【習志野市】飛べ!少年の日の夢へ 日本民間航空のパイオニア「伊藤音次郎」
日本の航空黎明(れいめい)期、民間航空界に大きく貢献した伊藤音次郎。
活躍の舞台は鷺沼海岸(習志野市)の干潟飛行場でした。
自分で作って世紀の大冒険飛行を敢行
ライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功した1903年のわずか12年後、1915年に伊藤音次郎は自分で飛行機を造って千葉の空を飛びました。
「安全な飛行機を造り大勢の人や荷物を運ぶ!」、音次郎はこの少年時代の夢を追い続け、日本の民間航空の歴史に大きな足跡を残しています。
大阪で生まれ13歳で丁稚(でっち)奉公に出た音次郎の人生は、17歳で見たライト兄弟の活動写真で決定づけられました。
「自分で造ってみたい」と19歳で上京、1915年24歳の時に、働きながらほぼ独学で設計・製作した飛行機「恵美号」で空を飛んだのです。
翌1916年1月には稲毛と東京を55分かけて往復し、民間機として初めての帝都訪問飛行に成功。
航続距離が短かった当時では快挙となり、日本中を熱狂させました。
また同年4〜11月には全国巡回飛行を行い、各地で大歓迎を受けました。
民間航空のふるさと習志野
音次郎が当初拠点とした稲毛は、遠浅で潮が引くと広大な干潟が広がり、しかも砂が締まって固く、滑走路として利用可能なものでした。
しかし1917年の台風の高潮で壊滅状態に。
そのため津田沼町(現習志野市)鷺沼海岸に研究所を再建したのです。
以来約30年にわたり音次郎は習志野で、民間航空発展のために奮闘し続けました。
困難や挫折を繰り返した音次郎ですが、そのたびに復活、多くの飛行機やグライダーを製作し、貴重な航空写真も残しました。
また後進の育成にも力を注ぎ、その門下生はそれぞれの道で活躍し、今日の民間航空の礎を築き上げたのです。
音次郎を知ってもらい後世に伝えたい
そんな音次郎を今に伝えたのが長谷川隆さんです。
小学校校長を退職後、音次郎のアルバムとの衝撃的な出合いをきっかけに、膨大な資料を集めて研究を重ね10年の時を経て『歴史的資料で読み解く伊藤音次郎』を自費出版したのです。
本の多くは近隣の学校や図書館などに寄贈する予定とのこと。
「少年時代の夢の実現に向けて、諦めることなく挑戦し続けた音次郎を多くの人に広く伝える役割を担いたい」と、長谷川さんは語ってくれました。
※参考文献『歴史的資料で読み解く伊藤音次郎』遊タイム出版