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【入れ墨を背負った大臣】小泉又次郎とは「孫は首相、曾孫は防衛大臣に」

草の実堂

画像:小泉又次郎(1865~1951) public domain

小泉又次郎(こいずみ またじろう)は、1929年7月から1931年4月まで続いた濱口内閣と、1931年4月から1931年12月まで続いた第2次若槻内閣において、逓信(ていしん)大臣を務めた政治家である。

逓信省は交通や通信、電気を幅広く管轄していた省庁であり、現在の総務省や国土交通省航空局、日本郵政や日本電信電話(NTT)などの前身に相当する。

第33代逓信大臣に任命された又次郎は、異色の出自を背景に持つ人物だった。

何せ又次郎の実父である鳶職人の由兵衛(よしべえ)は、神奈川県の横須賀で請負業を取り仕切った、いわゆる任侠の親分だったのである。

横須賀を牛耳る任侠の次男として生まれ育ち、早逝した兄に代わって家業を継ぐはずだった又次郎は、なぜ政界に飛び込み、逓信大臣という要職を務めるまでに上り詰めたのだろうか。

今回は「入れ墨のまたさん」「入れ墨大臣」と呼ばれた政治家、小泉又次郎の生涯を紐解いていく。

父の意思に反抗し続けた少年時代

画像 : 小泉又次郎 public domain

小泉又次郎が生まれたのは1865年6月10日のことで、和暦では慶応元年にあたる。

又次郎の父であり鳶職人だった小泉由兵衛は、又次郎が5歳になった頃に現在の横浜市金沢区大道にあたる六浦荘村大道から横須賀に移住し、1884年に設置された横須賀鎮守府にて、海軍の軍艦に物資や労働者などを送り込む請負業を営むようになった。

由兵衛率いる「小泉組」は、同じく横須賀で請負業を仕切っていた旧勢力の博徒の組を相手に縄張り争いに打ち勝ち、横須賀随一の請負業者となっていったのだ。

又次郎が誕生した当時、由兵衛は先祖代々受け継いできた鳶職を生業としていた。

又次郎も父と同じく家業の鳶職に就くものとされていたが、少年期の又次郎は家業を嫌い、軍の将校を志すようになったという。

14歳で横須賀学校を卒業した後、父に無断で海軍士官予備学校の旧制攻玉社中学校に入学したが、あえなく連れ戻されてしまう。

横須賀に連れ戻された後は、母校の横須賀学校の助教員として働いていたが、軍人として生きる道を諦められず、再び家族に無断で家を飛び出して陸軍士官学校に入学した。

実家を出奔して東京の陸軍士官学校に向かう又次郎は、その道中で板垣退助の演説を聴いて感銘を受け、地位や性別で有権者を区別しない普通選挙論者になったという。

任侠一家の後継ぎとなるべく全身に「入れ墨」を彫る

画像:又次郎が入れ墨として彫ったとも伝わる水滸伝九紋龍の図 public domain

家業を嫌って陸軍士官学校に入学した又次郎だったが、長男として父の跡目を継ぐはずだった兄が急死してしまい、またもや父に連れ戻されてしまった。

父に厳しく叱責された又次郎は軍人の道を諦め、兄に代わって父の跡を継ぐ決意の証明として、背中から二の腕、足首に至るまで入れ墨を彫ったという。

又次郎が全身に入れ墨を彫った理由には、軍人を目指す意志との決別の意味があったといわれるが、実際は小泉組を継ぐ親分として箔をつけて、横須賀に流れてきた有象無象の荒くれ者たちをまとめ上げるためだったともされる。

