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名古屋城から読み解く家康の国家ビジョン【新・戦国史 #6】

NHK出版デジタルマガジン

名古屋城から読み解く家康の国家ビジョン【新・戦国史 #6】

家康が目指した「戦なき世界」とは── 日本中の大名たちを動員して行われた巨大城郭建造プロジェクト「公儀普請(こうぎふしん)」によって造られた名古屋城から読み解く。

科学×歴史で日本史上のターニングポイントを鮮やかに描き、大きな反響を呼んだNHKスペシャル「戦国サムライの城」の書籍化作品『新・戦国史 城から迫る乱世の終焉、泰平のはじまり』の第5章「家康の国づくりと名古屋城」より、その一部を特別公開。

書影

 秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、大坂夏の陣で豊臣を滅ぼした家康は、その一五年の間に、城づくりに対してさらなる意味を見出すようになっていた。

 それは、戦乱が終わりを迎えた後の世界で、いかに日本を統治するかという問題と大きくかかわっている。近年、急速に進む名古屋城の研究から、家康の城づくりにそれまで敵対関係にあった大名たちを統率するカギが隠されていたことが明らかになってきたのだ。

 本章では、日本中の大名たちを動員して行われた巨大城郭建造プロジェクト「公儀普請(こうぎふしん)」の実態に迫ることで、戦国乱世の先を見据えた家康の国家ビジョンを追っていく。家康が巨大城郭の建造を通して実現させようとした「戦なき世界」とはどのようなものであったのだろうか。

公儀普請から見える家康の国家戦略

 関ヶ原の戦い以降、家康が推し進めた「公儀普請」。これは天下人が諸大名に課す土木工事への動員のことで、家康以前には秀吉も用いていた築城のスタイルだった。公儀普請による城は、関ヶ原の戦いが行われた翌年の一六〇一年(慶長六)、近江(現在の滋賀県大津市)の膳所(ぜぜ)城を皮切りに、当時の政権の拠点であった伏見城と京都での拠点となる二条城(一六〇二年〔慶長七〕)、将軍の居城となる江戸城(一六〇六年〔慶長一一〕)、静岡の駿府城(一六〇七年〔慶長一二〕)など名だたる巨大城郭が並ぶ。

家康の公儀普請による城

 驚くべきは、築城のスピード感だ。例えば、加藤清正が築いた熊本城は完成までに七年、池田輝政が大改修を行った姫路城は天守だけで完成まで九年の歳月を費やしている。一方の家康は、巨大城郭建造に毎年のように着手しているのである。

 この驚異的な築城ラッシュを支えたのが公儀普請であり、そこに動員された諸大名の働きだった。すでに見てきた通り、家康は関ヶ原の戦い以前から自らに付き従っていた大名だけではなく、関ヶ原の戦いののちに配下とした大名も動員して、前代未聞の城づくりを成し遂げた。

 この公儀普請をめぐっては、豊臣恩顧の大名に経済的な負担を強いることで軍事力を削ぎ、家康に反抗する力を失わせる目的があったのではないかと長らく言われてきた。しかしそれよりも、公儀普請からは、徳川政権に長期安定をもたらすための家康の国家戦略の側面が強くみてとれると、東京大学史料編纂所教授の及川亘さんは言う。

「関ヶ原の戦いが終わった当初、家康は西軍に参加した薩摩の島津家を討伐するつもりでした。しかし、最終的に討伐は行われず、途中で中止されました。そのあたりでもうこれ以上戦争はやめておくということを決心したのだと思います。秀吉は最終的に、朝鮮出兵にまで及んで政権の破綻を招きました。家康はその顚末(てんまつ)を見て、現実的な路線を取ったのでしょう。

 公儀普請からうかがえるのは、硬軟両様を織り交ぜて使い分ける家康の政権運営の手腕です。家康は、関ヶ原の戦いの後、大坂の陣まで大きな戦争をすることはありませんでした。もうすでに国内では戦争をし尽くしているわけですし、それ以上やってもあまり有益ではない。しかし、天下人としての実力は軍事力でもって示さなければならない。そこで、諸大名に対する軍事指揮権を確認するために公儀普請を盛んに行ったと考えられています」

