光秀の人生と戦いの舞台を歩く 第3回|信長家臣時代の光秀と居城【宇佐山城・坂本城など】
2020年・2021年放送の大河ドラマ『麒麟がくる』。「光秀の人生と戦いの舞台を歩く」では、主人公である明智光秀の生涯や参戦した合戦の軌跡をたどり、出来事の背景や舞台となった城を紹介します。第3回は、織田家に仕官したばかりの光秀が参戦した金ヶ崎の戦いや比叡山焼き討ちと合戦に関わる城について解説。
光秀が信長に接近するきっかけ
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の、越前(現在の福井県)での展開場面を覚えていますか? ユースケ・サンタマリアさん演じる越前の戦国大名・朝倉義景は光秀を見下した様子で、光秀はすでに苦労させられていました。
光秀は主君・斎藤家の道三(どうさん)・義龍(よしたつ)父子が対立した長良川の戦いで道三に味方し、道三が敗れたために故郷の美濃(現在の岐阜県)から越前に逃れました。こうして越前で雌伏の時を過ごすことになった光秀が世に出る好機と捉えたのが、のちの室町幕府15代将軍・足利義昭の亡命です。義昭は、兄であり室町幕府13代将軍の足利義輝の暗殺事件(永禄の変)で動乱する京から逃げ、越前で幕府再興を目ざそうとしたのです。将軍家の血を引く義昭を奉じて京に入れば、中央政権で強い発言力を持てます。光秀はそう言って義景に上洛を勧めましたが、義景は首を縦に振りませんでした。
足利義昭肖像(東京大学史料編纂所蔵)。永禄の変後、義昭は一時松永軍に捕らえられるが脱出。朝倉家に身を寄せた
そこで次に義昭が頼みの綱としたのが、ドラマでは染谷将太さんが演じる織田信長でした。当時、信長は斎藤家を滅ぼして美濃を手に入れており、越前と美濃は隣国同士ということもあって協力を求めやすかったのです。このとき、光秀は義昭と信長の橋渡し役を名乗り出たといいます。信長の正室・濃姫(別名・帰蝶。ドラマで演じているのは川口春奈さん)は道三の娘であり、また光秀自身も濃姫の従兄弟だったことから、濃姫を通じて信長に取り入れると考えたのでした。
永禄11年(1568)に義昭と会見した織田信長は、六角氏や三好三人衆を撃破し上洛した。写真は、当時信長が居城としていた岐阜城下に立つ信長騎馬像
信長に仕官し宇佐山城を居城とする
光秀は使者の役割を見事に果たし、信長の協力を取りつけました。そして越前を辞し、信長・義昭とともに京へと上ったのです。こうして信長が中央政権に君臨するようになると、光秀は信長から能力を高く評価されて京での政務を行う京都奉行に抜擢されました。
一方で信長と義昭の関係性は次第に悪化していきます。これは当然といえば当然のことでした。信長は義昭に敬意など払っておらず、ただ将軍の権威を利用するつもりだったのです。義昭も次第にこの思惑に気づいていき、「五か条の条書」で将軍の権力を制限されると、以前世話になっていた越前の義景をはじめとする全国の大名に協力を求めて信長の排除に動き出します。
これを悟った信長は、義景が臣従しないことにいらだっていたこともあり、義景を倒す好機だと考えて朝倉攻めを開始しました。しかし信長軍が越前(現在の福井県)の金ヶ崎城を落として越前まで迫ったそのとき、同盟関係にあるはずの近江の戦国大名・浅井長政が裏切って義景に味方したという情報が入ります。背後から長政軍が押し寄せ、絶体絶命の信長。「金ヶ崎の退き口」と呼ばれるこの撤退戦で信長を救ったのが光秀でした。
撤退戦の舞台となった金ヶ崎城には、「金ヶ崎古戦場」の碑が立つ
九死に一生を得て帰還した信長はますます光秀を信頼するようになり、琵琶湖の南に位置する宇佐山城(滋賀県)の城番(城の管理人)を任せます。宇佐山城は琵琶湖南方と京を結ぶ交通の要衝に建つ城。要所を任せたことからも信長の光秀への厚い信頼がわかりますね。
宇佐山城の特徴は自然石を積み上げた野面積の石垣と、これの安定性を高める補強材として使われた裏込石です。裏込石は信長が城づくりの実験をした小牧山城(愛知県)にも見られ、宇佐山城はその実践が行われた初期の城と考えられます。
宇佐山城内に残る石垣。坂本城築城後に廃城となったため、遺構は光秀時代のものである可能性が高いと考えられている
坂本城は信長の城の“試作品”だった?
信長が光秀に宇佐山城を任せた理由は、このあと行われる比叡山焼き討ちとも関係していたようです。比叡山焼き討ちとは、琵琶湖南西に位置する山・比叡山に建つ延暦寺や日吉大社を信長が焼き払ったとされる一大事件。比叡山の寺社はもともと信長によい感情を抱いておらず、義景・長政連合軍に味方したので、信長は見せしめのために焼き討ちを仕掛けたのでした。宇佐山城は比叡山近くの城だったので、信長は頼れる家臣を置きたいと考えて光秀を配したのです。
それでは光秀は、比叡山焼き討ちにどう向き合ったのでしょうか。天台宗総本山である延暦寺の歴代住職について綴った『天台座主記』に「光秀は信長を諌めて焼き討ちをやめさせようとした」という内容があることから、長らく光秀は焼き討ちに反対したとされてきました。しかし近年は、光秀が比叡山付近の土豪に送った書状に「弾薬の補給をしてほしい、逆らう者は皆殺しでよい」という内容を書いていることから、進んで信長の命令に従って焼き討ちに参加したと考えられています。
『絵本太閤記』に描かれた比叡山焼き討ち。従来は比叡山全体が灰燼に帰し、女子どもも残らず撫で斬りにされたと考えられていた。しかし、死者数が史料によって異なるなど、実際の被害規模は不明である
また、焼き討ちは山全体が焼かれて死者も3千人から4千人にものぼったといわれてきました。しかし発掘調査の結果、焼かれたのは義景・長政軍が陣を張った周辺だけだった可能性が高まっています。いずれにしても比叡山焼き討ちは成功し、光秀の功績は信長から高く評価されました。
こうして光秀が信長から与えられた領地が近江坂本でした。光秀はここに坂本城(滋賀県)を築いて一国一城の主となります。信長家臣団初の快挙といわれます。坂本城の大きな特徴は、なんといっても天守(当時の表記は天主)があったこと。一般的に天守の元祖は安土城(滋賀県)といわれますが、坂本城築城は安土城の4年前なので、安土城に本格的な天守を築く前の試作品ではないかと考えられています。
坂本城は、大津城築城のため廃城となる。城内の建物は大津城の資材に転用されたため、当時の面影はほとんど残っていない
坂本城は京にも近い位置関係から、信長は光秀に義昭との仲介役も期待した可能性があります。しかし結局、信長と義昭の不仲は決定的になり、義昭は槇島城の戦いで信長に敗れて京を追われました。こうして信長は京の覇権を握り、光秀は信長の右腕として活躍することになります。
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『図解でわかる 日本の名城』(ぴあ株式会社)、『「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。