『17世紀フランス最恐の悪女』ブランヴィリエ侯爵夫人が企てた「恐るべき犯罪」
太陽王ルイ14世の治世下にあった17世紀のフランスは、華やかな宮廷文化が花開いた時代でした。
しかしその輝きの一方で、貴族社会を根底から揺るがす戦慄の事件があったのをご存じでしょうか。
その中心人物となったのが、ブランヴィリエ侯爵夫人(マリー・マドレーヌ・ドルー・ド・ドブレー)です。
貴族階級にあった彼女が欲望を満たすために及んだ凶行は、当時の社会を震撼させることとなります。
愛人と毒薬との出会い
マリー・マドレーヌは1630年に、パリの法服貴族の家に生まれました。
法服貴族とは、軍功によって身分を得た伝統的な貴族とは異なり、司法や行政の公職を購入することで地位を得た新興の特権階級です。
21歳のころ、彼女はブランヴィリエ侯爵アントワーヌ・ゴブランと結婚します。※以降はブランヴィリエ侯爵夫人と記します。
しかし、その夫婦生活は放蕩と借金にまみれたものでした。
夫は軍務や社交で家を空けることも多く、やがて同じ軍人仲間であったサント・クロワという男を邸に出入りさせるようになります。
この出会いをきっかけに、ブランヴィリエ侯爵夫人はサント・クロワと深い不倫関係に陥ってしまいました。
パリ民事裁判所の最高責任者であった父は、娘の醜聞が家名を汚すことを恐れ、激しく憤ります。
さらにサント・クロワが娘の財産を狙っていると見た父は、裁判を経ずに逮捕・拘束できる国王の特権命令書「封印状」を入手し、サント・クロワをバスティーユ牢獄へ投獄させました。
しかし、この投獄がさらなる悲劇の引き金となります。
サント・クロワは獄中で、毒薬に通じたエグジリというイタリア人と接触したと伝えられています。
エグジリは、当時の医学では見破りにくい毒薬の知識を持つ人物として恐れられていました。
やがて釈放されたサント・クロワは、その知識をブランヴィリエ侯爵夫人へ伝えます。
こうして2人は、自分たちの仲を裂き、財産を管理していた彼女の父を亡き者にするため、殺害計画を練り上げ始めたのです。
後に広まった噂によれば、ブランヴィリエ侯爵夫人は計画を実行する前、慈善病院へ足繁く通い、貧しい病人たちに毒入りの菓子を分け与え、その効き目を試していたとされます。
連鎖する家族殺害と財産欲
1666年、ブランヴィリエ侯爵夫人はついに実父への犯行に及びました。
彼女は食事や飲み物に少しずつ毒を混入させ、数ヶ月かけて父を衰弱死させたのです。
こうして父の死後、彼女は遺産の一部を相続しました。
しかし、兄弟たちもまた相続人であったため、父の財産の大半は彼らの手に残されていました。
次に標的となったのは2人の兄弟、アントワーヌとフランソワでした。
彼女は召使いのラ・ショーゼを抱き込み、兄弟の食事に毒を盛らせたのです。
1670年、2人の兄弟は相次いで急死しました。
検死の結果、内臓に不自然な炎症が見られたものの、当時の医学水準では毒物の特定には至らなかったのです。
さらにブランヴィリエ侯爵夫人は、夫や娘、妹にも毒を盛ろうとしたとされますが、いずれも命を奪うには至りませんでした。
父と兄弟を殺めた毒殺の連鎖は、なお表沙汰にならないまま続くかに見えました。
ところが1672年、共犯者であるサント・クロワの予期せぬ死によって、隠されていた犯罪は一気に白日の下へさらされることになります。
サント・クロワの死と露呈した真実
1672年、愛人のサント・クロワが急死しました。
一説には、毒物の実験中に発生した有毒な蒸気を誤って吸い込んだためともいわれています。
身寄りのない彼の遺品を整理していた当局は、一つの革製の箱を発見します。
その中には、ブランヴィリエ侯爵夫人から届いた手紙、数々の毒薬、そして2人の関係や金銭のやり取りを示す書類が収められていました。
サント・クロワは万が一の事態に備えて、彼女を脅迫するための証拠を密かに残していたのです。
危険を察知した彼女は、すぐさまイングランドを経てネーデルラント方面へと逃亡します。
しかし、フランス政府による追跡は執拗を極めました。
1676年、リエージュの修道院に潜伏していた彼女は、司祭に変装して近づいた警官によって逮捕されます。
その際、彼女の所持品からは自らの罪を告白した詳細な手記が見つかり、動かぬ証拠となったのです。
パリに連行された彼女は高等法院で裁判にかけられました。
当初は容疑を否認していましたが、証言や書簡によって追い詰められ、やがて父と2人の兄弟の毒殺を認めます。
しかし司法当局は、それだけで満足しませんでした。彼女の背後には、さらに多くの共犯者や余罪が隠されていると疑ったのです。
死刑判決後、侯爵夫人は大量の水を無理やり飲まされる「水責め」の拷問にかけられました。
それでも捜査を大きく前進させる新たな供述は得られず、彼女は処刑の日を迎えることになります。
断頭台への道と貴族社会への衝撃
1676年7月16日、ブランヴィリエ侯爵夫人の処刑が執行されました。
彼女はパリのノートルダム大聖堂の前で公開悔悟を行い、その後、グレーヴ広場において斬首刑に処されたのです。
斬首後、遺体は焼却され、集まった群衆に強烈な印象を残しました。
しかし、この事件は一貴族の犯罪だけでは終わりませんでした。
というのも、尋問の中でブランヴィリエ侯爵夫人は、同じように毒薬の使用に関わる「身分ある人々」の存在をほのめかしたとされ、これにより司法当局は、毒薬が貴族社会の中にまで広がっているのではないかと疑いを強めたのです。
その疑念は、1679年に本格化する「毒薬事件」へとつながっていきます。
ルイ14世のもとで特別法廷「火刑法廷」が設けられ、パリの裏社会で毒薬の調達に関与したとされる占い師ラ・ヴォワザンをはじめ、多数の関係者が取り調べを受けました。
やがて国王の愛妾モンテスパン夫人や廷臣たちにも疑いが及び、華やかな宮廷は毒薬と黒ミサの噂に包まれていきます。
さらに1682年7月には、毒物に関する王令が発布され、薬剤師によるヒ素や昇汞(しょうこう)などの有害物質の販売が厳しく管理されるようになりました。
ブランヴィリエ侯爵夫人の事件は、単なる毒殺事件ではなく、ルイ14世時代の宮廷と社会に潜んでいた不安を一気に表面化させた出来事だったのです。
参考文献 :
『ブランヴィリエ侯爵夫人』/中田 耕治 (著)
The Affair of the Poisons : Louis XIV, Madame De Montespan, and One of Historys Great Unsolved Mysteries/Frances Mossiker 他
文 / 草の実堂編集部