特集:甦れ! 熱狂のプロレス Part3 ~外国人レスラーたちと〝過激なプロレス〟で激突したアントニオ猪木、そしてタイガーマスクの登場
10年ひと昔という言葉がある。10年という時間で区切り、その年代を振り返ってみると感慨もひとしおだ。ぼくが生きた時代のなかでは1970年代が文句なしに面白かった。たとえば、日本映画は斜陽のどん底に喘いでいたが、東映は従来の任侠路線に代わってリアルな実録路線を推し進め、日活は石原裕次郎、小林旭、吉永小百合といったスター中心の作品からロマンポルノ路線に大転換した。一方で、商業主義に背を向けた芸術映画の砦としてATGが気を吐いた。停滞の底には確かな熱気があったのである。
ロックは目覚ましい革新の時代だった。ビートルズは解散したが、ハード・ロック、プログレッシブ・ロック、グラム・ロックと新しい表現が次々に誕生し、さらにレゲエやファンクまで取り込みながら転がり続けた。そしてパンクロックのような従来のロックを破壊する音楽スタイルまで産み落とした。凄い10年間だったなと思う。
猪木が新日本プロレスを旗揚げしストロングスタイルを確立
そんな激動の時代、プロレス界で破格の輝きを放ったのがアントニオ猪木だった。
1971年の暮れに日本プロレスを除名されると、翌年1月には新日本プロレスを創設した。これを追うようにジャイアント馬場も日本プロレスを退団し、全日本プロレスを設立。10月には旗上げ戦を行った。しかし、両者のスタートは対照的だった。日本テレビを後ろ盾にした全日本プロレスには資金力も、馬場の政治力がものをいった外国人招聘ルートもあった。対する新日本プロレスは十分な資金も、海外から集客力のあるレスラーを呼ぶルートも、テレビ中継もない。ないない尽くしの船出だった。興行はすべて手弁当。宣伝カーには新婚まもない倍賞美津子や姉の倍賞千恵子まで乗って協力している。
3月6日、東京・大田区体育館で行われた旗上げ戦もカール・ゴッチ以外、目玉になるレスラーはいなかった。しかし、メインイベントの猪木とゴッチのスリリングな攻防を観客は固唾を呑んで見守った。猪木はゴッチの鉄壁のディフェンスを切り崩そうと攻めるが、最後はゴッチのスープレックスに屈している。普通、旗揚げ戦で看板レスラーが敗れることなどあり得ない。ところが、猪木は負けることで自分の目指すプロレス、従来のショーマンスタイルとは異なるストロングスタイルを観客に見せつけたのである。
話は飛ぶが、猪木は亡くなる少し前の馬場と、ホテルオークラで鉢合わせしている。馬場は苦笑いしながら、猪木にポツリと洩らした。
「おまえはいいよなあ」
やりたい放題に生きた猪木に対する羨望の言葉だったのだろうか。確かに猪木が攻めの人生なら、馬場は受けの人生だった。馬場が正統なら、猪木は異端である。そして70年代の猪木は異端の強みを遺憾なく発揮し、時代の風も猪木の側に吹いた。
1973年2月、日本プロレスに残って奮闘していた坂口征二が新日本プロレスに合流し、まもなくNET(現・テレビ朝日)による金曜8時のプロレス中継「ワールドプロレスリング」が始まった。馬場、猪木、坂口を失った日本プロレスは20年の歴史に幕を下ろし、日本のプロレス界は新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの3極体制となった。国際プロレスはビル・ロビンソンやバーン・ガニアら実力派レスラーを呼んで話題を提供したが、いかんせん馬場や猪木に匹敵する日本人スターがいなかった。しかも、やっとエースに育ったストロング小林がフリー宣言をしてしまう。
