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キンタロー。「双極性障害の父の介護を経て、30歳でお笑いタレントデビュー。紆余曲折は”夢”へとつながっていた」

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母の死後、26歳で双極性障害の父を介護

くらたま:早くにお母さまを亡くされていると伺っています。

キンタロー。:父はもともと心が弱りやすく、私が小学校の頃に双極性障害を発症したんです。4年に1回ほどのペースでうつ状態になるので「オリンピックと一緒だね」なんて明るく母は言っていましたが、普段から心労は絶えなかったのではないかなと思いました。

そんな状況が続く中、私が26歳のときに母が亡くなりました。血圧が高く心臓発作のような感じで急死したんです。

実は、母が亡くなる数カ月前に父が本来なら業者に頼まないといけないようなビルのメンテナンスを自分でやろうとしてケガをしたんです。誤って脚立から落ちて、入院してしまいました。

くらたま:うつ状態のときのお父さまはどのような感じだったの?

キンタロー。:ずっと沈んでいるような状態なのですが、何かきっかけがあると、罵声を浴びせて怒り出すようなこともありました。自営業で、お金の心配が出てきたときに、自分で自分を追い詰めてしまうことが多かったです。

母が亡くなったことで、これまでにないほど落ち込んで、精神が徐々に不安定になっていきました。

くらたま:それは…お父さまのショックも大きかったでしょうね。

キンタロー。:相当落ち込んでましたね。当時は、知らない間に勝手に車に乗ってお店に買い物に行ってしまったり、あげくにお金がないのに土地を買ってしまうこともありました。

当時は、付きっきりで見ていないと何が起きるか分からないような状態でした。でも、見た目はいたって健康なので、要介護度の審査では低いレベルのものしか付けてもらえなかったのかもしれません。

くらたま:分かります。そうなってしまうケースを私もよく知っています。

キンタロー。:面接なので、本人が頑張ってしまうことも原因のひとつでした。「普段はやってないじゃん!」ってことまでできてしまったりして…。

くらたま:良く見せるように頑張る人が多いみたいですね。この対談でもよくお聞きします。普段できないことが奇跡的にできてしまうとか。

キンタロー。:すごいパワーで良く見せちゃったりして。介護度が下がってしまうことで、本来ならば受けられるであろうサービスを受けられないことが結構あって困りました。

父が受けた要介護度の審査では、メンタル面よりも目に見える身体的な能力を重視されているような印象を受けました(※)。健康な人と同等に見なされてしまったようです。

もちろん審査が難しいというのは十分理解していますが、もう少し配慮が欲しいとも感じていました。

父を心療内科に連れていくのも大変でした。「なんだ心療内科って!俺は元気だ!」とか言ってましたから。父には、メンタルケアを行う病院や施設への偏見があったんです。

※キンタローさん。の体験を基に記載しています。要介護認定の基準については、お近くの市区町村か地域包括支援センターにお問い合わせください。

くらたま:私たちよりも上の世代ほどあるのかもしれないですね。

キンタロー。:大切な存在なので、見ていなきゃいけないのは分かっているんです。でも、付きっきりで見ていると、自分の将来への不安が募る一方。介護が始まった26歳からの二、三年は「私の人生はどうなるんだろう」という不安と葛藤がずっと頭にありましたね。

今ではヤングケアラーという言葉も浸透してきて、徐々に介護をする家族の問題にもスポットライトが当たるようになってきました。私が父の介護をしていたときよりもずっと多いと思うんです。

くらたま:うん、珍しくない悩みだと思います。

ラジオがきっかけで介護の話をするように…

くらたま:キンタロー。さんが20代から介護をしていた経験って、今まであまり「表」に出ていなかったですよね。話そうと思ったきっかけってあったんですか?

キンタロー。:きっかけはラジオでした。芸人だったので、苦労話をすると笑いが取りづらくなると思って、介護の話はあんまりしていなかったんです。でも、あるときラジオでぽろっと体験談を話したことがありました。

そうしたら後日、ラジオを聞いていたNHKの方から連絡が来まして。「ヤングケアラーも増えてきて、困っている方が多い。ぜひ経験者として話をして欲しい」と。

テレビで話すことについては、正直悩みました。でもせっかくだし、芸歴も1年、2年でもないし、ちょっとだけ喋ってみようかなぁなんて思って喋ったんです。するとそれがきっかけで介護に関係するお仕事のお話をたくさんいただくようになりました。

くらたま:なかなか若いときに介護の経験をしている人はいないもんね。ましてやタレントさんで。

キンタロー。:芸歴をもう少し重ねてから、介護の情報を求めている方にだけ向けて発信したいなあとは考えていたんです、それも直接行って講演会等で直で話をするスタイルでどうかなあと。テレビだとどうしても求めてない人の耳にも入り、批判が来たりしますから。でも、私が想像していたよりも早い時期にそんな流れになりました。

くらたま:NHKの番組では、ヤングケアラーの若者たちと一緒にリモート出演されていましたよね。印象的な意見はありましたか?

