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戦後80年 平和への轍 戦争体験者の声 後世に 相澤さんの「聞書ノート」から

タウンニュース

約50年前から戦争体験者の声を記録している相澤さん

今年は1945年8月15日の終戦記念日から数えて満80年を迎える。そんな中、アジア太平洋戦争を経験した人は90歳代の高齢者となり、年々、戦時中の体験談を聞くのが難しくなってきている。

そのような状況を見据えてか、1970年代から緑区内外で戦争を体験した人たちに聞き取りを行い、記録ノートにまとめてきた人物がいる。地域史研究家の相澤雅雄さんだ。先日には公開講座「緑区と周辺域の戦争を記録する-私の聞書ノート」と題した講演を、緑区市民活動支援センターで行った。

「今の私たちの代で記録化を途絶えさせることなく、記録化のために行動していくことが重要」と語る相澤さんに、聞き取りの内容の一部を紹介してもらった。

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十日市場町のI氏

「十日市場町の作業場(精米、野菜などの出荷場所)に神橋小学校の児童が学童疎開で来ていた。戦時中は肥料が無かったので、神奈川方面に馬力を使って汲み取りに行った。行きは空桶の中に野菜を入れていったが、途中でお巡りさんが棒で桶を叩き中に何にか入っていないか検問した。入っていると音が違うので中を確認し、現物はその場で没収されてしまった」

十日市場町のS氏

「田奈弾薬庫で軍曹として任務に就いていた。昭和20年4月に弾薬庫の近くにB29が墜落した。あれは立川の空襲があった夜だったと思う。私は空襲を知らされると直ちに警戒線上の高台に立ち、北の方角を眺めた。どんより曇った空には真っ赤な炎が見えた。これが焼夷弾の実の姿かと驚かされた。すると雲間にB29らしき1機が赤い帯を引いて西進するのを見た。すぐ後方には日本軍の攻撃機『飛燕』が続いていた。飛燕の攻撃を受けた敵機は、火炎のまま飛行し、町田上空で左旋回して田奈部隊付近で自爆し墜落した。部隊ではすぐに厳戒体制をとったが、墜落機が西方の山林で確認された。墜落と同時に爆発炎上し、乗員11人中9人が死亡した。飛行士3人は落下傘で脱出したが内1人は死亡した。乗員の中には通信任務にあたっていた女性2人がいた」

台村町のK氏

「台村町の切り通しの側壁に7カ所の防空壕があった。中で皆連結していた。この防空壕は殆ど使われなかったように記憶している。掘られたのは昭和18年頃という。この切り通しは、昭和15〜16年に開削工事が行われた。開削した土は、現在の勉強堂あたりまでトロッコで運んだ」

十日市場町のK氏

「昭和2年4月に2週間にわたり陸軍士官学校第4中隊の演習が行われ、台村の朕の山でも行われた。その時に『朕思うに―』の朕をとり、この場所を朕の山と呼ぶようになったという。兵士は演習時に、近隣の農家に宿泊した」

三保町出身のK子さん

「小学校6年卒業後に高等科に入学し、2年間の高等科の時に工場へ勤労奉仕した。魚雷の心棒を削る仕事をしていた」

「B29の襲来の時は、三保町の自分の家の防空壕にいつも逃げた。杉沢の実家近くに落ちたB29による爆弾は、家を避けて山中に落ちた。このため家は無事であった。近年発掘され自衛隊によって処理された。杉沢地区の土地開発の時に杉沢の実家付近に落とされた不発弾が埋まっている場所が分かっていた。平成13年10月11日に自衛隊不発弾処理班によって発掘され処理された。焼夷弾はトラック1台分あった」

「玉音放送は、三保町の自宅に居た家族と聞いた。終戦直後は食べ物、衣類は衛生面が悪く、子どもたちが栄養失調で、アメリカのマッカーサーが来日し、日本に脱脂粉乳、コンスターチチーズが届き食事が整った」

青葉区新石川のYさん

「空襲警報が発令されると大騒ぎとなった。サイレンが鳴り、すぐにラジオをつけた。『東部軍管部情報ー、空襲警報発令』と最初に放送された。南山田方面に敵機が飛来する時は、家具・茶箱・行李等を防空壕に入れておいた。中に電気を引き、衣類・樽に入れた味噌等の食べ物・畳を敷いた。防空壕の出入り口は2カ所としておいた」

