藤堂高虎や山鹿素行の築城術とは。江戸時代の城郭の特徴、築城名人について語って参ろう!
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。これよりは戦国がたりの時じゃ!此度の戦国がたりは久方ぶりに城の話をして参ろうではないか。本年(2025年)は大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』に合わせて江戸時代にまつわる話を多く記して参ったわな。故に此度の題目は江戸時代に築かれた城についてじゃ!
皆がよく知る城の多くは我ら戦国武将が戦国後期、あるいは江戸初期に築いたもの。
『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』で描かれておる江戸時代中・後期に築かれた城は決して多くはないのじゃ!
皆々からすれば戦国時代と江戸時代は地続きで、大きな違いがないように感じるやもしれぬが、武士の時代から商人の時代へ、そして機能性の時代から芸術性の時代へと日ノ本のあり方が大きく変わっておるわな。
無論! 戦国時代から江戸時代への移ろいは漸次的ではあるけれども、江戸中期には平和な時代に背中を押されて技術も学問も大きく進歩しておるのじゃ!
城郭も同じく、江戸時代の城は我ら戦国時代とは違った特徴を持っておる。
此度は江戸時代の城郭の特徴や江戸時代の築城名人について語って参ろうかのう!
それではいざ参らん!!
江戸期の築城名人
皆々は戦国の世の築城の達人といえば誰を思い浮かべるかのう。
現世において三大築城名人と呼ばれておるのは、熊本城や名古屋城大天守台を築き、現世でも人気が高い、美しい反りを持つ三日月石垣が特徴の加藤清正。
数え切れぬほどの築城に携わり、層塔型天守や方形の縄張り等、近世城郭の核となる機構を発明した城郭建築の第一人者である藤堂高虎殿。
天下の大坂城を築いた豊臣期屈指の築城名人、黒田官兵衛。
の三人じゃな。
黒田官兵衛と入れ替わりで安土城を築き、石垣造の城を日ノ本に流行らせた丹羽長秀様が数えられることもある!
現世においては築城名人として名が高いのは加藤清正やも知れぬが、江戸期の城に影響を与えたのは藤堂高虎殿じゃ。
従来の城に見られた趣を排し機能性に徹した層塔型の天守や、反りをなくした直線的な石垣。
攻城側の矢が届かぬ程に広く大きな堀を用い、天下普請以降に築かれた城の多くは高虎殿流の城造りにならっておる。
城郭建築は高虎前と高虎後に別れるとまでいわれておるぞ!
藤堂高虎殿が完成させたとすら言える城郭建築であるが、時代が進むと江戸時代に発達した学問によって再び新たな姿を見せるようになる。
まず紹介するのは山鹿(やまが)流と呼ばれし築城術じゃ!
山鹿流とは江戸時代中期を生きた軍学者であり哲学者、山鹿素行(そこう)殿が考えた兵法のこと。
山鹿素行殿は古くは中国から伝わり日ノ本にも大きな影響を与えておる儒学と、我ら武士の生き様である士道の両立融合を唱え、いわゆる“武士道”を完成させたとも言われる人物じゃな!
優れた兵法と道徳観を持つ山鹿素行殿は諸大名から誘いを受け、幾つかの城の築城に関わることとなる。
まず紹介致すのは赤穂城。
忠臣蔵で知られる城であるわな。
山鹿素行殿は赤穂藩滞在中に赤穂浪士を率いた大石内蔵助殿と関わりを持ち、影響を与えておるとも伝わっておる。
(然りながら素行殿は吉良義央殿と親交があったためか後に赤穂事件を痛烈に批判しておる)
そして、もう一つの城が肥前国にある平戸城じゃ!
素行流とされるこの二つの城は至る所に折れを作って直線を減らし、敵方の側面を狙う造りが多用されておるのが特徴である!
特に赤穂城の南側・水手門の辺りはこの後に紹介する星形要塞に似た形で誠に珍かである!
