秀吉が酒造りを指図した「天野酒」日本最古級の僧坊酒を今に伝える酒蔵【河内長野市】
かつて大阪の南河内地域にある富田林寺内町では、「黄金の水」と称されて数多くの酒蔵が存在しました。
しかしかの地の酒蔵はすでになく、酒蔵をリノベーションしてオープンしたクラフトビール万里春が、唯一の醸造施設となりました。
そして南河内で唯一残っている日本酒蔵が、お隣の河内長野市にあります。
300年の歴史がある天野酒こと西條合資会社です。
「地域に愛される酒蔵でありたい」との当代蔵主(十代目社長の西條陽三さん)の思いから、毎年地域の人向けに普段非公開の蔵内を開放し、ホタルを愛でるホタルの宴を毎年行っています。
しかし天野酒は、創業よりもはるかに古い中世寺院の酒造りを伝える、希少な復刻酒を醸しています。
その名は「僧坊酒(そうぼうしゅ)」です。
僧坊酒とは?
日本酒が日本で作られるようになったことについて、日本酒造組合中央会の見解として、紀元前300〜200年頃の稲作の到来とともに「口噛み酒」としてスタートしたと推定しています。
その後、『魏志』東夷伝には倭人が酒を飲んでいたことが記され、『播磨国風土記』には、カビの生えた干し飯を用いて酒を造った話が見えます。
さらに持統天皇の時代には、宮内省の造酒司(みきのつかさ)に酒部(さかべ)が置かれ、酢や甘酒と同じく、政府の役所で酒が造られていたとされています。
それが平安時代以降、大和や河内などの大寺院で作られるようになったものが、僧坊酒です。
その頃の大寺院は、荘園から納入される米や貴族などから集まってくる寄進によって経済の中心地となっていました。
その様式は、中世戦国時代のころまで続きます。
本来、仏教では飲酒は戒のひとつとして禁じられていました。しかし中世の寺院社会では、神仏習合や荘園経営の広がりの中で、酒は儀礼や経済と結びついていきます。
浄土系の教えでも、戒を厳格に守れない人々をどう救うかという視点が重視され、飲酒をめぐる受け止め方は一様ではありませんでした。
ちなみに日本以外、ヨーロッパでもキリスト教の修道院で酒を醸造している記録があります。
現在でも、ベルギーのトラピストビールやワイン(キリストの血として聖餐式で使用)を醸造しているという例があります。
さて僧坊酒を作っていた大寺院の中に、河内長野市にある天野山金剛寺があります。
金剛寺文書によれば、鎌倉時代の1234年(1233年とも)に金剛寺の僧坊酒に関する記述が残っているとのこと。
後の1300年代の南北朝時代になると、金剛寺は後醍醐天皇側につきます。
南朝2代目の後村上天皇は、一時期、金剛寺境内に行宮(天野山行宮)を設置したり、北朝方の上皇や天皇を境内に幽閉するなど、政治的にも存在感が大きな寺院でした。
そういう事情から、もしかしたら南朝の天皇や北朝の天皇らも僧坊酒を飲んでいたかもしれません。
天下人秀吉が酒造りに関して書面で指示
その後、金剛寺は室町時代の1432(永享4)年頃から「天野酒」の販売を本格化して収入を得ていたという記録があります。
当時の天野酒は三大美酒のひとつとして名を馳せました。
そんな天野酒を愛した歴史上の偉人といえば、天下人の豊臣秀吉です。
こちらは、天野山金剛寺に残されている豊臣秀吉からの朱印状です。
16世紀、桃山時代の朱印状で、2022年に京都国立博物館の特別展で展示された際の図録を撮影したものです。
上の書の要約です。右横に解説があり、それによれば、世の中に灰汁(あく)を入れる酒があることを秀吉が知り、天野酒の醸造過程を訪ねた上で、「その点を心得よ」と書いてあります。
つまり天下人の秀吉自ら、酒造りに関して指図をしているわけです。
次に自分に献上する酒については「入念に樽に詰めて渡すように」と、きわめて指示が細かく、それだけ天野酒のことを秀吉が好きだったのだろうということがわかります。
