なぜ南大阪線系統だけ線路幅が違うのか?同じ近鉄なのに京都から吉野へ直通できない理由
京都駅から奈良盆地を南下する近鉄特急の終着駅、橿原(かしはら)神宮前。
ここには大阪阿部野橋駅から吉野へ向かう、同じ近鉄の南大阪線系統も乗り入れています。
しかし京都方面の線路が1,435mmの「標準軌」であるのに対し、南大阪線・吉野線は1,067mmの「狭軌」。
同じ近鉄でありながら線路幅が異なるため、京都から吉野へ列車をそのまま直通させることはできません。
なぜ、このような構造になったのでしょうか。
その理由をたどっていくと、現在の近鉄が誕生するはるか以前、大阪南東部を走った小さな私鉄の歴史に行き着きます。
南大阪線が「狭軌」になった原点・河陽鉄道
すべての始まりは、1896(明治29)年に設立された「河陽鉄道」でした。
河陽鉄道は1898(明治31)年3月24日に柏原〜古市間を開業し、同年4月14日には古市〜富田林間まで延伸します。
南河内に本格的な鉄道交通が誕生した瞬間でした。
そして現在まで続く「線路幅の違い」も、このときに生まれています。
河陽鉄道は柏原で官設鉄道の関西本線と接続し、直通輸送を行うことを計画していました。
そのため、関西本線と同じ1,067mmの狭軌を採用したのです。
一方、後に近鉄の主流となる大阪電気軌道の奈良・橿原方面は、1,435mmの標準軌で建設されました。
つまり、近鉄が意図的に異なる線路幅の路線を造ったわけではありません。
それぞれ別の目的を持つ鉄道会社が別々に路線を建設し、それらが後になって一つの会社へ集約された結果なのです。
しかし河陽鉄道の経営は振るわず、事業は河南鉄道へと引き継がれました。
河南鉄道は1902(明治35)年に長野駅(現・河内長野駅)まで路線を延ばし、南河内の鉄道網を拡大していきます。
これが後の大阪鉄道、そして現在の近鉄南大阪線系統へと発展していくことになります。
大阪進出を果たした「大阪鉄道」と巨大電車デニ501系
1919(大正8)年、大阪市内への進出を目指していた河南鉄道は、社名を「大阪鉄道」へと変更しました。
今で言えば、地方鉄道が都心進出を機に社名をリブランディングしたようなものかもしれません。
そして1923(大正12)年、ついに大阪天王寺駅まで路線を延伸。この駅は翌1924年に大阪阿部野橋駅へと改称され、現在まで続く南大阪線の巨大ターミナルとなります。
こうして大阪鉄道は南河内の地方鉄道から、大阪市内と郊外を結ぶ本格的な都市鉄道へと成長していきました。
その大阪鉄道の黄金期を象徴する車両が、1928(昭和3)年に登場した「デニ501形」です。
当時の私鉄電車では15メートル前後の車体も多かったなか、デニ501形は日本初となる20メートル級の大型車体を採用しました。
武骨で圧倒的な姿から「野武士」とも呼ばれ、127kWの主電動機を4基搭載。車内にはクロスシートも備え、大型・高速電車として当時としては非常に先進的な車両でした。
そして、この大型電車が活躍する舞台は南河内だけでは終わりませんでした。
大阪鉄道の路線は、やがて桜の名所・吉野へとつながっていくのです。
大阪阿部野橋から吉野へ 〜異なる会社をつないだ「狭軌」
奈良県側では、大阪鉄道とは別の「吉野鉄道」が吉野方面への路線を建設していました。
吉野鉄道もまた1,067mmの狭軌を採用していたため、線路幅は大阪鉄道と同じでした。
そこで1929(昭和4)年3月29日、大阪鉄道と吉野鉄道は線路をつなぎ、大阪阿部野橋〜吉野間の直通運転を開始します。
現在まで続く、大阪と吉野を結ぶ鉄道ルートがここに完成したのです。
ところが、そのわずか4か月余り後の同年8月1日、吉野鉄道は大阪鉄道ではなく、ライバルだった大阪電気軌道、通称「大軌」に合併されました。
大軌が築いた奈良線や橿原線などの主要路線は、1,435mmの標準軌でした。
つまり、大軌は吉野鉄道を自社に取り込んだにもかかわらず、橿原方面から吉野方面へ自社の列車をそのまま乗り入れさせることができませんでした。
一方、大阪鉄道は会社こそ別になったものの、吉野線と同じ1,067mmだったため、大阪阿部野橋から吉野への直通運転を続けることができました。
