武者小路実篤の愛人からヒロポン常用へ 〜文壇を騒がせた女流作家・真杉静枝の波乱の生涯
昭和の初め、妻子ある一流文学者・武者小路実篤と男女の関係になり、その支えを受けながら文壇デビューを果たした女性がいた。
彼女の名は、真杉静枝(ますぎ しずえ)。
武者小路と別れた後も、中村地平や中山義秀など、当時の文壇で注目を集めていた男性たちと深い関係を結んでいった。
数々のスキャンダルと文学活動の間を生き、53歳で世を去った真杉静枝とは、どのような女性だったのだろうか。
台湾で育ち、17歳で結婚するも家出 武者小路実篤との出会い
明治34年(1901)10月、真杉静枝は福井県丹生郡殿下村、現在の福井市域に生まれた。
3歳の時、父親が台湾中部の神社で神官を務めることになり、一家で台湾へ渡った。
成長した静枝は台中高等女学校を中退した後、台中病院附属の看護婦養成所に入り、卒業後は同病院で看護婦として働いた。
しかし17歳の時、両親の意向で、台中駅の助役をしていた13歳年上の藤井熊左衛門と結婚させられた。
夫は放蕩や暴力を繰り返し、結婚生活は長く続かなかった。
4年後、21歳になった静枝は夫のもとを飛び出し、大阪の祖父母を頼る。
その後、静枝は大阪毎日新聞の婦人記者となり、やがて白樺派を代表する作家・武者小路実篤と知り合った。
武者小路は理想郷を求め、宮崎県に「新しき村」を開いたことでも知られる、当時の文壇を代表する作家の一人だった。
やがて妻子ある武者小路と静枝は恋愛関係になり、小説家を志していた静枝は彼の指導を受けながら作品を書くようになる。
昭和2年(1927)、武者小路が主宰する雑誌『大調和』8月号に、自身の結婚生活を題材にした処女作『駅長の若き妻』を発表し、文壇への第一歩を踏み出した。
その後は長谷川時雨が主宰する『女人芸術』などにも作品を発表するようになったが、当時の静枝は作家として以上に「武者小路実篤の愛人」として世間の注目を集めた。
評論家の小林秀雄は、そんな頃の静枝について「白粉を真白に塗って、武者小路の後を得意がってくっついていた女」と評した。
武者小路との関係は数年に及んだが、妻子ある大作家との恋愛は、やがて終わりを迎えることになる。
新進作家との同棲、芥川賞作家との結婚、、、醜聞の持ち主となる
その後、静枝は「1人でも生きていけるほどにもう少し強くなれるまで側においてほしい」と年下の新進作家・中村地平のところへ押しかけ、強引に同棲を始めた。
昭和13年(1938)暮れには、武者小路や中村との恋愛など、自身の体験を題材にした作品を収めた最初の創作集『小魚の心』を刊行する。
翌昭和14年(1939)、静枝は中村とともに18年ぶりに台湾へ渡り、現地で暮らす家族と再会した。
中村にとっては小説の取材も目的の一つだったという。
しかし、この台湾旅行を境に二人の関係は次第に破綻していった。
それでも関係はすぐに完全に途切れたわけではなかったようで、静枝が腹膜炎で入院した際には、中村が約2か月にわたって病室へ通い、食事などの世話をしたという。
一方、戦時中の静枝は戦地慰問や従軍取材にも積極的に参加した。
昭和15年(1940)末には陸軍報道部主催の「南支那派遣軍慰問団」に加わって中国南部へ渡り、昭和17年(1942)には新潮社の中国戦地特派員として再び中国へ赴いている。
そして同じ昭和17年(1942)、静枝は妻を亡くしていた芥川賞作家・中山義秀と結婚する。
二人は鎌倉の極楽寺で、中山と亡き妻との間に生まれた子供たちとともに新しい生活を始めた。
しかし結婚生活は次第にうまくいかなくなり、戦時中の食糧不足に加えて静枝に家事をする能力がないことがわかった中山は彼女に苛立ち、飲酒をして怒鳴ったり日本刀を持って「殺すぞ」と脅したりしたという。
さらに敗戦後には、台湾から引き揚げてきた静枝の両親や妹一家を静枝が援助するようになり、このことも中山との関係を悪化させた。
結局、二人は昭和21年(1946)に離婚し、4年間の結婚生活に終止符を打ったのである。
戦後も続いた奔放な活動 ヨーロッパでの奇行と53歳の死
戦後、静枝は娯楽月刊誌『鏡』を創刊したが、雑誌経営には向いていなかったようで、わずか3号で廃刊となった。
その一方で、新聞の身の上相談で回答をしたり、広島の原爆で傷を負った少女たちの支援に奔走したりしている。
昭和27年(1952)には、被爆女性たちの窮状を訴える公開状をアメリカの作家パール・バックへ送り、支援への協力を求めた。その頃には、アメリカ人青年との恋愛もあったという。
戦後も静枝は文壇で幅広い交流を続けており、昭和26年(1951)には、来日した世界的ヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインの公演で、川端康成や三島由紀夫らとともに姿を見せている。
昭和28年(1953)、静枝はダブリンで開かれる国際ペンクラブ大会の日本代表として渡欧した。
大会前にはロンドンに滞在し、読売新聞の特派員としてエリザベス2世の戴冠式を取材している。
華やかな着物姿でパーティーに出席した静枝は現地の新聞にも取り上げられたが、この旅に同行した小説家・火野葦平は、エッセイ『淋しきヨーロッパの女王』の中で、静枝のことを空気を読まない自己顕示欲の強い人物で、出たがり・目立ちたがりの五十路の「元美人」というように描いている。
静枝はこの旅でも、おかしな行動を繰り返した。
遅刻の常習犯だった彼女を待ったため一行が汽車に乗り遅れた時には、「日本ペンクラブの代表なのだから、次の駅で汽車を待たせるよう駅長に電報を打ちましょう」と言い出し、一行をあ然とさせた。他にも約束をすっぽかすなど、わがままな振る舞いが目立った。
この頃の静枝はすでにヒロポンを常用しており、彼女にとって手放せないものになっていたという。
昭和26年(1951)には「覚醒剤取締法」が成立していたが、価格が安く入手しやすかったヒロポンは、芸人や役者などの間でも広く使用されていた。
その後、ヨーロッパ旅行から2年後の昭和30年(1955)6月29日、静枝は肺がんのため53歳でこの世を去った。
静枝はこの世を去る約1年前に1枚の書置き(遺言状)を残しており、『許して下さい』という題の文の中で、しきりに人々へ許しを求めていた。
また静枝は、ペンクラブ大会出席のために渡欧した際の航空券代を未払いのままにしていた。
小説家・吉屋信子の回想によれば、葬儀の日には航空会社の社員が現れ、その代金を香典の中から支払ってほしいと請求したという。
吉屋は『自伝的女流文壇史』の中で「航空券を未払いのままにしていて、香典の集まる日まで待たした旅行者は彼女以外あまりいないと思う、悲しい中にユーモラスな感じさえ湧いて彼女のしんの逞しさに驚嘆した」と記している。
参考文献
林真理子「女文士」集英社 2015、吉屋信子「自伝的女流文壇史」講談社 2016
火野葦平『淋しきヨーロッパの女王』新潮 1955年1月号
廖秀娟「〈女学生〉から読む真杉静枝の戦時下文学」『第46回国際日本文学研究集会予稿集』国文学研究資料館 2023年 他
文 / 草の実堂編集部