新国立劇場の2025/2026シーズン オペララインアップを発表~暗い世相を映す無調音楽《ヴォツェック》の黒い世界と、父を殺された憎しみから復讐を誓う《エレクトラ》の緋色の世界
新国立劇場2025/2026シーズン、オペラ ラインアップが発表になった。今年の新制作はアルバン・ベルク作曲《ヴォツェック》とリヒャルト・シュトラウス作曲《エレクトラ》という強烈な色彩の2作品である。
オペラパレスのホワイエで開かれた説明会には、大野和士 オペラ芸術監督が登壇した。最初の話題は二つの新制作について。2025年11月に上演される《ヴォツェック》と、2026年6〜7月に上演される《エレクトラ》だ。いずれも大野芸術監督がタクトを取る。
《ヴォツェック》は大野が上演に注力する20世紀オペラの中でも、金字塔として世界中で上演が繰り返されている作品だ。今回、演出を手がけるのは英国の巨匠リチャード・ジョーンズ。新国立劇場では2009年にショスタコーヴィチ《ムチェンスク郡のマクベス夫人》が彼の演出で上演されているが、他にも2011年バイエルン国立歌劇場来日公演のワーグナー《ローエングリン》、東京二期会が2017年に上演したR・シュトラウス《ばらの騎士》なども、ジョーンズの演出として記憶に残っている。大野とは彼が音楽監督を務めていたモネ劇場でプロコフィエフ《炎の天使》、大野がスカラ座で指揮した《ムツェンスク郡のマクベス夫人》などで一緒に仕事をしている。
大野監督は作品について、「《ヴォツェック》は難解なオペラとして知られています。マリーとヴォツェックの大変な貧困生活、マリーをたぶらかす鼓手長、そして嫉妬にかられれたヴォツェックが及ぶ行為など、オペラの原作であるビューヒナーの世界がよく描写されているのです。無調音楽で書かれているけれど、それに脅かされないでほしい。このオペラは全三幕が30分、30分、第3幕はそれより少し短い、という構成で全体が1時間30分ほど。実は垣根を越えやすい作品だということを聴衆の皆様に知ってほしい」と語る。
「《ヴォツェック》の楽譜を見ていると、無調の中にも“ワルツ”と書いてあるところがあります。あるいは“アダージョ”で鼓手長が緩やかにアリアを歌っているような場面も出てくる。そしてマリーがヴォツェックとの子供を抱きながら6拍子で歌う場面も(実際に口ずさむ)。様々なフーガも出てきます。それらは聴き馴染んでくると、ああ、こう来た、そう来た、と耳への喜びをもたらしてくれるのです」
「最後の幕にはピアノのソロが弾くポルカも出てきます。これらが、非常に瞬発力と集中力のあるリチャード・ジョーンズさんの息を呑むような演出の合間に聴こえてきますから、それをもって《ヴォツェック》に向き合っていただけたらと思います」
「ヴォツェックは最後にはマリーのことを殺してしまい、自らもどん底の境地となり息絶えるという、凄まじい内容を持ったオペラですが、そこかしこに、ベルクの人間の本質に対する愛情がでてきます。それを舞台と音楽で皆さんに体験していただけるよう、私たちも演奏していきたいです」
一方、リヒャルト・シュトラウスが《サロメ》の次に発表した《エレクトラ》は、オペラ史上最大規模といえる分厚いオーケストラと、ドラマティックな声に支配された音楽を持つ。
大野監督は《ヴォツェック》に引き続き、歌やオーケストラの音を口ずさみながら説明する。
「《エレクトラ》は、最後のバババーン、バババーン(歌う)というのが何度も出てくる終わり方が印象的。頭の中は殺された父の復讐を果たすことで一杯のエレクトラ、そして姉とは違い復讐を積極的に遂げたいとは思わない妹のクリソテミスがいて、そこに他所の土地を放浪していた弟オレストが、ついに復讐の時が来たと帰ってきます。そして敵討をするわけです」