 朝鮮出兵の際に城普請のノウハウが飛躍的に向上したように、戦争と城郭建設とは不可分の関係にあって、城をつくるということ自体に、ある種の軍事動員としての意味合いがある。天下統一を成し遂げた後も戦争を続けることで政権を維持しようとした秀吉に対して、家康はまったく異なる戦略を取ろうとしていたということだ。そして、それを象徴するのが公儀普請だった。及川さんは続ける。

「つまり、家康は公儀普請によって疑似的な戦場をつくり出したのです。工事中にいくらかの怪我(けが)人や死者は出るかもしれませんが、本当の戦争ではないので人を殺すのが目的ではありません。家康は戦争をする代わりに、公儀普請によって大名を動員し、自らの城郭をつくらせたのです」

「公儀普請」は、戦争とは異なる形で軍事動員を行うことで、大名との絶対的な関係性を確認し、自らの権力を示す場であった。だからこそ、家康の配下となって間もない豊臣恩顧の大名が中心となって駆り出され、使役に従事することとなったのである。

日本最大級の城郭「名古屋城」

 空前の規模で推し進められた公儀普請だが、具体的にはどのように行われていたのだろうか。じつは、その実態を詳細に知ることができる城がある。それが、近年様々な研究機関の専門家によって急速に調査研究が進む「名古屋城」だ。

現在の名古屋城

 現在は、愛知県名古屋市を代表する観光名所として知られているが、この城もまた家康の公儀普請によって築かれた。その特徴は、何と言っても巨大な天守である。現在の天守は一九五九年(昭和三四)に鉄筋鉄骨コンクリートで再建されたものだが、築かれた当初は高さ五五・六メートル(天守台石垣を含む)、延べ床面積約四四〇〇平方メートルを誇る、日本最大級の巨大建造物だった。

 名古屋城は、一六〇九年(慶長一四)正月、清須城での築城命令によって始まった。家康の九男・義直が要衝の地である尾張に入ったものの、居城とした清須城は城内を五条川が横切り、戦が起これば敵の水攻めに遭う可能性が高く、決して良好とは言えない環境にあった。そこで家康が新たな築城地として選んだのが、南北に細長く延びる熱田台地の北端に位置する名古屋だった。

 ちなみに、現在の名古屋の賑わいからは想像しづらいが、当時は清須のほうが栄えていたという。しかし、この名古屋城築城に際して、清須城の城下町がまるごと移転する「清須越し」が行われ、およそ六万の武士や町人、さらには寺社もすべて移動した。これが現在の名古屋という都市の誕生につながったとされる。
 
 同年には、「縄張(なわばり)」と呼ばれる基本設計が開始された。そして、公儀普請の大きな見せ場である「石垣普請」(普請=土木工事)へと進んでいく。名古屋城の石垣普請を担ったのは西国や北国を中心とした豊臣恩顧の大名で、前田利常(としつね)、池田輝政、加藤清正、福島正則、細川忠興といった二〇家だった。

 名古屋城もまた、その築城の速さは特筆すべきものがあり、記録によれば、一六一〇年(慶長一五)の一月に縄張が決定してから、八月には天守台石垣が完成、九月には本丸・二之丸・御深井丸・西之丸の石垣がほぼ完成していたという。

この続きは『新・戦国史』でお楽しみください。本書は以下の構成で、信長から家康へと続く城郭革命の実像を描き、「近世城郭誕生の秘密」に迫ります。

第1章 信長の城郭革命
第2章 令和の大調査で迫る安土城
第3章 消えた安土山図屛風と大航海時代
第4章 秀吉が残した慶長の築城ラッシュ
第5章 家康の国づくりと名古屋城
第6章 巨大城郭がもたらした技術・社会変化
第7章 「泰平の世」はいかに到来したか

NHKスペシャル取材班
最新の発掘調査と科学的分析から近世城郭の誕生に迫った、NHKスペシャル「戦国サムライの城」の制作チーム。同番組は、信長から家康へと続く城郭革命の実像を描き、大きな反響を呼んだ。
※刊行時の情報です

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