#4 「何のために幸福になるのか」とは問わない──山本芳久さんが読む、アリストテレス『ニコマコス倫理学』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
山本芳久さんによるアリストテレス『ニコマコス倫理学』読み解き #4
天文学、生物学、詩学、政治学、論理学、形而上学などあらゆる分野の学問の基礎を確立し、「万学の祖」と呼ばれる古代ギリシャの哲学者アリストテレス(前384-前322)。
彼が「倫理学」という学問を歴史上初めて体系化した書物が『ニコマコス倫理学』です。
「倫理学」と訳されているギリシャ語は「人柄に関わる事柄」という意味で、彼が倫理学と呼ぶものは、義務や禁止といったルールを学ぶことではなく、どのような人柄を形成すれば幸福な人生、充実した人生を送ることができるのかを考察することでした。
『NHK「100分de名著」ブックス アリストテレス ニコマコス倫理学』では、「幸福とは何か」を多角的に考え抜いた『ニコマコス倫理学』を、「正義」や「欲望」、「生き方」や「友情」などの在り方について、現代人がわが身に引き付けて考えるための「実践の書」として、山本芳久さんが読み解いていきます。
今回は、2025年7月から全国の書店とNHK出版ECサイトで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第4回/全6回)。
第1章──倫理学とは何か より
幸福論的倫理学の基本構造
しかし、図の一番下にあってその上のものすべてに意味を与えている何かがないとすれば、この構造は際限のないものとなり、結局何のためにすべてのことをやっているのかわからなくなってしまうということになりかねません。したがって、そこに来る何らかのものがなければならない。それがアリストテレスの考えです。
では、それは何なのか。いま読んだ範囲ではまだアリストテレスは答えを言っていないのですが、第四章「最も善きものとは何か」で、それは「幸福(になること)」だと言います。
それでは、なぜ幸福が究極目的だと言えるのでしょうか。ふたたび図で説明しましょう。たとえば「大学に入る」ことは「勉強する」ことにとっての目的ですが、「専門的な知識や技術を身につける」ことにとってはむしろ手段になります。つまり「大学に入る」ことは目的にもなれば、手段にもなる。同じように、「専門的な知識や技術を身につける」ことも、「大学に入る」ことの目的であると同時に、「よい社会人になる」ための手段です。
他方、「幸福になる」ことは、目的にはなるが手段にはならない、そこに決定的な違いがあるとアリストテレスは述べます。
図の「幸福になる」より上にある項目に関しては、先ほどのしつこい質問者のように、「なんで?」「なんで?」と問うことにそれなりの意味がある。しかし、「幸福になる目的は何?」と問うことに、果たして意味はあるでしょうか? 幸福になれれば、それでよいのではないか、そのためにこそ他のあらゆることを為しているのではないか。多くの人はそう考えると思います。ですから、「何のために幸福になるのか」とは問わず、「幸福になる」ことが人間の行為のすべてを支えている究極的な目的としてあるのだと考える。これが、アリストテレスの幸福論的倫理学の基本的な構造です。
どうでしょう、「なるほど」と納得いただけたでしょうか? 本書では、このように『ニコマコス倫理学』の基本的かつ重要な箇所をある程度まとまったかたちで引用し、それに解説を加えていくスタイルで進めていこうと思います。引用が比較的長いので、読むのが少し大変かもしれませんが、哲学書を読むという行為の実践にもなり、応用の利く力が鍛えられますから、ぜひこの機会に挑戦していただければと思います。
学問は三つに分類される
続く第三章「政治学・倫理学の特性」で、アリストテレスはここまでの目的の構造の話をいったん離れて、学問の分類について考察します。
「万学の祖」と言われるように、アリストテレスは倫理学だけでなく、政治学、形而上学、生物学など様々な学問の生みの親です。たとえば生物学では、類と種に分けて生き物を分類しますが、その方法自体がアリストテレスに由来します。
アリストテレスは、こうした様々な学問を大きく三つに分類しました。理論的学、実践的学、制作的学の三つです。
理論的学は、知識(知ること)が目的の学問です。自然学(現在の物理学)、数学、形而上学などがこれに当たります。
実践的学は行為を目的とする学問で、倫理学はここに入ります。倫理学は、理論を知ることそのものが目的なのではなく、学んだことに基づいて実際によく行為し、充実した人生を送ることが目的ですから、実践に主眼があります。