キンタロー。:親が働けない状況になっている高校生の女の子がいたんです。自分の体験談を話すために意を決して出てきたと思うんですけど、いざ話してみると耐えられなくなってしまい退席してしまいました。

苦しむ親と向き合うことや、早い時期から親を支える経験はとてもつらい。思春期ということもありますし。

私が介護を始めた年齢も若い方だとは思います。でも、その子の気持ちを分かってあげられない部分があったのかもしれないな…と思いました。

一方で、私が父の介護をしていた時代よりも良くなったと感じたことがあります。インターネットで検索すれば、必要な情報をすぐ得ることができますし、SNSで同じ悩みを持つ人とつながりやすくなったりしています。

ヤングケアラーの子どもたちには、助けが必要なときには声を上げて欲しい。そんな思いがあります。それだけでなく、弱っているときに声をかけてくる人を慎重に見極めながらつながって欲しいとも思っています。

くらたま:確かに弱っているときに悪意を持って近づいてくる人はいますよね。その見極めは大切ですよね。


30歳目前でお笑い芸人を目指して上京

くらたま:キンタロー。さんが上京したのはいつですか?

キンタロー。:2011年です。父が老人ホームに入ることができ、自分のことに向き合ってみようかな、という気持ちにだんだんとなっていました。

いろいろ考えましたが、やはり芸人になる道を歩もうと決めたんです。私が芸人になったら、母も天国できっと笑顔になってくれるに違いないという思いもありました。

心配事を増やさないように、父には内緒で出てきました。もちろん罪悪感もありましたよ。親がこんな状態だったら、行っちゃダメなのかもしれないなって。

くらたま:そんなことはないと思いますよ。自分のために生きる道を選ぶことは大事なこと。キンタロー。さんは、早い時期からお笑い芸人になりたかったんですか?

キンタロー。:小学生の頃からお笑い芸人になりたかったんです。でも、中学生・高校生になっても「お笑い芸人になりたい」なんて言っていると、何を言っているんだという目で見られるようになっていきました。

いつしか、「安定した仕事に就けば幸せになれる」と思うようになり、得意だったダンスの講師をやって、不動産事務の仕事に就きました。でも、あまり役に立っているような感じがしなかったんですよね。安定した仕事だと思って就いた事務職にまったく適性を感じられない自分がいたんです。

そうして、思ったんです。「定職が向いている人もいれば向いていない人もいる。私は定職には向いていない」って。そのとき、お笑い芸人の道に挑戦しようと腹を括りました。

くらたま:なるほど。経験してみたからこそ分かることってありますよね。

キンタロー。:当初は10年頑張ってみて芽が出なかったら名古屋に帰ろうと思っていたんです。島田紳助さんがM1グランプリを立ち上げたときのエピソードが心に残っていたからです。

「10年頑張って芽が出なかったら、それはお笑いにおいては才能がないということ」。そう考えてM1グランプリのエントリー条件を「アマチュアも含めて10年以内の人」と紳助さんは決めたらしいのです。

実は私、大学時代に吉本興業の新喜劇「金の卵」オーディションで合格したことがありました。でも、一緒に競技ダンスをしていた好きな人に「お笑いかダンス、どっちかにしろ!」と言われてダンスを選ぶことにしたんです。私にとっては、一度断念した道への再挑戦でした。

くらたま:素敵な再チャレンジですね。

キンタロー。:当時、松竹芸能では、期待される子はタレントスクールの授業料が無料になるというキャンペーンをやっていたんです。そのキャンペーンでめでたく無料で授業が受けられる権利を獲得しました。自分の才能を買ってもらえたような嬉しさがありましたね。

くらたま:そこでは、自分でネタを作って披露したんですか?

キンタロー。:即興自己PRを少しやったぐらいです。

くらたま:へー!それはすごいねー!

キンタロー。:でも、授業料が無料の子はわりと多かったことをあとで知りました。優越感に浸りたかったのに「あの子もこの子もただやん!」ってがっくりきていました(笑)。

くらたま:でも、その中で今も残っているということは、やはり素質があったんでしょうね。

お笑いに目覚めたのは小学校のユニークな授業

くらたま:そもそも、お笑いをやりたいと思ったきっかけって何だったんですか?

キンタロー。:小学校のときの先生がとにかく面白かったんです。狂言が趣味の熊谷先生という男性の先生でした。ある日の授業で「『子豚のチャールストン』の曲をかけるから、みんなで踊り狂おう」と言い出したんです。

くらたま:「踊り狂おう」なんて!面白いことを考える先生だ!