近鉄となった現在だけを見ると奇妙に思える線路幅の違いですが、当時はむしろ大阪鉄道と吉野を直接結びつける重要な条件だったのです。
ライバル会社が一つに 戦時統合から近畿日本鉄道の誕生へ
大阪阿部野橋への進出や大型車両の導入など、積極的な拡大を続けた大阪鉄道でしたが、その経営は次第に苦しくなっていきました。
大和方面への路線建設などで多額の負債を抱えたうえ、昭和初期の不況も重なったためです。
一方、大阪電気軌道は1941(昭和16)年に参宮急行電鉄と合併し、「関西急行鉄道」となっていました。
戦時下では国策による交通事業者の統合も進められ、1943(昭和18)年、大阪鉄道は関西急行鉄道に合併されます。
かつて別会社として競合関係にあった大阪鉄道と大阪電気軌道系の路線が、ついに同じ会社の中へ入ったのです。
翌1944(昭和19)年には、関西急行鉄道と南海鉄道が合併し「近畿日本鉄道」が誕生しました。
現在の巨大な近鉄路線網は、この時代にいくつもの鉄道会社が合流したことで形作られていったのです。
終戦後の1947(昭和22)年には、旧南海鉄道系の路線が近鉄から分離され、現在の南海電気鉄道として再出発しました。
一方、旧大阪鉄道の路線は近鉄に残り、現在の南大阪線・長野線などへと受け継がれました。
吉野鉄道の路線も吉野線として近鉄に残ったため、大阪阿部野橋から吉野へ至る一体的な狭軌ネットワークも維持されることになったのです。
なぜ近鉄になっても「狭軌」のまま残ったのか
こうして近鉄の中には、奈良線・大阪線・橿原線などの1,435mm標準軌と、南大阪線・吉野線・長野線・御所線などの1,067mm狭軌という、二つの異なる鉄道網が共存することになりました。
では、会社が一つになった時点で南大阪線側も標準軌へ変更してしまえばよかったのではないでしょうか。
実際、近鉄には大規模な改軌を行った前例があります。
名古屋線はかつて1,067mmの狭軌でしたが、1959(昭和34)年に1,435mmへ改軌され、大阪線との直通運転が可能になりました。
現在の大阪難波・大阪上本町方面と名古屋方面を結ぶ近鉄の長距離ネットワークは、この改軌によって実現したものです。
しかし南大阪線の場合、事情が異なりました。
南大阪線は大阪阿部野橋を起点として吉野線・長野線・御所線などとつながり、すでに1,067mmの線路による一体的な鉄道網を形成していました。
これを標準軌へ変更するとなれば、単にレールの位置を変えるだけでは済みません。
路線全体に加えて、車両や各種設備まで含めた大規模な対応が必要になります。
しかも南大阪線系統は、大阪阿部野橋から南河内や吉野方面へ向かう独自のネットワークとして成立していました。
こうして、河陽鉄道が関西本線との直通を想定して選んだ1,067mmという線路幅は、会社が河南鉄道、大阪鉄道、関西急行鉄道、近畿日本鉄道と変わっても受け継がれ、現在まで残ることになったのです。
2014(平成26)年には、大阪阿部野橋駅の真上に高さ300メートルの「あべのハルカス」が開業しました。
開業当時は日本一高い超高層ビルであり、かつて南河内の小さな鉄道が目指した大阪側の終着点は、巨大な都市ターミナルへと姿を変えています。
その一方で、線路幅だけは1898年に開業した河陽鉄道の時代から1,067mmのままです。
現在、京都方面から吉野へ向かう場合は橿原神宮前で乗り換える必要がありますが、近鉄では過去に、標準軌と狭軌の双方を走行できる「フリーゲージトレイン」を使い、京都と吉野を直通させる構想の研究も進められてきました。
120年以上前、柏原で関西本線とつなぐために選ばれた線路幅が、現在の京都〜吉野間にも影響を残している。
一見すると不思議な近鉄の「二つの線路幅」は、別々の鉄道会社がそれぞれの事情で路線を築き、後から一つの巨大鉄道へ統合されていった歴史そのものと言えるでしょう。
参考文献:近畿日本鉄道公式サイト / 藤井寺市アイセルシュラホール展示資料 / 「2022年富田林と近鉄展」展示資料 / 奈良県立図書情報館「鉄道の敷設 ~永田家文書に見る吉野鉄道~」
文 / 奥河内から情報発信 校正 / 草の実堂編集部