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『風、薫る』今井益男のモデル・佐藤三吉とは?大関和(りん)はなぜ帝大病院を去ったのか

草の実堂

画像 : 佐藤三吉(東京帝国大学医科大学長)public domain

NHK連続テレビ小説「風、薫る」に登場する帝都医科大附属病院外科教授・今井益男(演・古川雄大)は、厳格な医師として描かれている。

しかし物語が進むにつれ、患者や看護婦の想いをまったく理解しない人物ではなく、厳しさの奥に人間味を持つ人物であることも見えてきた。

この今井益男のモデルと考えられるのが、医学博士の佐藤三吉(さとう さんきち)である。

佐藤三吉は正岡子規の手術を行い、明治天皇・大正天皇の診療にも関わったとされる名医で、のちに東京帝国大学医科大学長なども歴任した、近代外科医学の重鎮であった。

そして佐藤三吉は、ヒロイン・一ノ瀬りん(演・三上愛)のモデルとされる大関和(おおぜき ちか)とも、帝大病院で同じ時期に働いていた。

大関和は、後に帝大病院を退職することになるが、親しく付き合っていたという三吉は、なぜ彼女を守りきれなかったのだろうか。

今回は、佐藤三吉と大関和の関係、そして三吉が執刀した正岡子規の手術について紹介したい。

被災した故郷で救援活動した佐藤三吉

画像 : 佐藤三吉(東京帝国大学医科大学長)public domain

佐藤三吉は1857年に大垣藩士・佐藤只五郎の子として、現在の岐阜県大垣市に生まれた。

13歳のころに父親を亡くし、義兄の援助により上京した三吉は、医学者で言語学者でもある司馬凌海(しば りょうかい)の塾で学んだのち、大学南校へ進んだ。

1882年に東京大学医学部を卒業した三吉は、翌年からドイツに留学して外科学を学び、帰国の際にはロンドンの病院も見学した。

帰国後は東京帝国大学教授に就任し、のちに外科学第二講座教授となるが、この間の1891年に故郷である岐阜県で濃尾地震が発生している。

三吉は自ら被災地に赴き、被災者の手当てをおこなったという。その働きに対して、宮中から感状も送られている。

内閣府の資料には「帝国大学佐藤三吉氏一行」とあるため、医療チームを率いる形で救援にあたったのだろう。

朝ドラ「風、薫る」で、今井益男はりんにこう語っている。

「もし私が患者なら、命より重んじるものがある、という考えは否定しない。あるいは君が患者の友人ならわからなくもない。」

患者に寄り添おうとするりんの気持ちを、頭ごなしに否定しているわけではない。
これは帝大の教授でありながら自ら被災地へ赴いた三吉の姿とも、どこか重なって見える。

りんのモデルとされる大関和も、患者に深く寄り添い、時には面倒を見すぎるほどの看護をしていたという。

そんな和を高く評価していた三吉も、厳しさの奥に人情味を持つ人物だったのかもしれない。

佐藤三吉と大関和の仲の良さ

画像:日本髪ではない日本最初の看護婦。前列右より二人目が大関和(おおぜき ちか)出典:『植村正久と其の時代 第5巻』1888年 public domain

大関和は1888年に、帝国大学医科大学第一医院の外科看病婦取締となり、約2年間働いた。

このとき佐藤三吉は教授として就任していたので、この2年間一緒に働いていたことになる。

三吉は機転が利き正確な判断ができる和のことを、誰よりも高く評価していたという。

和は家老の娘ということで、病院に治療に来る上流階級の患者たちからも信頼され、仕事ぶりでは仕事仲間からも羨望の目で見られていた。

しかも美人だったため、若い男性医師や病院の男性職員たちから、かなりモテていたそうだ。

三吉は和のことをほかの医師たちと同等に扱い、周りにも「友人」と公言していたという。

家もご近所だったこともあり、休日が合うとお互いの家を行き来するなど、家族ぐるみの付き合いをしていた。

