桑名正博が率いる「ファニー・カンパニー」21世紀の音楽ファンに再発見されるべきバンド
ファニー・カンパニーのボーカリストとしてデビューした桑名正博
2012年10月26日、桑名正博が59歳の若さで逝去した。後年は、けっして派手な活動をしていたわけではないが、他の追従を許さない味を持つ名ボーカリストとして揺るぎのない存在感を示していただけに、残念でしかたがない。僕が最初に桑名正博のことを知ったのは1973年のことだったと思う。その時の桑名正博は、その前年にシングル「スウィート・ホーム大阪」でレコードデビューした “ファニー・カンパニー” というバンドのボーカリストだった。
ファニー・カンパニーが結成されたのは1971年。1960年代に同名のフォークグループでデビューしていたギタリストの横井康和が、まだ18歳だった桑名正博と出会ったことをきっかけに、横井、桑名、古宇田 優、栄 孝志によって大阪で結成されたロックバンドだ。ファニー・カンパニーはライブを中心に活動していくが、当時の日本はようやくフォークが一般的に注目され始めていたくらいで、ロックはさらにマイナーな存在だったため、ほとんどメディアで紹介されることもなかった。しかもファニー・カンパニーは関西を拠点としていたため全国的な知名度は皆無という状態だった。
関西弁ロックの先鞭となった「スウィート・ホーム大阪」
残念ながら「スウィート・ホーム大阪」はヒットしなかった。それでもこのシングルによって、僕の周りでも “大阪弁でロックを歌う変なバンドがいる" と噂になりはじめ、東京の音楽ファンの一部には知られるようになっていった。同曲の作詞は横井康和で作曲が桑名正博。歌詞は大阪弁の日常会話のような感じだけれど、けっしてコミカルなおかしさを狙った曲ではなく、むしろ正統派のブルースロック・ナンバーだ。
曲のタイトルからは、ロバート・ジョンソンが歌ってブルースの定番曲として歌い継がれるようになった「スウィート・ホーム・シカゴ」へのオマージュも感じられる。彼らが「スウィート・ホーム・シカゴ」から感じたインパクトを、大阪で育った自分たちの歌として表現しようとしたのだとしたら、大阪弁で歌うことは少しも不自然なことではないだろう。
ちょうどこの頃、“ロックは英語か日本語か” という “日本語ロック論争” があった。“ロックは英語で歌わなければサマにならないし海外でも通用しない” という英語派と、“海外のロックやブルースは母国語である英語だから、日本人が自分の音楽として表現しようとするなら日本語で歌うのが当然” という日本語派の対立があったのだ。その考え方にならえば、関西を拠点にするロックバンドが関西弁で歌うことも当然なことだったと言えるだろう。
もちろん当時の彼らは、そんな信念を持っていたわけではなく、軽いノリでやっただけかもしれない。それでも「スウィート・ホーム大阪」の演奏、そして桑名正博のボーカルは文句なくかっこよかった。そしてこの曲は、その後、師の上田正樹やウルフルズなどの関西弁ロックの先鞭となったことも事実だ。
東のキャロル、西のファニカン
1973年1月、ファニー・カンパニーはファーストアルバム『FUNNY COMPANY』を発表する。収められている10曲はすべてメンバーが手掛けており、アレンジもバンドで行われている。その意味で、彼らがやりたかったことが、比較的ストレートに反映されたアルバムだろう。このアルバムもヒットしなかったけれど、当時の僕は本格的なブルースロックのアルバムだと感じた。
同じ頃、「ルイジアンナ」(1972年)でデビューしたばかりのキャロルと並べて “東のキャロル、西のファニカン” という声も聞こえてきた。確かにほぼ同じタイミングで、神奈川県で結成されたキャロルと関西で誕生したファニー・カンパニーを対比させることに興味を持つ人もいたとは思う。けれど、これは自然発生的な声というよりも、当時注目度の低かったロックバンドをなんとか売り出したいという宣伝文句のニュアンスが近かったのかもしれない。この頃。すでにファニー・カンパニーは本格的活動のために東京に出てきていたのだから。
音楽性を見ても、キャロルがロックンローラーとしての初期ビートルズのかっこよさをモデルとしていたのに対して、ファニー・カンパニーはブルースをベースにしたロックのスタイルを受け継いでいた。その意味で、関西ブルースやR&Bバンドにも通じる音楽性を感じさせるバンドだった。だから、このふたつのバンドを同列に置くのは少し無理がある。もちろん、ビートルズもブルースロックもルーツまでたどれば同じ根っこに辿り着くけれど、バンドとしての現在形や方向性にはかなり違いがあると感じられた。
さらに言えば、後年桑名正博が語っていたというが、キャロルが音楽による “成りあがり” を本気で目指していたのに対して、ファニー・カンパニーにはどこか “遊びの感覚” があって、そんな音楽に向き合う姿勢の違いも、この2つのバンドを並べることへの違和感を感じた理由だったのかもしれない。
大ヒットを記録した「セクシャルバイオレットNo.1」
結果的にファニー・カンパニーはキャロルのような人気バンドにはならなかった。しかし、ファニー・カンパニーにもスターになる可能性が確かにあった、東京のロックファンの間でファニー・カンパニーが知られるようになってきた頃、知り合いのロック好きの女の子が “ファニカンの桑名くん、カッコいい” と目を輝かせていたのを見たことがある。
そう、ステージに立った桑名正博は文句なくカッコよかった。パフォーマンスも美しかったし、歌唱力も素晴らしかった。そしてなにより、声のセクシーさは群を抜いていた。表現スタイルはまったく違っていたけれど、シンガーとしてのセクシーさという点では、キャロル(矢沢永吉)とファニー・カンパニー(桑名正博)はあの時代の双璧だったとも言えるかもしれない。その後、ファニー・カンパニーは1973年にセカンドアルバム『ファニー・ファーム』をリリースするが、これもセールス的には成功せず、1974年に解散した。
その後、桑名正博はソロ活動に入るが、彼がブレイクしたのは、「哀愁トゥナイト」(1977年)を皮切りに、大ヒットを記録した「セクシャルバイオレット No.1」(1979年)をリリースした時期だった。桑名正博が成功した理由としては、この時期の桑名正博が楽曲を作詞:松本隆、作曲:筒美京平というヒット曲メーカーに任せるなど、歌謡曲路線に接近したということもあるだろう。そして同時に、この頃になってようやく、ロックボーカルのテイストが日本でも受け入れられるようになった時代背景もあっただろう。
実際の活動時期には、知る人ぞ知る存在でしかなかったファニー・カンパニーは、その後、桑名正博が在籍していた伝説のバンドとして知られることとなった。しかし、ファニー・カンパニーの実力、そして彼らが秘めていた魅力は、まだまだ埋もれたままだ。そういった意味でも、ロックシンガーとしての桑名正博とともに、21世紀の音楽ファンに再発見されていいバンドだと思う。