「1945年3月頃の空襲は、軍用機が高いところを飛んでいて高射砲を射ったが届かなかった。最初の照明弾が落とされると、花火のようにパチパチと鳴り落ちた。大棚と牛久保境の峰道の下には、防空壕が掘ってあり、防空隊が駐屯していた。この防空壕には勤労奉仕でよく行った。防空壕の中に無線機が置かれてあった」

「中川小学校には兵隊さんが駐屯していた。兵隊さんの食事は、竹筒をお茶碗としてコウリャンご飯と胡瓜の漬物だけだった。よく持ってきてくれた。兵隊さんは防空壕掘りをしており、缶詰(煮豆、鮭、カニ、ジュース)をたくさん持っていた。終戦後に私たちに分けてくれた」

「田奈部隊に15〜16人鎌を持って勤労奉仕に行った。山刈りや落下傘の紐、弾を作りに行った。山刈りは兵隊さんの指揮のもと行った。早朝に防寒頭巾を持ってモンペ姿で出かけていった。綱島→菊名→長津田のルートで貨車に乗った。お昼の弁当は、梅干、白米、オカカ、煮物であった。コーヒーを出してくれた。炒った大豆豆を持参した。山刈りは10回ほど行った。動員は冬で足が凍るように寒かった。重労働であった」

「北山田の田んぼや畑には、焼夷弾がたくさん落とされた。焼夷弾は夜に落とされ、照明弾の明かりで昼間のような明るさとなった。今で言う花火のようであった。横浜大空襲の時は、空が真っ赤となった。空からの焼夷弾をリヤカー2〜3台分拾ってきて土留に使った。口火の所に短冊状の木綿布が着いており、この布を集めて日傘の布として使った」

「機銃掃射は昼に有りたくさん行われた。『ヒュー、ヒュー』と音がして飛んできた。機銃掃射の飛行機は小型機であった。機銃掃射があった時に逃げ込む場所を事前に確保しておいたが、畑に行く途中だと大変に困った。中川町では家族3人が機銃掃射にあいケガをした。昼には伝単(宣伝謀略用のビラ)がたくさん落とされた。最初伝単を触ると死んでしまうと噂がたった」

「空襲の時にたまたまお産があり、明かりをつけたため怒られた。理由を言って事なきを得た。明かり防止のため黒布を下げた。玄米3俵だけを物置から畑に持ち出して、家は焼けてもいいように空にしておいた。夜はモンペ姿で寝た。サイレンが鳴るとすぐラジオをつけた。警報の解除時もサイレンが鳴った。終戦の時は、中川農協で玉音放送を聴いた」

川崎市中原区市ノ坪出身のY子さん

「屋敷地に秋田の鎌倉形式の防空壕を作った。中に家具類を入れておいた。横浜大空襲の時に母屋に焼夷弾が落ちて全焼した。防空壕も焼けてしまった」

「女学校2年生の時に学友40人で日本電気に学徒動員で勤労奉仕に行った。会社の入口で整列し進んだ。入口で敬礼をして進んだ。友達らは旋盤を扱ったが、私は事務を行った。日本電気(現・中原区下沼部)には、1年間勤労動員として自宅から徒歩で通った。草履とモンペ姿であった」

「屋敷地に3つの深い池があった。二ヶ領用水を引水していた。空襲の時にこの池に入り首まで浸かっていた。川崎空襲の時は焼け出された人達が川崎方面から大勢家の前の道を通って登戸方面に向かっていた。尻手駅前の国道との交差点に椎ノ木の大木があり、その場所で機銃掃射を受けた。1人が死亡した。艦載機の飛行機で操縦士の顔が見えた。東芝へ動員されていた時で、家から歩いて通っていた」

西八朔町出身のSさん

「新治町円光寺から三保町舊城寺に向かう水田の小路に爆弾が落ちた。川和警察署によって処理された。中山町の御嶽、中原街道交差点近くの家の裏の畑に落ち爆発し、すり鉢状の大きな穴があいた。上山町(現・緑区上山1丁目)付近の水田にも焼夷弾が落ちた。鴨居町(現・鴨居駅南側)の農家に焼夷弾が落ち、母屋が全焼した」

「『B公』(当時はB29をB公と呼んでいた)は、1回に約30機かそれ以上で飛来した。飛行ルートは南方-富士山-十日市場-中山-鴨居-本郷-綱島-横浜だった。終戦直前に新治町に探照燈が築かれた(現・新治町公園付近)。富士山方面から飛来した敵機を探照燈で照らし、どの方向へ飛んで行ったかを確認する任務を担っていた。富士山方面から飛来した敵機の爆音をいち早く探知するための聴音機が設備された」

何十冊にも及ぶ雑記帳

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