「復讐が成就した後に、エレクトラが長大なアリアを歌います。そして最後に息が絶えて「ダーン」と。そこで照明(あかり)がダーンと消える、という演出が多いです。今まで私は《エレクトラ》を何度か指揮しましたが、そうですね、5回違うプロダクションでやって、消えなかったことは一度だけでした(笑)。今回の演出家エラートさんがどのようにやってくれるのか楽しみにしています」
「演出家のヨハネス・エラートさんとは、フランクフルト歌劇場で現代オペラの新作を一緒にやりました。その時に現代オペラの一筋縄ではいかないような複雑な箇所をうまくオペラ化して、雅やかな素敵な舞台を作ったと覚えています」
「《ヴォツェック》は音楽のクオリティの素晴らしさは今ご説明しましたが、ストーリーは暗い物です。ところが《ヴォツェック》が黒だとしたら、《エレクトラ》は緋色(赤)。燃えたぎるような色が《エレクトラ》だと思います。そしてそれが非常にエネルギッシュなのです」
「オレストが母であるクリテムネストラを舞台裏で殺める時に「ああ〜!」という凄まじい声がして、私が初めて《エレクトラ》を聴いた時には、さっきまで麗しい声で歌っていた歌手が、こんな声で叫ばなければいけないんだ、と驚愕しました。これが復讐なんだ、と。その時に音楽における復讐とはこういうものかと思った次第です」
「そしてエレクトラの最後。これはもう彼女が声と全身の力を振り絞って歌います。最初から最後まで手に汗握るオペラであることを、ぜひ聴衆の皆さんに知っていただけたらと思います」
2025/2026シーズンのオペラは全10演目あり、他はプロダクションとしては再演だが、出演者には今注目の歌手が顔を揃えている。
10月の開幕演目はプッチーニの青春オペラ《ラ・ボエーム》。粟國淳演出の豪華にして繊細な舞台が長い人気を保つプロダクション。ミミには情感豊かな表現が得意なマリーナ・コスタ=ジャクソン、ロドルフォには23年に《シモン・ボッカネグラ》アドルノ役に出演したルチャーノ・ガンチ、マルチェッロにはイタリアの実力派マッシモ・カヴァッレッティが出演。伊藤晴のムゼッタも楽しみだ。指揮は名匠パオロ・オルミ。
11月《ヴォツェック》は指揮・演出は上記の通りだが、ヴォツェック役に世界的スターで新国立劇場への出演も多いトーマス・ヨハネス・マイヤーが出演(2009年に歌ったヴォツェックは彼の新国立劇場デビューだった)、マリーはドラマティックな表現で活躍するジェニファー・デイヴィス。大尉を歌うアーノルド・ベズイエンは世界最高峰のキャラクター・テノールだ。
12月にはグルックの《オルフェオとエウリディーチェ》。舞踊家・勅使川原三郎の演出・美術・衣裳。世界で活躍する勅使川原の美の世界が戻ってくる。指揮には「オペラに魂を注いでいる」園田隆一郎を迎え、キャストもエウリディーチェをイタリア古楽のスペシャリスト、ジュリア・セメンツァートが、前回はカウンターテナーが歌ったオルフェオを今回は現代世界最高峰のアルト歌手サラ・ミンガルドが歌うのも注目だ。
年が改まって2026年1月にはヨハン・シュトラウス2世の《こうもり》がある。ウィーンの名テノール、ハインツ・ツェドニック演出のプロダクションで、指揮は若手のダニエル・コーエン。アイゼンシュタインにドイツ語圏で活躍を続けるトーマス・ブロンデル、ロザリンデには2023年に新国立劇場で《タンホイザー》エリーザベトを歌ったサビーナ・ツヴィラク。オルロフスキー公爵に快進撃を続けているカウンターテナーの藤木大地が出演するのも見逃せない。
