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大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証者による最新研究──「補佐役」から見た秀吉の軍事・外交【羽柴秀長と藤堂高虎】

NHK出版デジタルマガジン

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証者による最新研究──「補佐役」から見た秀吉の軍事・外交【羽柴秀長と藤堂高虎】

歴史学者・黒田基樹さんによる『羽柴秀長と藤堂高虎』が刊行されました。

中国攻めに始まる数々の合戦から毛利・徳川との外交、中国・九州の平定まで、常に兄・秀吉の「名代」として奔走した羽柴秀長(はしばひでなが)と、秀長の腹心として最前線に立った藤堂高虎(とうどうたかとら)。天下取りの実働部隊として、彼らはいかに羽柴政権を支えたのか。「賢弟」と「世渡り上手」のイメージにとどまらない実像とは。

本書の刊行を記念し、本書の一部を特別公開します。

『羽柴秀長と藤堂高虎』書影

羽柴秀長と藤堂高虎──はじめに

 羽柴秀長(一五四〇〜九一)の家老たちには、有力な人物が多く存在していたが、なかでも最も著名な人物が、藤堂高虎(一五五六〜一六三〇)であることに異論はないだろう。高虎は、秀長の有力家老として活躍したのちも、その養嗣子秀保(ひでやす)のもとでも有力家老となった。しかし秀保の死去をうけて、羽柴秀吉(ひでよし)の直臣大名に取り立てられ、関ヶ原合戦ののちは徳川家康(とくがわいえやす)から伊勢・伊賀二か国の国持(くにもち)大名に取り立てられ、最終的には約三三万石にのぼる大領知を領する領国大名となった。これは秀長の旧臣のなかでは、最も出世したといえるもので、高虎が著名なのもそのことに大きくよっている。

 ところが高虎の生涯については、現在も十分に解明されているとはいいがたい。高虎に関する研究書・一般書もないわけではないが、そこで扱われている内容のほとんどは、関ヶ原合戦後の、しかも伊勢・伊賀領国期におけるものが中心になっている。そのため秀長とその養嗣子秀保の時代、すなわち大和(やまと)羽柴家の時代における動向、さらには秀吉の直臣大名としての動向については、およそ概略程度のことが把握されているにすぎない状態にあるといってよい。

 しかしながら高虎については、大身(たいしん)の領国大名になったこと、さらに子孫が伊勢津藤堂家として江戸時代を通じて存続したことから、関係史料がそれなりに残されている。羽柴(豊臣)政権期の動向を示す史料は必ずしも多くが残されているとはいえないものの、それでも他の秀長の家老たちと比べれば、抜群に多くの史料が残されていて、そのため大和羽柴家時代の動向については、他の家老たちよりも、多くの事柄を知ることができる。そしてそれは同時に、秀長の動向をさらに深く認識することに通じるものとなっている。

 そこで本書では、秀長の時代における高虎の動向について、できるだけ詳しく取り上げることにした。秀長が高虎を家臣にしたのは、天正(てんしょう)四年(一五七六)のことで、高虎は二一歳であった。同十九年に秀長が死去したとき、高虎は三六歳になっていた。高虎は足かけ一六年におよんで秀長に仕えたが、その過程で、秀長の家老になり、さらにはその有力者になって、秀長家臣を代表する存在になっている。そしてそこでの動向が、羽柴秀保の死後に秀吉から直臣大名に取り立てられ、さらには関ヶ原合戦後に徳川家康に取り立てられていくことにつながっている。いわば高虎の後半生における出世は、秀長家臣の時代に培われた能力や人脈によっていたことがみえてくることにもなる。

 それではこれから、高虎が秀長のもとでどのような動向をみせ、またそのことがどのように秀長の政治的位置を支えていたのかについて、みていくことにしたい。秀長と高虎の動向を交差させるかたちをとりながらみていくことで、二人の関係の在り方や、秀長のもとでの高虎の位置と役割について、より明確に認識することができるだろう。

 なお私は、秀長の生涯については『羽柴秀長の生涯』(平凡社新書)、『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長』(講談社現代新書)を、秀長の有力家臣の構成と動向については『羽柴秀長とその家臣たち』(角川選書)を、それぞれすでに刊行している。そのため本書では、秀長の生涯や家臣の動向について、史料出典などの表示はできるだけ簡略にした。詳細を知りたい場合はそれらを参照いただきたい。それだけでなく、秀長と高虎についてさらに理解を深めていただくためにも、それらの著作も、ぜひあわせてお読みいただきたく思う。

