『世界最大級680万人の労力』大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の築造秘話「農民みんなでワイワイ造った?」
大阪府堺市堺区大仙町に所在する「大仙陵古墳(だいせんりょうこふん、通称・仁徳天皇陵)」は、百舌鳥古墳群を代表する巨大前方後円墳である。
その規模は、墳丘長約486メートル(最新測量では約525メートル)におよび、日本最大、かつ世界でも最大級の古墳として知られている。
築造は5世紀中頃(おおよそ441〜460年頃)と推定され、宮内庁によって「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」すなわち伝・仁徳天皇陵に治定されている。
今回は、総延べ680万人以上の人々が関わり、完成までにおよそ16年を要したとされる「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」の築造における驚くようなエピソードを紹介したい。
680万人が関わり16年の期間を要した大仙陵古墳
日本最大の前方後円墳として知られる「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」は、観光案内などではしばしばエジプトのクフ王のピラミッド、中国の始皇帝陵と並んで「世界三大墳墓の一つ」と紹介される。
厳密な学術分類ではないが、その壮大な規模と歴史的意義が世界的にも注目されていることは確かである。
かつて大手ゼネコンの大林組が、この「大仙古墳(仁徳天皇陵)」の築造に必要な労働力と費用を試算したことがある。
それによれば、5世紀当時の技術で築造した場合、1日に最大2,000人が働いたとして、延べ約680万7,000人の労力を要し、完成までには15年8か月を要したとされる。
また、その建造費を現代の金額に換算すると約796億円(試算当時の金額)にのぼるという。
仮に現在の工法で同規模の古墳を造るとすれば、延べ6万2,000人の人手と約10億円の費用がかかると見積もられている。
いずれにせよ、想像を絶するような、まさに国家を挙げての一大事業であったことは間違いない。
では、その築造に駆り出された人々は、この巨大な古墳づくりにどのような思いで携わっていたのだろうか。
領民たちが自らすすんで古墳造りに従事した
ヤマト政権の大規模な古墳には、葬られる権力者が生前から築造を始める「寿陵(じゅりょう)」という考え方があった。
これは単に被葬者の生前の健康などを祈るためだけでなく、「古墳に眠る首長の霊を祭祀することによって、ヤマト政権下の人々がともに豊かになる」という、その支配下にいる人々の信仰に基づくものだった。
そのため、多くの人々(主に農民)は、この信仰に従い、自ら進んで巨大古墳の築造に参加したと考えられている。
古墳の築造工事は、もちろん農閑期を中心に行われた。
弥生時代以降に本格化した稲作は、ヤマト政権の王にとっても極めて重要な事業であったからである。
また、古墳築造に参加した農民たちには、その報酬として鉄製農具などが授けられた。
貨幣経済が未発達で、農業が基幹産業であった当時において、農作業の効率を高める鉄製の道具は何よりの報酬だったといえよう。
このように、朝廷の指示を受けた各地の首長たちは、集落の余力がある時期に農民を集め、古墳造りに従事させたと考えられるのである。
巨大古墳は領民の幸福のために築造された
巨大古墳造りは、現代でいえば「公共事業」のようなものであったと評価することができそうだ。
それは大仙陵古墳が、ほかの三大墳墓であるクフ王のピラミッドや秦の始皇帝陵とは、その性質が全く異なっている点にある。
クフ王のピラミッドや秦の始皇帝陵も、大仙陵古墳同様に、計画的な国家プロジェクトのもとに築造されたと考えられている。
しかし、陵墓とも最終的には被葬者個人のための墓であった。
一方、大仙陵古墳をはじめとするヤマト政権下における古墳造営は、王権の権威を示すと同時に、領民の安寧と豊穣を祈る祭祀の場としての意味を帯びていた。
つまり、巨大古墳は単なる権力者の墓ではなく、王と民とが共有する「共同の祈りの場」であり、国家の繁栄を象徴する公共的建造物であったといえる。
そして、そのような性格の古墳はいつしか「名前をもたない首長霊の祭祀の場」となった。
ほとんどの古墳に葬られた被葬者の名前が伝わっていないのは、このような理由からだと考えられているのである。
※参考文献
武光誠著 『古墳解読 古代史の謎に迫る』 河出書房新社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部