2月にはヴェルディ《リゴレット》の再演がある。エミリオ・サージ演出は登場人物たちの孤独をクローズアップするもので、象徴的で美しい舞台美術も印象的だ。リゴレットを演ずるのはヴェルディ・バリトンとして名を馳せるウラディーミル・ストヤノフ。ブルガリア出身でイタリアで特に高い評価を得る世界的なバリトンである。ジルダは中村恵理、マントヴァ公爵はローレンス・ブラウンリーと名演が期待できる顔ぶれ。指揮はイタリア・オペラの名手ダニエレ・カッレガーリ。
3月に上演されるモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》も新国立劇場で長く愛されているプロダクションだ。グリシャ・アサガロフ演出は舞台を水の都ヴェネツィアに移し、ドン・ジョヴァンニを18世紀に実在したカサノヴァになぞらえている。指揮は新国立劇場でもおなじみの飯森範親。歌手は題名役のヴィート・プリアンテをはじめとするイタリア人歌手が集結、ドンナ・アンナは新国立劇場《椿姫》《ルチア》《シモン・ボッカネーグラ》などへの出演で観客に愛されているイリーナ・ルングが歌う。
次に上演されるのは4月のヴェルディ《椿姫》だ。ヴァンサン・ブサール演出の象徴的な美しい舞台。今回はヨーロッパで活躍する英国人指揮者レオ・フセインが登場。ヴィオレッタを歌うカロリーナ・ロペス・モレノは今、イタリアの歌劇場で次々と同役を歌って大きな成功を収めているソプラノだ。アルフレードはリリックな美声のアントニオ・コリアーノ、ジェルモンは新国立劇場における23年の《リゴレット》《シモン・ボッカネグラ》も記憶に新しい名歌手ロベルト・フロンターリだ。
5月にもイタリアの名作オペラが続く。ドニゼッティ《愛の妙薬》だ。チェーザレ・リエヴィ演出のカラフルで遊び心がいっぱいの舞台。世界の一流劇場やコンサートホールで活躍するイタリア人指揮者マルコ・グイダリーニが指揮をする。ヒロインのアディーナを歌うのはオペラ界の新星としてイタリアやヨーロッパで大活躍中のフランチェスカ・ピア・ヴィターレ、ネモリーノは22年の《椿姫》アルフレード役を歌って伸びやかな美声で魅了したマッテオ・デソーレ。ドゥルカマーラのマルコ・フィリッポ・ロマーノ、ベルコーレのシモーネ・アルベルギーニと、イタリア人キャストが豪華に揃った。
5月にはもう一本、遂にフランス・オペラの名作が登場する。ゲーテの原作があまりにも有名なマスネ《ウェルテル》だ。2016年にニコラ・ジョエル演出で新制作された舞台は正統派アプローチで評判になったもの。今回の指揮はこれまで新国立劇場で《エウゲニ・オネーギン》《椿姫》を指揮したアンドリー・ユルケヴィチ、ウェルテル役はリリック・テノールの世界的スター、チャールズ・カルトロノーヴォが新国立劇場初登場。シャルロットはヨーロッパを中心に快進撃を続ける脇園彩、アルベールに実力派須藤慎吾、ソフィーに注目の砂田愛梨など充実のキャストだ。
そしてシーズン最後の演目、6月のR・シュトラウス《エレクトラ》。演出のヨハネス・エラートは近年、ヨーロッパで高く評価されているアーティストの一人。ドイツ生まれで、ウィーンでヴァイオリンを学び、ウィーン・フォルクスオーパーのオーケストラ奏者だったというユニークな経歴を持つ。エレクトラはこの役を多く歌っているエストニア出身のソプラノ、アイレ・アッソーニ。オレストは新国立劇場でもお馴染みの名バス・バリトン、エギルス・シリンス、そしてクリテムネストラに藤村実穂子、クリソテミスにヘドヴィグ・ハウゲルド、エギストに工藤和真と万全の布陣だ。
シーズンごとに新しい発見のある新国立劇場のオペラ公演。2025/2026シーズンにもきっと心躍る出会いが待っていることだろう。
取材・文=井内美香 写真撮影=長澤直子