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『将棋フォーカス』講師、中川大輔 八段の素顔に迫る。「一切ぶれずに、わが道をゆく」【将棋講座】

NHK出版デジタルマガジン

『将棋フォーカス』講師、中川大輔 八段の素顔に迫る。「一切ぶれずに、わが道をゆく」【将棋講座】

NHKテキスト『将棋講座』の人気連載「わが道をゆく 強くなるためのメソッド」。プロ棋士の強さの秘密、これまでどんな苦労を重ね、今後は何を目指していくのかなど、プロ棋士の知られざる素顔に迫ります。

今回は、4月から『将棋フォーカス』の講座講師を務めている中川大輔八段をご紹介します。

中川大輔 なかがわ・だいすけ
1968(昭和43)年7月13日生まれ。宮城県仙台市出身。故・米長邦雄永世棋聖門下。1983年に6級で奨励会入会、87年10月四段、2009年八段。1988年度に第11回若獅子戦優勝。2011年度に通算600勝で将棋栄誉賞。奨励会幹事、日本将棋連盟理事、同常務理事を歴任。現東北研修会幹事。

わが道をゆく 強くなるためのメソッド

 令和の将棋界は、流行する戦型も勉強方法もどんどん変わっていく。そんな中で一切ぶれずに、まさに「わが道をゆく」のが、4月から『将棋フォーカス』の講座講師を務める中川大輔八段である。

父から教わる

「将棋は8歳の時に父から教わりました。当時はどこの家にも将棋盤と駒があって、回り将棋やはさみ将棋などの遊び将棋は、もっと前からやっていましたが、いわゆる本将棋は8歳でした。父が『下手の横好き』で、私に相手をさせたかったのでしょう。男の子には野球と将棋をやらせる親が多かったです。キャッチボールはもっと前からやっていました」

 すぐ夢中になったわけではなく、徐々に強くなっていったという。
 
「町の将棋道場に行ったのは小学4年の時でした。今はない仙台駅前の道場です。棋力は4、5級くらいだったかな。道場は土日だけで、平日は本を読んで勉強していました。仙台市なので、書店には地元出身の中原先生(誠十六世名人)の本がたくさん並んでいた。大山先生(康晴十五世名人)の本もよく読みました」

 上達のスピードは緩やかだった。初段になった時のことはよく覚えている。
 
「プロになるような人は『覚えて半年で初段』なんてことも聞くけど、私は遅かった。初段は小6の春でしたね。地元新聞社の初段争奪戦で優勝しました。本当は有段の力があるような実力者も出場していた中での優勝だったので、実際は三段くらいの力があったと思います。田舎の道場は(認定が)からいんですよ。初段はなかなかなれなかった」

とにかく指しまくった

 プロになりたいと思ったのは中学1年の終わり。米長邦雄永世棋聖に弟子入りする。
 
「地元で教わっていた先生に相談すると、私が米長ファンだったこともあり、『好きな先生にお願いするのがいい』と、その場で米長先生に電話してくれました」

 奨励会を受験したのは中2。昭和57年で、羽生善治九段、森内俊之九段、佐藤康光九段、郷田真隆九段ら、そうそうたるメンバーが合格した年だった。
 
「いわゆる『57年組』の年です。100人くらい受験して、おそらく一番多かったんじゃないかな。結果は1次試験を通過したものの、2次試験3連敗で不合格でした。力が及ばなかったですね。中学生名人にもなっていたんですけど、何かが足りなかったんでしょうね」

 ここから翌年の奨励会試験に向けて、猛勉強が始まる。地元で練習相手にも恵まれた。

「同郷で当時奨励会員の庄司俊之さん(現指導棋士四段) が、内弟子を終えて仙台に戻ってきました。同い年なのですが、庄司さんは既に初段でした。香落ちや平手でたくさん指してもらいましたね。この1年で香一本くらい強くなったような気がします」

 そして翌年の奨励会試験は無事合格。中3でのスタートは遅く、高校へは進学せず、将棋一本の道を選んだ。

「中2の奨励会試験に落ちた時点で、高校進学は断念しました。当時の奨励会は、高校にいく人が半分くらいでした。もし中3の奨励会試験で落ちていたら、学校の勉強をするしかなかったでしょうね」と振り返る。

 中学を卒業すると上京。とにかく将棋を指しまくった。最初は仲間と指し、徐々に先輩に教わるようになっていく。

「同期の仲間とたくさん指しました。10秒将棋ばかりでしたね。時には徹夜で指していました。当時の対局時計はブーブー音が鳴ってうるさくて。アパートの隣人に怒られたりしました。先輩に教わるようになったのは、3級くらいになってからです。誰かの代打で研究会に呼ばれると、必死でした。そこで結果を出すとまた呼んでもらえるので、何とか食い下がっていましたね。有段者の将棋は違いました。むちゃな攻めはすぐ切らされる。ためることを覚えた」

 奨励会では順調に昇級、昇段を重ね、約3年で三段に。

「57年組の森内さんや佐藤さんには追い付きましたが、羽生さんだけは対戦できそうなところにもいけなかった」

 当時は三段リーグがなく、四段昇段規定は9連勝や13勝4敗など。その成績に達すれば、人数制限はなく何人でも四段になることができた。ところが中川が三段になって半年ほどで、三段リーグが復活。半年ごとのリーグで2人ずつ、年4人しか四段になれなくなった。