小林は馬場と猪木への挑戦を表明するが、馬場はこれを黙殺し、猪木は受けた。馬場との対決や日本マット統一を視野に入れた猪木にすれば、望むところだった。1974年3月19日、力道山と木村政彦との一戦以来20年間タブーだった日本人同士の大物対決は「巌流島決戦」とも呼ばれ、空前の盛り上がりを見せた。試合は小林のバックブリーカーを返した猪木が鮮やかにジャーマン・スープレックスを決めて勝利。その7カ月後には大木金太郎も撃破し、猪木は一気に上昇気流に乗った。もちろん、猪木は馬場への対戦も要求し続けた。テレビ放映の絡みもあって馬場がこれを受けるはずもなく、猪木も半ばそれを承知していたはずである。こうした猪木の掟破りの行動に、ぼくは当時大ヒットした映画『仁義なき戦い』の世界観を重ねた。劇中に菅原文太のこんなセリフがある。
「狙われるもんより、狙うもんのほうが強いんじゃ」
猪木は馬場を標的にすることで、自分が目指す過激なプロレスをファンに強烈にアピールしたのである。
世界中をアッと言わせた〝総合格闘技の原点〟猪木VSアリ戦の実現
レスラーであり、興行師でもある猪木の発想に「環状線理論」がある。東京の都心にはいくつもの環状道路が走っているが、その内側にいる人たちをプロレスファンとした場合、そこをターゲットにしていたら観客動員は一定数以上には伸びない。だから、環状線の外側にいる人たちに情報を発信し、巻き込んでしまえというのが猪木の考えだ。
タイガー・ジェット・シンとの抗争がそうだった。猪木と倍賞美津子夫人が買い物を終え、新宿・伊勢丹デパートを出たところを、シンをリーダーとする外国人レスラー3人が襲撃したのだ。目撃者が110番通報したため警察も出動。事件は一般紙にも報道され、「タイガー・ジェット・シン」の名前はプロレスファン以外にも知られることになった。やらせかどうかは問題ではない。これこそ虚と実が入り混じったプロレスの魅力である。事件の3日後に行われた試合が満員札止めとなったのはいうまでもない。
猪木とシンの闘いは試合を重ねるごとにエスカレートし、ついには猪木がシンの右腕を折る事態にまで至った。当時の抗争を猪木は天秤にたとえてこう語った。
「俺がオモリを載せると、シンはそれ以上のオモリを載せてくる。俺がこれならどうだと、もっと重いのを載せると、シンはさらに重量をかけてくる。そんな感じだったよね」
面白いエピソードがある。同じ頃、誤認逮捕された吉田拓郎は釈放された際、迎えにきた知人に真っ先に「猪木とシンの試合、どうなった?」と尋ねたそうだ。
猪木が「環状線理論」を世界レベルで実践したのが、ボクシングの現役ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの対決である。発端はパーティの席におけるアリの「東洋の格闘家で私に挑戦するやつはいないか」という発言だった。記事を読んだ猪木と新日本プロレスはすぐさま挑戦状を送りつけ、その後も粘り強く交渉を重ねた末、ついに20世紀最大のカリスマを日本のリングに引きずり出すことに成功。世界中をアッと言わせた。
1976年6月26日。武道館で行われた世紀の一戦は、がんじがらめのルールに縛られた猪木がひたすらアリの左足にスライディングのキックを見舞い、アリが時おり単発的なパンチを出すという展開に終始し、引き分けに終わった。マスコミは「世紀の茶番劇」と酷評した。猪木にすれば、この試合にはプロレスに対する社会的偏見を払拭するという意味あいもあっただけに悔しさは想像するに余りある。しかし試合への評価は年々高まり、今では「総合格闘技の原点」という見方が定着している。ぼく自身、あれほど得体の知れないプレッシャーに包まれた、緊迫感あふれる試合をその後見たことがない。
猪木はアリ戦によって莫大な借金を背負った。ところが、借金返済のために行なった異種格闘技戦シリーズが興行的にも視聴率的にも大当たりするのだから、つくづく強運の人である。ザ・モンスターマン、ウィレム・ルスカ、アクラム・ペールワン、ウィリー・ウィリアムス……。異種格闘技戦からは数多くの名勝負が生まれた。
ハンセン、アンドレ、初代タイガーマスクらの登場で全盛を迎えた新日本プロレス
