元は闇市、混沌と変化の中で歩み続けるアメ横の成り立ちを振り返る【アメ横商店街連合会会長・星野勲インタビュー】
アメカジスタイルを象徴するアイテムといえば、やはりデニムだろう。もとは炭鉱労働者をはじめとするワーカーたちのための破れにくく、丈夫な作業着。その堅牢さは、やがてカウボーイたちへと広まり、スクリーンを通して多くの人々の目にも届くようになった。デニムは単なる作業着から、時代を映すファッションアイテムへとその地位を確立していったのである。海を越えて日本へとやってきたデニムは、いまや日本が誇る一大産業へと成長した。これほど身近な存在になったいまだからこそ、その歴史を改めて知ってほしい。きっと、デニムを穿くことがもっと楽しくなるはずだ。それでは、日本のデニム文化を支えてきた街、東京・上野のアメ横を知るべくアメ横商店街連合会会長・星野勲さんにお話を伺った。
東京におけるデニムの聖地はいかにして誕生したのか?
JR上野駅から御徒町駅まで約450メートル、ガード下を中心に約400店舗が軒を連ねる、東京を代表する商店街「アメ横」。百貨店やチェーン店では扱わない食材や衣料品など、個性豊かな個人商店が並び、国内外から多くの人が訪れる活気あるエリアだ。
アメ横の街とともに育ち、アメ横プラザ内で国産バッグを中心に扱う「WORKS」を営んで45年目の星野さんは、その歴史をこう語る。
「現在のアメ横プラザは昔、変電所でした。変電所を空襲から守るために、今のセンタービルの三角地帯に人が住んでいたのを移転させて空き地にしたんです。その空き地から青空市場として闇市が始まったのが1945年頃。その後は、戦後の混乱の中で闇市の取り締まりが行われて、当時の下谷警察(現・上野警察)が実業家である近藤広吉氏に区画整理を依頼したことで“近藤マーケット”が誕生します。これが、現在のアメ横の基盤ですね」。
1950年頃、朝鮮戦争を機に米軍の物資が流入すると、街は大きく変わる。
「ジッポのライターやハーシーズのチョコレート、万年筆……。そのなかには、中古で血がついたり穴があいたりしているようなジーンズもあったと聞きます。そういった米軍の払い下げ品を売る店が増えた中で、上野や御徒町でも次第にデニムを扱う店ができていったんです」。
時代とともに、乾物や鮮魚から化粧品、輸入雑貨、飲食店へと業態が変化し続けているアメ横。一方で、変わらないものもある。
「ごちゃごちゃした雑多な感じとか、対面販売のかたちはずっと残っていると思いますね。値切りの文化を作ったのはアメ横だとされていて、昔は『これいくらになるの?』というお客さんの言葉からやり取りが始まっていたんですよ。今はネットでなんでも買える時代になりましたが、実際に手にとって商品を直接見ながら買い物をする人はまだいますし、対面でのやり取りを楽しみにアメ横へ来ている方もいるんじゃないかと思いますよ」。
衣食住にまつわる店舗が凝縮されたこの街は、来年で誕生から80年を迎える。「長く続けている店もあれば、辞める店もある。またそこに新しく入ってくる店もあって、街はずっと変わっていく。でも、それがアメ横だと思います」。
その言葉通り、アメ横は今もなお混沌としたエネルギーと絶え間ない変化の中で、その姿を更新し続けている。
年表で振り返るアメ横の変遷
1945年
終戦後の物資不足のなか、上野駅周辺で闇市が誕生
1946年
警察による闇市の取り締まり後、近藤広吉氏が、現在のアメ横のルーツとなる「近藤マーケット」を設立。この頃から飴を売る店が並び始める
1950年
朝鮮戦争を機に駐留アメリカ軍由来の物資が流入し、ジーンズや軍服などの中古衣料を扱う店が増える。アメリカ軍の払い下げ品を販売する街として、「アメヤ横丁」だけではなく「アメリカ横丁」とも呼ばれるように
1960年ごろ
現在まで続く老舗のアパレル店などが、ミリタリーやアメカジの展開を強化。若者たちのファッションの街として存在感を高めていく
1970~80年代
高度経済成長とともに、地域密着型の市場から雑多で国際色豊かなショッピングエリアへと発展
1990年〜現代
デジタル化やインバウンド需要の高まりを受け、情報発信を活発化。オンライン展開や食の多様化など、時代に合わせて街の魅力を更新し続けている。