また、天下統一する前の1584(天正12)年、ちょうど小牧長久手の戦いの頃、羽柴秀吉が大阪府河内長野市の金剛寺(天野山金剛寺)へ宛てて出した「朱印状(しゅいんじょう)」にも、秀吉と天野酒との関係を記した書があります。
この時の内容としては、贈り物として酒樽1つが届いたことを感謝していて、「いつもながらの細やかな心遣いが嬉しい」と書いてありました。
そして「詳細は使者の中江左近兵衛から伝えさせる」と続いています。
酒蔵は近世でも酒は中世以前の物
平安から江戸の初期のころまであった僧坊酒は衰退し、現在の製法に通じる蔵元による日本酒が主流になっていきます。
日本酒造組合によれば1698(元禄11)年の幕府の調査で、全国の醸戸数2万7251戸、酒造米高90万9337石、醸造石数高91万9839石もあったそうです。
こうした中、1718(享保3)年に西條(合資会社)が現在の河内長野で誕生しました。
ただしこの時点では天野山金剛寺とは直接関係がありませんでした。
(日本酒造りの行程)
明治維新以降も盛んだった日本酒蔵でしたが、1970年代前半をピークに減少に転じていきます。
河内長野市内にも一駅先の南海高野線三日市町駅近くに味香一政宗を醸造していた八木家など酒造メーカーがありましたが、廃業していきます。
そして、西條合資会社も存亡の岐路に立たされます。
そんな時に「天野酒」を名乗るあるきっかけがあり、今に至るまで愛される酒造会社として続いて行きます。それはどういうきっかけだったのでしょう。
(毎年行われている酒蔵見学会)
1971(昭和46)年、ある大手酒造メーカーから天野山金剛寺が持っていた「天野酒」というブランド名を使わせてもらえないかと寺に打診がありました。
しかし金剛寺は、「天野酒と言う名前をどうせ復活させるなら」と、同じ河内長野市内に残る酒蔵「西條合資会社」にそういう話があったことを伝え、「天野酒を名乗らないか」と話をします。
こうして西條合資会社は天野酒の名を継ぎ、ブランド名を天野酒と変えます。
そして「どうせ天野酒の看板を名乗るなら、かつて金剛寺が作っていた僧坊酒を復興させよう」と誕生したのが天野酒の僧坊酒です。
こうして僧坊酒は現代に蘇りました。
古来の技法として「御酒之日記」に伝えられる僧坊酒の作り方を忠実に再現しつつ、現代の技法を組み合わせています。
そして最終的な味わいを、かつての僧坊酒に近づけるために研究を重ねたうえで復刻したのです。
僧坊酒を実際に飲んでみたその味は?
(僧坊酒の裏ラベル)
ということで、鎌倉時代の製法を忠実に再現したという僧坊酒を実際に味わってみることにしました。
日本酒度がマイナス100前後という話を聞いただけで、かなり甘いことがわかるお酒です。
飲んだ感想としては「確かに甘い、けれど後から苦みも来る」です。
一般的な日本酒よりはるかに甘い、そういう風に聞いていたのでかなり覚悟はしていましたが、そこまで甘すぎることもなく、かなり重厚な古酒のような味わいでした。
西條合資会社の西條社長は「僧坊酒は絶対にアレンジしない、これは伝統の作り方をそのまま伝える必要があるから」と語っています。
そして「現代において、河内長野が最古の日本酒を作っているのではないか」とも。
奈良なども古い僧坊酒を復刻させていますが、西條社長によれば、それよりも200年も早く、金剛寺文書の1234年(鎌倉時代)の記録に残っているお酒を忠実に再現しているからだと言います。
1234年の段階で僧坊酒が醸造されたという記録があり、それを忠実に復刻したのであれば、大阪府河内長野市が日本最古級の日本酒を今に伝えている、といってよいでしょう。
天野酒(西條合資会社)
住所:大阪府河内長野市長野町
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩5分
参考文献:『日本酒造組合中央会』『天野酒(西條合資会社)の小冊子』
京都国立博物館 編『特別展河内長野の霊地 観心寺と金剛寺』
文 / 奥河内から情報発信 校正 / 草の実堂編集部