キンタロー。:面白かったですよ。「先生が見て、こいついいなと思う子は、次々にようかん台に上げていくから」って言ったんです。小学生だったので、私は何の抵抗もなく素直に踊り狂っていた。でも、先生がようかん台に乗せていくのは、周りを気にせず踊り狂っている男子ばかり…。女子は私だけでした。

実は、小学校一、二年生の頃はツンケンしているように見られてしまって、友達作りに苦労していたんです。「怖い」って言われていました。

そんな私が踊り狂ってるから、みんながびっくりして目を丸くしていた。そして、そのギャップもあって、「どっ」と笑いがおきて、めちゃくちゃ笑いが取れた。そこからお笑いの世界に憑りつかれたんです。

くらたま:当時の様子が目に浮かびます。

キンタロー。:それからはすごく友達がつくりやすくなって、人気者みたいになれました。あんなに友達作りに苦労していたにもかかわらず…。それに、笑いを取れたら自分に返ってきて嬉しいし、何とも言えない高揚感がある。そのときの体験が今につながっています。

くらたま:そういうわかりやすいきっかけって、逆に珍しいですよね。

キンタロー。:そこからは、いかに笑いを取るかってことばかりを考えるようになりました。テストの回答をわざと間違えるようなこともしていました。「病人を運ぶ車は何でしょう?」という質問に「パトカー」という答えを書いて「間違えちゃった~」と言う。みんなに「救急車に決まってるじゃん」ってツッコミを入れてもらいながら笑いを取っていました。

くらたま:当時から面白いキャラクターだったんですね。そこまでやったらもうそれは芸暦のうちに入ります。松竹の授業料がただになった理由にも頷けます。

前田敦子さんのものまねはお客さんの一言から

くらたま:松竹に入られて、デビューまではスムーズでした?

キンタロー。:前田敦子さんのものまねのおかげで、テレビに出るまでは短かったですね。ラッキーでした。当時、AKBの不動のセンターあっちゃんのものまねはまわりに大ウケでした。

くらたま:それはそうね。でも、まったく自分と違う路線の人のものまねって難しいでしょ。AKBの中でも、何で前田敦子さんだったの?

キンタロー。:名古屋のスナックでバイトしていたときに泥酔したお客さんに言われたんです。「前田敦子に残念な似方をしてる」って。それを覚えていたので、あっちゃんのものまねをやってみようと思いました。中学時代は演劇部にいたので、誰かになりきる技術が知らずに身に付いていたのかもしれません。

くらたま:そうしたら、そのお客さんが救いの神みたいなもの?

キンタロー。:そうですね。お客さんの酔いの一言が助けになりました。名古屋時代の経験が今につながっていると思うことってたくさんありますね。

くらたま:売れなくて苦労した時期が長かった女芸人さんもいる中で、その期間がそんなになかったのはすごくいいよね。そもそもスタートが遅いわけだし。

キンタロー。:ありがたかったです。「芽が出る」までに時間がかかっていたら、名古屋に帰っていたと思うので。

でも、そのあとは苦労しました。芸人の中で暗黙の了解になっている掟や空気の読み方が分からないままテレビに出てしまったから。次に呼ばれなくなってしまうこともありました。テレビに出続けるための実力を身に付ける大切さを痛感しましたね。

くらたま:今後はどんなふうに活動していきたいですか?

キンタロー。:今後は、ドラマや映画に出演しながら、芸人としても生き残っていきたいですね。それだけでなく、もう少し歳を取って自分の器を広げてから講演会ができたらいいなと思います。それまでに、「キンタロー。がこう言ってたから頑張ろう!」と思ってもらえるよう知名度を上げていきたいです。

くらたま:キンタロー。さんは、ご苦労も含めて人生のさまざまな経験が芸人としての土台になっていますよね。これからの活躍も楽しみにしています。

撮影:丸山剛史

キンタロー。

1981年生まれの愛知県出身。関西外国語大学短期大学卒業。大学時代に始めた競技ダンス(ラテン)で全国4位の成績をおさめる。その後、社交ダンス講師・OLなどを経て、2011年松竹芸能タレントスクールに入学。2012年4月、30才にしてピン芸人としてデュー。デビュー1年で、前田敦子さん、光浦靖子さんなどのものまねネタでブレイクを果たす。2014年2014年TBS「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」社交ダンス部企画にて国内最高峰A級獲得!2017年競技ダンスの世界大会「WDSFラテンシニアⅠ世界選手権」ではアジア人歴代最高位の7位、2018年には8位に入賞。2020年に第1子女児。2021年に第2子女児を出産。

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