猪木がプロレスの枠を超えた興行で成功した時期、全日本プロレスはプロレスの醍醐味が詰まったタッグマッチでファンを魅了した。1977年12月に「世界オープンタッグ選手権」が開催されると、翌年からは「世界最強タッグ決定リーグ戦」に名称を変え、年末恒例のビッグイベントとなった。人気を決定づけたのは1977年の優勝戦だろう。ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクの兄弟タッグ〝ザ・ファンクス〟と、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組が激突。テリーがブッチャーのフォークによる凶器攻撃で右腕が八つ裂きにされるとファンの熱狂は頂点に達し、会場のあちこちから「やめてくれ」の悲鳴が上がった。最後はファンクスが反則勝ちを収め、観客は留飲を下げた。
エースの馬場は猪木に対抗するかのように、ジャック・ブリスコ、ハーリー・レイスを破り、3度にわたってNWA世界ヘビー級王座を獲得したが、いずれも1週間ほどの天下に終わっていて印象は弱い。むしろNWAの権威失墜を感じさせたものである。
新日本プロレスもこの時期にはアメリカの一大勢力、WWWFと提携し、スタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ボブ・バックランドらを招聘。外国人レスラーの弱体化を解消している。当初、ハンセンのファイトは粗削りで、猪木に言わせれば「レスリングが下手な、でくの坊」だった。しかし、桁外れのパワーはある。猪木はハンセンの攻撃を真正面から受け続けることで、その才能を開花させた。
ちなみに、猪木が一番強いと思ったレスラーは全盛期のアンドレ・ザ・ジャイアントだという。
「巨体(2m23㎝、236㎏)にもかかわらず、敏捷なんだよね。俺はアンドレなら柔道や相撲でもトップクラスになったと思います。しかも練習らしい練習をしないのに強い。体は岩のように固く、あいつの太ももを思い切り蹴って、こっちが足の甲を剥離骨折したことがあるくらい。俺のように練習で強くなった人間から見ると、異次元の存在でした」
そのアンドレとハンセンが1981年9月に田園コロシアムで闘った試合は、規格外のパワー合戦で観客の度肝を抜いた。ぼくも会場で興奮した一人だった。
1970年代後半は、新日本プロレスが全日本プロレスを観客動員でも視聴率でも圧倒した。それでも新日本プロレスに足りないものがあった。全日マットで絶大な人気を誇った覆面レスラー、ミル・マスカラスである。そこで新日本プロレスが1981年4月にデビューさせた覆面レスラーが初代タイガーマスクだった。マスクを被った佐山聡の高い身体能力や天才的な格闘技センスもあって、華麗に宙を舞うファイトは老いも若きも、男性も女性も酔わせた。行く先々の会場はどこも超満員。テレビ視聴率は常時20%を超え、裏番組の「太陽にほえろ!」をも上回った。
しかし、新日本プロレスといえども盛者必衰の道理からは逃れられなかった。不惑が近づく猪木の肉体もボロボロだった。
米谷紳之介 こめたに しんのすけ
文筆家、編集者。著書に『小津安二郎 粋と美学の名言60』、『シネマ&シガレッツ』、『銀幕を舞うコトバたち』(ともに本の研究社)、絵本『レオと猫の時間』(ニコモ)、『CHASING OZU』(The Publishing Arts Institute)、『プロ野球 奇跡の逆転名勝負33』(彩図社)他。構成・執筆を務めた書籍はアントニオ猪木『世界闘魂秘録』『生きるために闘う』(ともに双葉社)、関根潤三『いいかげんがちょうどいい』(ベースボール・マガジン社)、野村克也『短期決戦の勝ち方』(祥伝社)など30冊に及ぶ。
加藤英一郎 かとう えいいちろう
1980年専門学校東京YMCAデザイン研究所卒業。複数の個人デザイン事務所でアシスタントを務める。1991年に独立し、雑誌、PR誌、ポスター、CI(ロゴ・マーク)などのアートディレクションからデザイン、イラストレーションまでを多数手がけている。個展・グループ展の開催や、国内外の多数のエキシビションに参加。近著に米谷紳之介氏との共著『シネマ&シガレッツ』(本の研究所)がある。