秀長と高虎の出会い(天正四年〜九年)──第一章より

秀長の登場

 本書の二人の主人公のうち、主人で、かつ年長であったのは羽柴秀長で、家臣で、かつ年少であったのが藤堂高虎になる。そのためまずは、主人かつ年長に位置した秀長が、歴史上に登場してくる経緯から述べることにしたい。

 秀長は、天文(てんぶん)九年(一五四〇)の生まれである。父は妙雲院殿(みょううんいんでん)(弥右衛門(やえもん)・筑阿弥(ちくあみ)、?~一五四三)、母は天瑞院殿(てんずいいんでん)(大政所(おおまんどころ)、一五一七~九二)で、秀長は二人にとって三番目の子で次男にあたった。尾張愛知郡中中村(名古屋市中村区)の生まれとみられる。

 きょうだいには、一番上に姉・瑞竜院殿(ずいりゅういんでん)(三好常閑妻、一五三二~一六二五)があり、次に兄・秀吉(一五三七~九八)があり、それに続いて秀長が位置し、下に妹・朝日(旭・南明院殿(なんめいいんでん)、副田吉成妻・徳川家康妻、一五四三~九〇)があった。秀長は一番上の姉・瑞竜院殿からは八歳の年少、兄の秀吉からは三歳の年少、対して妹・朝日には三歳の年長にあたった。

 秀長の存在が、当時の史料で初めて確認されるのは、誕生から三三年後、天正元年(一五七三)八月のことで、三四歳の時になる。その時には、「木下小一郎長秀(きのしたこいちろうながひで)」と名乗っていた。そして兄の秀吉のもとで、近江浅井(おうみあざい)家領国の経略にあたっていた。木下苗字を称しているのは、兄の秀吉が織田家家臣となってから木下を称していたので、それに因んで称するようになっていたとみられる。通称の小一郎は、おそらく元服にともなって称したものだろう。秀長の元服時期は判明しないが、一般的な一五歳でのこととすれば、弘治(こうじ)元年(一五五五)頃のことと推定される。その時には秀吉はまだ織田家家臣になっていなかったから、中中村でのことだろう。

 秀吉・秀長の父・妙雲院殿の素生については明確ではないが、代々、在村被官(ひかん)として武家奉公していたと伝えられていることから、中中村の有力百姓であったと思われる。しかし妙雲院殿は、秀長がまだ四歳の時に死去してしまったため、百姓家としての財産は、親類や村に預けられ、家族は他家への奉公に出るようになったことだろう。そうしたなかで兄の秀吉は村から出て、武家奉公を目指して各地を遍歴していったとみられる。

 秀長が元服したのちは、財産の一部が戻され、百姓家として自立をすすめるようになったのだろう。そうしたところ、永禄(えいろく)元年(一五五八)頃に兄の秀吉は尾張に戻ってきて、清須織田信長(おだのぶなが)の奉公人となり、同四年頃に足軽に取り立てられて兵士身分になり、同五年頃に所領を与えられて織田家の直臣になり、同六年頃に所領一〇〇貫文を与えられて、「士(さむらい)大将」まで出世していったと伝えられている(拙著『羽柴秀吉とその一族』)。秀吉が織田家直臣になったと思われる永禄五年には、秀長は二三歳になっていた。そうした状況をうけて、秀長は秀吉のもとに移って、織田家家臣になったと推定される。中中村では、小規模ながら百姓家として存在していたと思われるが、村を出て武家の家臣となることを選択したのだろう。

 秀長の立場は、織田家の直臣で、当主信長の馬廻衆(うままわりしゅう。親衛隊)に編成されたとみられる。それはのちの天正二年に確認される。実名のうちの「長」字は、主人の織田信長から下字を偏諱(へんき)として与えられたものとみなされる。織田家の直臣になるにともなって、苗字は兄秀吉と同じ木下を称し、実名を与えられて、先にみたように「木下小一郎長秀」を名乗ったと考えられる。