だがやがて、和に対する周囲の信頼は少しずつ揺らいでいく。

佐藤三吉は、なぜ大関和を守りきれなかったのか

画像 : 佐藤三吉(1857-1943)public domain

仕事に熱心であるほど、和の日々は次第に過酷になっていった。

キリスト教徒だった和にとって、信仰は大きな支えだったのだろう。病院でも患者や周囲の人々に神の教えを説くなど、キリスト教の教えを熱心に伝えていくようになる。

しかし、その熱心さは病院内で問題視されるようになり、上層部からも度々叱責を受け、和に対する周囲の見方も少しずつ変わっていった。

さらに和は、かねてから不服だった看護婦の待遇についても意見するようになる。
外科部長だった三吉に宛て、看護婦の増員や昼夜二交代制、休息時間の確保など、看護婦の待遇改善について建議書を提出した。

ところが医師たちは、自分たちを通さずに直接トップである三吉に訴えたことに反発し、和への批判はさらに大きくなっていった。

大騒動になったこの件を収めるには、三吉も医師たちの意見を受け入れるしかなかったのだろう。

こうして三吉は和の能力を認めながらも、1890年に病院内の秩序を重んじ、看病婦取締から外す判断をした。
和は解雇されたわけではなかったが、その年に帝大病院を退職し、高田女学校の舎監兼伝道師となっている。

のちに新宿中村屋の創業者となる相馬黒光は、『穂高高原』の中で、当時の三吉と和をめぐる事情を次のように記している。

果たして佐藤三吉博士も辟易、女史のあまりに熱心な伝道、それに注がれる烈々の情の避退策として、ちょうど知命堂病院長瀬尾先生から話のあるを幸い、女史をそちらへ推薦したのだとのこと。

引用:相馬黒光『穂高高原』

この記述によれば、三吉は和の熱心すぎる伝道に困惑しつつ、知命堂病院への道を示そうとしていたことになる。

和はその時点では知命堂病院へ向かわず、高田女学校に赴任した。
だが翌年、瀬尾原始と高田の町で偶然再会したことをきっかけに、知命堂病院の初代看護婦長となった。

三吉と和は仲たがいしたわけではなく、院内の秩序のため退職を認めざるを得なかったのだろう。

佐藤三吉が執刀した正岡子規の病気

画像 : 正岡子規(まさおか しき)public domain

俳人・正岡子規は1897年に、脊椎カリエス(結核菌に背骨が侵される病)の手術を2度受けている。

子規は22歳のころの1889年に肺結核と診断され、当時は死の病といわれていたため、死をも覚悟したという。

29歳になった1897年、子規は腰部の疼痛によって歩行も困難となり、名医として知られていた佐藤三吉の診察を受けた。

当初はリューマチと思われたが、やがて脊椎カリエスだと判明した。

三吉が行ったのは、子規の腰にできた大きな腫物の膿を針で取り、薬を注入するという手術だった。
想像するだけでも痛みを覚える処置だが、子規によると、2回目の手術では1回目ほどの痛みはなかったという。

子規は、ずいぶん痛くて酷いことをするものだと思ったようだが、手術をしなければさらに悪化していた、とも受け止めていたようである。

当時の医学や治療法、薬では、脊椎カリエスを治すのは難しく、執刀した三吉にとってもかなり苦しい治療だったのではないだろうか。

病はその後も進行を続け、子規は寝返りも打てないほどの痛みに苦しみ、痛みを抑えるためのモルヒネも欠かせなくなっていった。

晩年の子規は人力車で外出することもあったが、やがて完全に病床に臥すことになり、1902年、35歳で亡くなっている。

参考 :
上越市「当市で看護教育や地域医療などに尽力した『大関和』をモチーフとした連続テレビ小説『風、薫る』」 東京大学デジタルアーカイブポータル「佐藤三吉関係資料」他
文 / 草の実堂編集部

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