ」に出演してもらったが、ドキドキしながら歌っていたような記憶がある。
滝田洋二郎監督の現場はいつも笑いで溢れ楽しいのだが、彼女がいることで、スタッフのパッションがより高まっている気がした。
キョンキョンの撮影最終日。彼女のラストカット。まるでコメディ映画のオチのように、笑っていたスタッフの目から突然涙が溢れ、皆が、終わりたくない!! の大合唱のように思えた。
映画が終わると殆ど会うことは無いのだが、ぼくが編成部へ異動になり、ドラマ企画担当になった。社内で「月9」ドラマに是非キョンキョン主演で! という話が持ち上がり、なぜか『病院へ行こう2』で一緒だったぼくが出演オファーもすることになった。当時のフジテレビは、作るのはドラマ制作部プロデューサーだが、キャスティングは編成部メインでやっていた。編成部が年間の全体の番組編成を決めるため、編成主導になっていることが多かった。
誰もが出演したい「月9」ドラマなのだが、キョンキョンはそういう「枠」に出たいと言う願望は殆どなかったのでは。中味の面白さが大事……ぼくが編成部担当としてストーリー(シノプシス)を書いてほしいと。
残念ながらぼくは「月9」のイロハ、ルールをほとんど知らなかった。20%前後の視聴率はノルマというのはわかっていたが。ちょうど『レオン』(1994/リュック・ベッソン監督)が話題になっていて、ジャン・レノの役を女性に代えてキョンキョン、ナタリー・ポートマンの役(12歳)を『お引越し』(1993/相米慎二監督)に出演していた田畑智子を想定して書いてみた。
【刑務所から出所したキョンキョンが、少女と出会い、彼女を救う為に、再び諍いから事件を起こし、ムショに収監されてしまう……】。
今、考えると当時の月9とはかけ離れた内容。しかもメインはこの2人だけ。それでもキョンキョンは乗ってくれ(た気がする)たが「月9」の規定外。最初はスター俳優を増やすところから始まり(当時は新聞のラテ欄で5人の出演者の名前が重要だった)、徐々に内容も「月9」風に……。
結果、タイトルは「まだ恋は始まらない」(1995年10月スタート)になり、中井貴一、坂井真紀、常盤貴子、竹野内豊、草彅剛さんらが出演の月9らしいキャスティングになった。ぼくが依頼したのはキョンキョンだけだったが。
彼女には申し訳ない気持ちで一杯だったが、20%前後の視聴率を取り、それから10数年後に、同じ脚本家(岡田惠和)で小泉&中井で、少し続編的な「最後から二番目の恋」(2012/木曜22時枠)に繋がった時は嬉しかった。
「まだ恋は始まらない」の9月のリハーサルまでぼくも参加していたが、放送スタートの10月には、ポニーキャニオンに出向した。『スワロウテイル』(1996)製作の為である。キョンキョンに依頼された形のドラマ参加であったが、最後は彼女の「次は私も映画やりたい!」の一言で、ぼくもフジテレビを出る決意が出来たのだと思う。
それからも、そんなに会わないが『陰陽師』(2001/滝田洋二郎監督/野村萬斎主演)の撮影現場にお邪魔した時に彼女から「また映画出るなら主演じゃなくて4~5番手が良いな」と。どうやら主演だと見えないものが、それぐらいの番手だとそれぞれの俳優と良いセッションが出来る……というようなニュアンスだっただろうか。確かに主演だとそれ以外の俳優は主演に合わせて芝居をする。4~5番手だと自分が其々にリアクションや演技を色々考えてやれる、ということだろうか。それ以来、彼女に4~5番手で出演してもらえそうな企画をまだ生み出せていないが。
先日、彼女の還暦記念ツアー「KK60 〜コイズミ記念館〜 KYOKO KOIZUMI TOUR 2026」の武道館ライブをテレビで見ていて、改めて、小泉今日子=キョンキョンそのもので、みんなに希望を与えてくれる観音様のような気がした。