横須賀に海軍鎮守府が置かれた1884年は、又次郎が19歳になる頃だった。

父から家業と跡目を継ぐ覚悟を決めた又次郎は、土木請負業として横須賀で力を持ち始めた小泉組の跡取りとして多くの仕事場に顔を出し、職人たちに指示を出す役目を担った。

父の友人の誘いに乗って「立憲改進党」に入党、後に代議士になる

画像:島田三郎, 1852 – 1923 public domain

次第に職人たちから信頼を得ていき、若くして「親分」と呼ばれるようになった血気盛んな又次郎は、拳銃を懐にして仲間たちと暴れまわっていた。

幼い頃から腕っぷしの強さで知られていた又次郎は、横暴なふるまいで知られていた博徒の組との度重なる抗争を制し、横須賀で暮らす平民たちからの人気を集めるようになった。

転機が訪れたのは、1887年のことだ。

10代の頃から普通選挙に対する熱い思いと、貴族政治に対する猛烈な反発心を胸に抱いていた又次郎は、父と親交のあった衆議院議員・戸井嘉作の誘いを受けて立憲改進党に入党し、普通選挙運動を主導した島田三郎に師事した。

家業を弟の岩吉に譲り、東京横浜毎日新聞の記者の職を経て、1903年には神奈川県議会選挙で当選し、入党からちょうど20年後の1907年に横須賀市会議員に当選した。

翌年の1908年には衆議院選挙で初当選し、庶民派の代議士として大きな存在感を示していくようになる。

記者からの質問に、歯に衣着せぬべらんめえ口調で答えて啖呵を切る政治家・小泉又次郎は、人々から「野人の又さん」と呼ばれ慕われた。

「野人」とは粗野な田舎者を意味する言葉だが、又次郎に関しては親しみを込めてそう呼ばれたという。

濱口内閣に入閣し、逓信大臣となる

画像:大礼服姿の小泉又次郎(宝樹院所蔵) public domain

「野人の政治家」として名を轟かせた又次郎が、大臣となったのは1929年のことである。

1928年に満州で勃発した「張作霖爆殺事件」の事態収拾失敗を理由に田中義一内閣が総辞職し、次に組閣された濱口雄幸内閣にて、又次郎は逓信大臣に任命された。

これは周囲どころか、又次郎本人の予想に反する起用であった。

又次郎も当初は自分自身が入閣するとは思ってもおらず、濱口の説得を受けて入閣を決心したという。

新内閣の大臣として天皇に謁見する際には、最上級の正装である大礼服を持っていなかったため、知人から借りてその場をしのいだ。

後にこの話を聞いた地元横須賀の支持者たちは、「おらが野人先生」のために募金を集め、又次郎に大礼服を仕立てて贈ったという。

「野人先生」から「入れ墨大臣」に転身した又次郎は、濱口内閣、第2次若槻内閣で逓信大臣を務め、その後も1946年に公職追放されるまで、翼賛政治会代議士会長や小磯内閣顧問などの要職を務め、貴族院議員にも勅撰された。

今もなお続く政治家一家・小泉家

画像:又次郎と家族 左から、純一郎(孫)、又次郎、正也(孫)、純也(婿)public domain

在任期間38年、81歳まで代議士としてあり続けた政治家の血脈は、今もなお受け継がれている。

又次郎の愛娘・芳江の婿である小泉純也は、芳江との結婚を又次郎に認めてもらうために代議士となり、後に衆議院議員、防衛庁長官などを務めた。

純也の長男であり、又次郎にとっては孫にあたる人物が、第87~89代内閣総理大臣を始めとする数々の大臣職を歴任した小泉純一郎だ。

さらに又次郎の曾孫は環境大臣や農林水産大臣を歴任し、2025年10月21日に成立した高市内閣で、第28代防衛大臣を任命された小泉進次郎である。

日本における議会政治の黎明期に、裏社会から政治の世界に飛び込んで名を馳せた政治家は少なくはない。

しかし又次郎のように大衆から慕われ、子々孫々までもが大物政治家となる礎を築けた人物は、稀な存在だといえるだろう。

参考 :
浅川博忠(著)『人間小泉純一郎:三代にわたる変革の血』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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