#3 地位・肩書にとらわれない「幸福」――岸見一郎さんが読む、マルクス・アウレリウス『自省録』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
哲学者・岸見一郎さんによる
マルクス・アウレリウス『自省録』読み解き #3
NHK「100分de名著」ブックス一挙公開
自らの戒めと内省こそが、共生への道となる――。
名君と名高いローマ皇帝マルクス・アウレリウスが、自己の内面と徹底的に向き合って思索を掘り下げ、野営のテントで蠟燭を頼りに書き留めたという異色の哲学書『自省録』。
『NHK「100分de名著」ブックス マルクス・アウレリウス 自省録』では、困難に立ち向かう人を勇気づけ、対人関係に悩む人へのヒントに満ちた不朽の名著である『自省録』を、『嫌われる勇気』で知られる岸見氏がやさしく解説します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします
(第3回/全5回)
『自省録』から浮かび上がるアウレリウス像
アウレリウスは、プラトンが理想とした哲人政治を具現した賢帝といわれます。アウレリウス自身も「哲学者が統治するか、統治者が哲学をするかなら国家は栄える」と語っていたと伝える歴史書もあります(『ヒストリア・アウグスタ』所収、ユリウス・カピトリヌス『哲学者マルクス・アントニヌスの生涯』)。
著書の中でプラトンの対話篇から何度も引用しているアウレリウスが、プラトンの国家論を知らなかったわけはありません。プラトンは政治に失望し、哲学に向かったというのではなく、むしろ、政治と哲学をどのように一本化できるかを考えました。
そして、国家の正義も個人の正義もすべて、真の意味での哲学からこそ見て取ることができると考えるようになり、政治的権力と哲学的精神が一体化しなければ、国家にも人類にも不幸の止むことはないという哲人王の思想に結実していきます。
プラトンの国家を望むな。わずかでも前進すれば十分だと考えよ。そして、その成果を僅かなものと考えよ。
(九・二九)
哲人政治を遠い目標とし、「成果を急ぐな」と自分を戒めているのか、とても無理だと考えて「足もとの一歩に専心せよ」と説いているのか。この一文からはわかりませんが、そもそも彼の中に“哲人”になることを望む気持ちはあっても、“政治家”になることを目指していたわけではなかったでしょう。皇帝として宮廷で生きることを、どれほど憂慮していたかがわかるのが次の文です。
早朝に自分に向かっていえ。私は今日もお節介で恩知らずの傲慢な欺瞞的な嫉み深い非社交的な人間に出会うだろう。
(二・一)
彼らは互いに軽蔑し合いながら互いにへつらい合う。そして、相手に優越しようと欲しながら互いに譲り合う。
(一一・一四)
そんな人々の中で持ち上げられ、自分を見失ってはいけないと、彼は自分に繰り返し言い聞かせています。
皇帝化させられてしまわないように、染められないように注意せよ。それは現に起こることだから。
(六・三〇)
皇位にあっても、皇帝化されてはいけない。皇衣の紫に染まり、追従に溺れて、自分と地位とを同一視するようなことがないようにと諫めているのは、ともすると人間は──彼自身も含めて──勘違いしがちだということを自覚していたからでしょう。昇進し、肩書きが付くと自分が偉くなったような気がするのか、急に居丈高になる人もいます。逆に肩書きを失うとがっくり肩を落とす人もいます。地位・肩書きは、人としての価値を表すものではないことを、アウレリウスの言葉は端的に教えてくれます。
宮廷での日々は、彼にとって決して楽しいものではありませんでした。そこから逃げ出したくなる気持ちを諭すかのような言葉が随所に出てきます。
生きることのできるところでは、善く生きることもできる。ところで、宮廷においても生きることができる。したがって、宮廷でも善く生きることができる。
(五・一六)
「善く生きる」というのは、プラトンの『クリトン』に出てくる言葉です。ソクラテスは、「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなく、善く生きることである」といっています。
「善く生きる」とは、幸福に生きるということです。後にもう少し詳しく見ますが、ギリシア語では「善く」を名詞化した「善」には道徳的な意味はなく、自分のためになるという意味です。自分のためにならないこと、不幸であることを欲する人はいません。しかし、どうすれば幸福であることができるかは自明ではありません。どうすればよいのか。そのことについて、アウレリウスは絶えず考えていたように見えます。
お前が今いる状況ほど哲学するために適した生活はないということが、どれだけ明らかに納得されることか。
(一一・七)
これも自分に言い聞かせているように見えます。宮廷での生活が哲学に適していると本当に思っていたとは考えられないのですが、すぐ後で見るように、ストア哲学は実践の哲学なので、現実の生活を離れたところで思弁するような哲学ではなく、むしろ、現実の生活の中でこそ考え抜かなければならない。そうアウレリウスは考えていたでしょう。
されば、お前は自分自身を単純で、善良な、汚れのない、威厳があり、虚飾のない、正義の友で、敬虔で、親切で、愛情深く、義務に対して熱心である者であるようにせよ。哲学がお前を形作ろうと欲したような人に変わらずあるように励め。神々を敬え。人を救え。人生は短い。