赤穂藩が改易になった折に城に籠って幕府と戦おうと考える家臣が多かったのは、最新の城郭である赤穂城への信頼故であったのかも知れぬわな。
赤穂城も平戸城も戦を経験せずに現世に至っておる為に、山鹿流の築城術にどれほどの実用性と堅牢さがあったのかは分からず終いであるが、素行殿の子孫は平戸藩や弘前藩を支え、素行流自体も大いに流行り、江戸時代の軍学の中心と言える存在にまで成長したのじゃ!
幕末に維新を先導した吉田松陰殿も山鹿流の理念に影響を受けたとされておるわな!
さて、山鹿素行殿の時代からさらに時代は進みて江戸時代後期。
この頃には西洋の築城法が日ノ本に伝わり、西洋流の城郭が築かれるようになった!
皆も大好き五稜郭である!
先にも少し触れたが、いわゆる星形要塞と呼ばれるものじゃな。
星形要塞は敵方がどこへ攻め寄せても、飛び出た角から側面を狙い撃ちできる実に効率の良い形をしておる。
それに加え、武器の進化により発達した大砲への備えもされておるのが西洋の城の特徴である。
日ノ本の城は中心部・本丸が最も高いところにあり、天守が聳(そび)えるのが習いである。
じゃがこれは大砲の格好の的となってしまうんじゃな。
故に西洋の城では外郭の壁を最も高くして、中心部をへこませることで大砲を壁で防ぎ、城内を守る作りをしておるのじゃ!
近代の戦に即した城として、五稜郭の他にも四稜郭や龍岡城が築かれておる。
星形要塞の他にも現世のものにはなじみ深いとある場所も、実は江戸時代後期に守りのために築かれたのが始まりである。
その場所とは、お台場である! 異国からの敵への備えとして、砲台を数多持ついわば最新の城郭であるぞ!
平和になった江戸時代の城
かくして江戸時代に入っても城は進化を続けてきたぞと話して参ったけれども、やはり江戸時代は平和の時代、時代が進むと守りの機能を排して、象徴として再び趣が取り入れられるようにもなったのじゃ!
ちとこの松本城の映し絵を見てくれるかのう。
大天守の右側の小天守は狭間や石落としなど、敵を迎え撃つための機構が備えられておる。
対照的なのが左側、少し時代が進んで改築された折に築かれた月見櫓と辰巳付櫓は守りの機能が省かれておるのじゃ。
なかなかわかりやすい対比であろう!
この変化は現世に残る城郭が公園として整えられておることにも通じておるともいえよう。
敵を妨げる為に複雑に入り組ませた堀を潰し通りやすくしたり、現世流の模擬天守や資料館を築いたり。
無論我らが築き400年以上続く重要な遺構を守ることは忘れてはならぬが、その中で民が楽しめるように形を変えていくのは、2000年続く城郭の歴史の中で、変わり続けた城の在り方の一つなのではないかと、少なくとも今のわしは考えておる!
此度は江戸時代の城について話して参ったが、城は時代や地域、築城者によって千差万別である!
例えば此度紹介した星形要塞は西洋に行けば幾つも見ることが叶うけれども、土塁で築かれるのが主流である西洋の星形要塞とは異なり、五稜郭や龍岡城は石垣造である!!
西洋の築城方式と日ノ本の築城技術が融合した特別なる趣を持っておるわな!
皆々も日ノ本では5万あるとされる城の中から気に入りを見つけてほしいのう!
といった次第で此度の戦国がたりは以上である!
次の話も楽しみにしておるが良い! さらばじゃ!
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)
前田利家
名古屋おもてなし武将隊
名古屋おもてなし武将隊が一雄。
名古屋の良き所と戦国文化を世界に広めるため日々活動中。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』をきっかけに、戦国時代の小話や、戦国ゆかりの史跡を紹介している。