「三段リーグの復活は、2か月くらい前に急に言われました。その数年前、31歳だった年齢制限が26歳になったので、三段リーグ復活と合わせて10年くらい縮んだような感じでした。リーグ初日はよく覚えています。みんな緊張していて、ベテラン陣も雑談することなく、それまでとは別世界でした」

手厚い将棋の基礎

 三段リーグは1期で突破し、四段に。このころで有名なのが、米長道場である。森下卓九段や丸山忠久九段など、後のトップ棋士が多く通った。

「米長道場は平成元年くらいからでした。米長先生が自宅隣の家を買って、道場にして棋士や奨励会員に開放したんです。多くの棋士が通いました。月2回くらい米長先生も来てくれて、指定局面戦とかもやりましたね。テーマを提示され、次回までに研究してくるんです」

 練習対局の場は米長道場だけでなく、研究相手も多岐にわたった。

「丸山さんとは将棋連盟でよく指しました。当時の丸山さんはまだ大学生で、朝の8時に集合して9時半まで指す。そして丸山さんは学校に行き、学校が終わると午後4時から8時くらいまで指すような感じでした。丸ちゃんとは1000番くらい指したかな。藤井さん(猛九段)、深浦さん(康市九段)ともたくさん指しました」

 実戦主体で鍛えてきたが、若手時代は研究家としても名をはせていた。横歩取り、右四間飛車など、特定の戦型を突き詰めた研究は定評があった。
 
 筆者の30年以上前の記憶として、専門誌で連載していた「横歩取り専門学校」は強く印象に残っている。序盤の深い研究は時代を先取りしていたと思う。

「横歩取りは片っ端から棋書を読んで勉強しました。今と違って、当時の定跡書は簡単な内容のものしかなかった。古書店で花田長太郎先生(九段)の本も買いました」

 今月号の講座にもあるように、中川将棋は手厚さにその特長がある。

「実戦集、名局集を繰り返し並べましたね。大山先生、中原先生、米長先生など、昭和の名棋士の将棋を片っ端から。すごい量でした。風情があり、格調高く、力をためる将棋を勉強した。若いころに何百番と並べた将棋は、いまだにしみついている。消えないんです。このころの勉強が手厚い将棋の基礎になったかもしれません」

睡眠より長く勉強

 詰将棋に関しては「将棋図巧」(伊藤看寿) と「将棋無双」(三代伊藤宗看)に取り組んだ。俗に「詰むや詰まざるや」と言われる、江戸時代の難解な作品集である。

「米長先生の『図巧と無双を全部解けば四段になれる』という発言が有名ですね。当然ながら、全員がやれば全員が四段になれるわけではないですけど、米長先生は暗示をかけていたんですね。根性はつきました」

 順位戦ではC級2組で苦労した。デビューから3年連続で8勝2敗、その後3年が7勝3敗。好成績ながら昇級には届かなかった。そして7期目、9勝1敗でようやく昇級。このC級2組時代はとにかく勉強した。質より量だった。

「20代は、がむしゃらでした。とにかくC級2組を抜けたい。量の時代でしたね。運動でいえばウサギ跳びのような、非効率な勉強もあったと思う。でも、とにかく量だった。睡眠より長く勉強することにしていた。それでだめなら才能がないんだと。やってだめならしかたないが、やらなくてだめなのは許せなかった」

 最後にAIとの向き合い方を聞くと、いかにも中川大輔といった答えが返ってきた。トッププロの指す将棋が変わっても、中川将棋は変わらない。

「AIは駆使していません。でも、駆使している棋士が相手なので、無視はできません。AIは活用方法が難しく、私がいまさら使っても『焼け石に水』で、使わなくて勝てる相手にも勝てなくなるでしょう。だからマイナス200点くらいの局面ならしかたないと思っている。AIを使って負けるのは嫌なんです」

 背筋を伸ばし胸を張ってこう語る中川八段は、格好いい。どうか皆さん、講座にも注目してください。

中川大輔 自分年表

1968年7月13日、宮城県仙台市で生まれる。
1982年第7回中学生将棋名人戦で優勝。奨励会を受験、2次試験で不合格に。
1983年6級で奨励会入会。米長邦雄永世棋聖門下。
1985年初段昇段。
1987年10月19日、第1回三段リーグで優勝、四段昇段を果たす。
1988年第11回若獅子戦優勝。
1989年第20期新人王戦で準優勝。
1990年11月27日、五段昇段。
1994年6月28日、六段昇段。
1995年7期目の順位戦でC級1組へ昇級。
1996年第45回NHK杯テレビ将棋トーナメントで準優勝。
1997年順位戦でB級2組へ昇級。竜王戦で1組昇級。
2000年10月20日、七段昇段。
2003年順位戦でB級1組へ昇級。奨励会幹事(5年間務める)。第11期銀河戦で準優勝。
2007年日本将棋連盟の理事に(2010年まで)。
2009年第57期王座戦で挑戦者決定戦に進出するが、山崎隆之七段(当時)に敗れる。12月11日、八段昇段。
2011年日本将棋連盟常務理事に。12月9日、通算600勝を達成し、将棋栄誉賞受賞。
2012年勤続25年表彰を受ける。
2013年日本将棋連盟常務理事に(2017年まで)。
2021年新設された東北研修会の幹事に。

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◆『将棋講座 2024年4月号』より「わが道をゆく」
◆文:高野悟志

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