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「未来を予見する人」夏目漱石――姜尚中さんが読む、夏目漱石『こころ』(1)【月曜日は名著ブックス】

NHK出版デジタルマガジン

「未来を予見する人」夏目漱石――姜尚中さんが読む、夏目漱石『こころ』(1)【月曜日は名著ブックス】

月曜日は「名著ブックス」

古今東西の名著を、著名な講師陣が読み解く「100分de名著ブックス」。
累計70万部を突破した本シリーズの中から、今回は政治学者の姜尚中さんによる夏目漱石『こころ』読み解きを紹介します。
功利的な生き方を否定し、あえて“真面目さ”の価値を説いたこの作品を通して、人との絆とは何かを考え、モデルなき時代をより良く生きるための「心」の在り方を探ります。
(第1回/全4回 本書籍「はじめに」からの抜粋です。)

はじめに── 「心」を書こうとした作家

 大好きな夏目漱石について語りはじめて、はや七年になります。公の場でわたしの考えを初めて発言したのは、「100分de名著」の前身的な番組である「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」(二〇〇七年七月)でした。それから今日までの間に、出版物やメディアで言及する機会があるたびに作品を読み直し、漱石その人についても考え直してきましたが、いまだに新しい発見があります。興味は尽きることがありません。

「私のこだわり人物伝」では「未来を見通していた人」というコンセプトでその作品世界を総論的に概観しましたが、本書では『こころ』に特化して語ります。漱石の中でももっとも好きな小説なので、うれしいですね。

 この作品は大正三年(一九一四)に「朝日新聞」紙上に連載されたもので、作品史としては、明治四十五・大正元年に発表された『彼岸過迄 (ひがんすぎまで)』『行人(こうじん)』とあわせて「後期三部作」と呼ばれたりします。若い学生の「私」が、夏の鎌倉の海岸で「先生」という謎めいた人物と知り合い、親交を重ね、やがてその秘密をすべて明かされます。しかし、その長い告白の手紙を読み終わったとき、「先生」はもうこの世にいない、という物語です。

 小説の主眼は「先生」という屈折した人物の「心」の軌跡をたどることにあり、まさにぴったりのタイトルです。が、じつはここにはちょっとした裏話があるのです。

 漱石は当初、人間のさまざまな「心」を切り取った短編をいくつか書き、全部あわせて『心』という名の作品集にしようと考えていたのです。この小説はその第一弾として連載が開始され、原題は『先生の遺書』になっていました。ところが、初めの意図と違ってかなりの長編になってしまったため、結局、この一本のみで『心』とすることにしたのです。

 短編か長編かということは別として、ここで私は、明治から大正への変わり目の時代に、「心」という、ある意味どまんなかのタイトルをつけて近代人の心の奥底を描こうとした漱石の挑戦に、深く思いをいたすのです。小説の中には明治天皇が崩御(ほうぎょ)し、「明治の人びと」が時代の終わりを慨嘆(がいたん)する場面が出てきます。じっさい彼らは感無量だったと思います。というのも、明治時代はこの国の「近代の幕開け」であり、文明や科学や技術や合理的思考など、劇的な変革が数々もたらされました。しかし、同時に個人の孤独や人間関係の荒廃など、抜き差しならないものももたらされました。ですから、鋭敏にものを考える人はことさらな思いをもって来し方をふりかえり、先行きに必ずしも明るくないものを感じたはずなのです。言ってみれば、すでに災いの種子のようなものがまかれてしまっていることに、改めて気づくような──。

 そんな知識人の不安の情景を、漱石は「心」という名の小説群に描こうとしたのではないでしょうか。

 当時の作家の中でも、このようなまなざしは独特でした。それゆえに、漱石は「文壇」から孤立していたのでしょう。漱石は、そのころ主流であったいわゆる私小説の作家たちとは一線を画していました。“両雄”と言ってよい森鷗外とも違っていました。違っているどころではなく、あざやかに対照的でした。

 鷗外は明治の終焉(しゅうえん)の号砲を聞くや過去に目を向け、「歴史小説」を書きはじめました。そこに「失われてしまった美しいもの」を見たからです。しかし、漱石は歯を食いしばって前に向かいました。「あまりいいこともありそうにない憂鬱(ゆううつ)な未来」から目をそむけなかったのです。その意味では、ややパターン的な分類ですが、明治の終わりとともに鷗外は「様式」に向かい、漱石は「心」に向かった──といえるのかもしれません。

「未来が閉塞すると、人は過去へ戻りたがる」という言葉があります。しかし、漱石はそれをしませんでした。本人の語彙(ごい)を使えば、涙をのんで上滑(うわすべ)りに滑りながら、ぎりぎりもちこたえたのです。血を吐く思いで、じっさい近代の深淵を書くことの重圧から心身を病んで血を吐きながら、前のめりに滑っていったのです。その態度を私は「漱石的真面目」と名づけたいと思います。その真面目さが、私を惹(ひ)きつけてやまないのです。

 見渡せば、いま個人と個人の距離はますます隔たって、隙間風(すきまかぜ)が吹き荒れているようです。一つ一つの心は宇宙の塵(ちり)のようにみじんにバラけて、無音の真空空間をさまよっているようです。「心の時代」と言われて久しいですが、おそらくいまほど心の問題を考えねばならない時代はないでしょう。「未来を予見する人」漱石は、こんな今日のわれわれの「心」のありさまも、見通していたのかもしれません。

*小説のタイトルは、その後、出版社によって『心』『こころ』と、漢字、ひらがなが混在することになりましたが、本書ではひらがなを用います。

著者

姜尚中(カン・サンジュン)
政治学者、東京大学名誉教授。国境を超越し、「東北アジア」に生きる人間として、独自の視点から提言を行っている。著書に『マックス・ウェーバーと近代』『オリエンタリズムの彼方へ』『ナショナリズム』『姜尚中の政治学入門』『日朝関係の克服』『悩む力』『続・悩む力』『心』『心の力』など多数。
※全て刊行時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス 夏目漱石 こころ』(姜尚中著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。

*本文中の漱石の作品からの引用は、すべて岩波書店刊『漱石全集』(一九九三~九九年)によっています。原稿のルビのほかに、読みやすさを考慮して編集部によるルビを[ ]でくくって付けました。その読みは現代仮名遣いにしています。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2013年4月に放送された「夏目漱石 こころ」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たにブックス特別章「「心」を太くする力」などを収載したものです。

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