 その一方、兄の秀吉は、永禄十一年に信長が上洛を遂げたのち、京都奉行を務めるなど、織田家の重臣の一人となっていて、元亀(げんき)元年(一五七〇)からは、北近江浅井家領国の経略を担当。秀吉の軍勢が一軍を構成するようになっていた。そして天正元年七月には、苗字を羽柴に改称している。これは信長から認められたものであり、おそらくは織田家の家老に列したことにともなうと考えられる。

 秀長は、秀吉が浅井家領国の経略を担当すると、それに与力(よりき)として付属されて、秀吉を助けたとみられる。秀長についての初見史料は、秀吉が浅井家領国経略をすすめているなか、秀長がその北部の経略を担っていたことをうかがわせるものである(秀長一)。その直後、織田家は浅井家を滅亡させ、その旧領国にあたる北近江三郡は秀吉に領国として与えられた。秀吉は長浜(ながはま)城(長浜市)を構築し、領国支配の拠点とした。秀長は秀吉の領国統治を補佐することになったとみられる。

 ただし、まだ信長の馬廻衆としての活動も続いていて、翌天正二年の伊勢長島攻めでは、信長の馬廻衆として先陣を務めている(『信長公記』〈角川ソフィア文庫〉)。しかし同三年十一月になると、苗字を羽柴に改称して、「羽柴小一郎長秀」を名乗るようになっている(秀長三)。これは信長から、羽柴苗字への改称を認められたことによるとみなされる。こののち秀長が信長本軍で活動することはみられなくなっているので、秀長は、織田家直臣の立場にあったものの、秀吉の与力としての立場に専従し、かつ羽柴家の一員として位置付けられて、以後はもっぱら秀吉の指揮下で活動することになったことを意味している。

 こうして秀長(当時の実名は長秀、秀長への改名は天正十二年のこと)は、秀吉の唯一の弟として、秀吉の領国統治や軍事行動を支える存在となった。織田家直臣ではあったが、信長から与えられていた所領はすべて返上し、かわりに秀吉から長浜領で所領を与えられたとみなされる。秀吉から与えられた所領の規模は判明していないが、唯一の弟という立場に相応(ふさわ)しく、それなりに与えられたことだろう。そしてそれにともない、秀長はその所領に見合う、家臣団を形成するようになったと思われる。そうしたなかで、秀長は天正四年に、藤堂高虎を家臣に加えるのであった。

高虎の出自

 藤堂高虎が当時の史料にみえるようになるのは、天正十年(一五八二)十二月のことになる(秀長二九)。その時には、秀長が京都東寺に返信した際に、高虎が副状(そえじょう。主人の書状に副える書状)を出していて、すでに秀長から他者への通信において、連絡役としての取次を務めており、すなわち有力家臣となっている。したがってそれまでの高虎の動向については、当時の史料から知ることはできない。

 しかし高虎の動向については、死去一一年後の寛永(かんえい)十八年(一六四一)七月に、高虎の戦功を中心にしてまとめられた「藤堂家覚書(おぼえがき)」(桐田貴史「石水博物館所蔵「藤堂家覚書」の紹介と分析」)があるほか、子孫の伊勢津藤堂家によって、典拠史料をもとにまとめられた伝記史料の『高山公実録(こうざんこうじつろく)』(清文堂史料叢書)があり、かなり詳しくその動向を知ることができる。それにより高虎は、秀長の家臣のなかでは、最も詳しく動向を知ることができる人物なのだ。そのため本書では、当時の史料に加えて、それらの伝記史料などをもとに、高虎の動向について述べていくことにしたい。

『羽柴秀長と藤堂高虎』では、

・第一章 秀長と高虎の出会い
・第二章 秀長・高虎の活躍と羽柴政権の成立
・第三章 軍事・外交で天下一統を支える
・第四章 政権維持に奔走する秀長と高虎
・第五章 秀長の死とその後の高虎

という構成で、秀長とその腹心がいかに羽柴政権を支えたのかを明らかにします。

黒田基樹
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。現在、駿河台大学教授。著書に『戦国大名の危機管理』『羽柴を名乗った人々』(以上、角川ソフィア文庫)、『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長』(講談社現代新書)、『羽柴秀長の生涯』(平凡社新書)、『羽柴秀長とその家臣たち』(角川選書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、編著に『北条氏年表』(高志書院)、監修に『戦国大名』(平凡社別冊太陽)など多数。
※刊行時の情報です

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