政治学も実践的学に含まれる学問で、アリストテレスは、倫理学を政治学の一部と位置づけています。倫理学とは「どのようにすればよい人間になれるのか」を考える学問であり、政治学とは「どのようにすればよい国家・よい共同体が実現するか」を考える学問です。アリストテレスは、「よい人間」は「よい共同体」のなかではじめて生まれてくるものであり、「よい共同体」を担う存在は「よい人間」であると考え、倫理学と政治学を不可分のものと捉えていました。実際、『ニコマコス倫理学』の最後は「それでは、最初のところから論じることにしよう」という一文で結ばれており、これは『政治学』という本に橋渡しする役割を持っています。
三つ目の制作的学は、ものをつくることではなく、言葉で何かをつくることに関する学問です。アリストテレスの著作で言うと『詩学』や『弁論術』がこの分野に入ります。
「常にそうであるところのもの」を対象とする学問
この三つの学問分類を念頭に置いたうえで、あらためて倫理学の特性について考えてみましょう。『ニコマコス倫理学』の第一巻第三章から引用します。ここでアリストテレスは、倫理学がどういう学問なのか説明しています。
われわれの論述は、主題にふさわしい程度に明確にできれば、それで十分であろう。というのは、種々の技術作品の場合と同様、論述についても、そのすべての場合において、いつも同じような仕方で同等の厳密さを求めるべきではないからである。政治学が考察の対象とする美しい事柄や正しい事柄には、多くの相違と変動が見られるのであって、そうした事柄はただ慣習のうえだけで存在しており、自然には存在していないかのように思われるほどである。さまざまな善いものに関してもまた、それらから多くの人々に災いが生じてきたところを見ると、何か同じような変動が認められるであろう。事実、これまでに富のために身を滅ぼした者もいれば、勇気のゆえに破滅した者もいるからである。
したがって、このような性質の事柄に関しては、このような性質の事柄から論じて、大まかに真実の輪郭を示すことができればよいのである。すなわち、たいていの場合にあてはまる事柄に関しては、そのような性質の事柄から論じて、そのような性質の結論を導くことができるならば、われわれはそれで満足すべきなのである。だから、論じられる内容の一つ一つについても、これと同様の仕方で受け取らなくてはならない。なぜなら、それぞれの領域において、事柄の本性が許す程度に厳密性を求めるというのが、教育ある人にふさわしいやり方だからである。数学者から単に相手を説得するだけの蓋然的な議論を受け取ることも、弁論家に厳密な論証を要求することも、どちらも同じくらいに誤っているのである。
アリストテレスはここで何を言っているのでしょうか。先ほど説明した三つの学問分類によれば、理論的学が対象とするのは「常にそうであるところのもの」です。それに対し、実践的学の対象は「たいていの場合そうであるところのもの」です。これは『ニコマコス倫理学』を読んでいくうえでポイントになるところです。
この違いは数学を例にするとわかりやすいでしょう。
たとえば、5+7は12です。「いや、昨日私が自分の部屋で計算したときには11.95でした」「いやいや、僕が今日大学でやったときには12.03だったよ」などということはありません。5+7は、状況に応じて答えが変わるようなことがなく、いつどこで計算しても必然的に12になる。つまり、数学とは必然的な真理を探究する学問であり、これがアリストテレスの言い方だと「常にそうであるところのもの」を対象とする学問ということになります。
著者
山本芳久(やまもと・よしひさ)
1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。主な著書に『トマス・アクィナス─理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞)、『世界は善に満ちている─トマス・アクィナス哲学講義』(新潮選書)、『キリスト教の核心をよむ』『愛の思想史』(共にNHK出版)、『危機の神学─「無関心というパンデミック」を超えて』(若松英輔氏との共著、文春新書)など多数。
※刊行時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス アリストテレス ニコマコス倫理学 「よく生きる」ための哲学』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
※本書における『ニコマコス倫理学』の引用は、朴一功訳の京都大学学術出版会版に拠ります。
※本書は、「NHK100分de名著」において、2022年5月、および2023年10月に放送された「アリストテレス『ニコマコス倫理学』」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「アリストテレスとトマス・アクィナス──『ニコマコス倫理学』から『神学大全』へ」、読書案内などを収載したものです。