(六・三〇)
この一文については、第4章でも別の角度から考えてみたいと思いますが、ここで押さえておきたいのは、彼が人としてどうありたいと考えていたのかということと、それは哲学によって形作られるものだと説いている点です。
哲学者として生きることと、宮廷生活の現実という相容れない二つのものを彼がどのように消化し、バランスをとろうとしていたのかがわかる文章があります。
もしもお前に義母と生母が共にいるならば、義母に仕えながら、それでも生母の元に絶え間なく帰り行くことになるだろう。それが今のお前には宮廷と哲学である。哲学にしばしば戻っていき、そこに身を寄せ、休息せよ。それによって、宮廷でのこともお前に我慢できるものに思われ、お前もその中にあって我慢できる者に(他の人に)見えるのだ。
(六・一二)
哲学者として生きたいという思いと、皇帝として生きなければならない現実との間で生きたアウレリウスの言葉は、日々仕事に明け暮れて、自分が本当にしたいことをしていないと思う現代の人々にも響くのではないかと思います。つらい仕事、不本意な仕事をしていても、支えとなるものが心の内にあれば、そこは誰にも侵されない安息の場となり、そこで心の平静を取り戻すことができれば、つらいばかりにしか見えない毎日を送っていても、人生を違った目で見ることができるでしょう。アウレリウスは皇帝として生きるしかありませんでしたが、私たちは彼と違う決断をすることもできるでしょう。
自分自身の人生を取り戻さないで、意に沿わない生き方をしていれば、人生はたちまち過ぎ去っていきます。
肉体に関わるすべてのことは流れであり、魂のことは夢であり、妄想である。人生は戦いであり、客人の一時の滞在である。後世の評判は忘却である。 (二・一七)
(二・一七)
そのような人生で、
我々を守ることができるものは何か。それはただ一つ、哲学だけだ。その哲学とは、内なるダイモーン(神霊)を辱められず、傷つけられぬものにし、また、快楽と労苦に打ち克ち、何一つでたらめにすることも欺瞞と偽善をもってすることもなく、他人が何をするかしないかには何も求めない者として守り抜くことである。
(同前)
哲学はそこに身を寄せ休息する場であるだけでなく、私たちを守るものでもあるとアウレリウスはいっています。「内なるダイモーン(神霊)」とは理性のことです。これについてはすぐ後で見ます。哲学が理性を守り抜くものであるというのは、哲学がなければ理性を守れないということでもあります。「他人が何をするかしないかには何も求めない」ということについても後に見ますが、私たちは他人のことが気にかかり、他人の言動が私たちの心の平安を脅かすことがあります。哲学はそんな私たちを守るのです。
全生涯を、あるいは若き日からこれまでの生涯を学者として生きることは、もはや不可能であるということ、それどころか、自分が哲学から遠く離れていることは、他の多くの人々にもお前自身にもはっきりしたということも虚栄心を持たぬために役立つ。それゆえ、お前は汚れており、哲学者としての名声を得ることはお前にはもはや容易ではない。生活の基盤もそれに抗っている。
(八・一)
善良な魂を守ってくれるのは「ただ一つ、哲学だけだ」と語りつつ、哲学を心の内に持ち続け、それを実践して生きることは、アウレリウスにとっても容易なことではなかったようです。
著者
岸見一郎(きしみ・いちろう)
京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。奈良女子大学文学部(ギリシア語)、近大姫路大学看護学部、教育学部(生命倫理)、京都聖カタリナ高校看護専攻科(心理学)などで非常勤講師を歴任。専門の哲学と並行してアドラー心理学を研究。精力的に執筆・講演活動を行っている。著書に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健と共著/ダイヤモンド社)、『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵』(講談社)、『プラトン ソクラテスの弁明』(KADOKAWA)など、訳書に、アドラー『人生の意味の心理学』(アルテ)、プラトン『ティマイオス/クリティアス』(白澤社)など。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス マルクス・アウレリウス 自省録 他者との共生はいかに可能か』(岸見一郎著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
*本書で紹介する『自省録』の言葉は著者訳です。目下、刊行されている日本語訳には、神谷美恵子訳(岩波文庫)、鈴木照雄訳(講談社学術文庫)、水地宗明訳(京都大学学術出版会西洋古典叢書)があります。
*引用訳文末にある数字「(□・◯)」は、『自省録』中の「□巻・◯章」を指します。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2019年4月に放送された「自省録」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「生の直下で死と向き合う」、読書案内などを収載したものです。