武将が愛した伝説の名馬5選【義経・秀吉・元親ら名だたる武将を支えた愛馬】
平安時代以後の日本の戦に欠かせなかった乗り物、それは馬だ。
さらに武将にとっての馬とは、単なる移動手段を越えた存在だった。
彼らは武将が自らの権力を誇示するためのステータスシンボルであるだけでなく、戦場では最も近距離で生死を共にする戦友でもあったのだ。
今回は、日本の歴史に名を残した選ばれし名馬5頭を、主人との絆を感じさせるエピソードとともに紹介していこう。
源義経と崖を駆け下りた馬・大夫黒(たゆうぐろ)
大夫黒(たゆうぐろ)とは、平家討伐の最大の立役者である源義経が、一ノ谷の戦いの鵯越(ひよどりごえ)の逆落としで乗ったと伝わる義経の愛馬だ。
鵯越の逆落としが実際に行われたかどうかについては諸説あるが、後白河法皇より平家追討の宣旨を賜った義経は、山を背にして陣営を張った平家に奇襲をかけるため、わずか70騎の精兵を率い、一ノ谷の裏手から大夫黒と共に駆け下ったと伝わる。
大夫黒は元々、義経の庇護者であった藤原秀衡の愛馬で「淡墨(うすずみ)」という名であったとも、後白河法皇より義経に下賜された黒毛の名馬とも伝わっている。
義経が検非違使少尉(左衛門尉)に任官された後、その官位にちなむ「大夫」と、黒い毛色にちなんで「大夫黒」と呼ばれるようになったと伝わる。
義経とともに戦場を駆け巡った大夫黒だったが、1185年に義経との別れの時が訪れてしまう。
四国の讃岐で起きた屋島の戦いで奥州藤原氏出身の武将・佐藤継信が義経を庇って討死した際、義経は継信を懇ろに供養してもらうために、屋島の近くにあった志度寺の僧侶に大夫黒を寄進したという。
伝承によれば、義経と離れ離れになった大夫黒はしばらく志度寺の厩で飼われていたが、ある日忽然と姿を消してしまった。
志度寺からいなくなった大夫黒が発見されたのは、現在の香川県高松市の洲崎寺に建立された佐藤継信の墓前であった。
見つかる前の晩から降っていた冷たい雨に打たれた大夫黒は、もう首を上げることさえできないほどに弱っており、継信の墓に寄り添うかのごとく横たわっていた。
報せを受けた寺の者が大夫黒の首を優しく撫でると、一筋の涙を流してそのまま息絶えたという。
大夫黒の功績と主人への忠義は後世に伝えられ、岩手県一関市千厩町には大夫黒顕彰碑が、香川県高松市の洲崎寺の佐藤継信の墓苑には大夫黒の墓が建立されている。
畠山重忠が自らの背に担いだ馬・三日月(みかづき)
義経が愛馬の大夫黒と一体となって勇猛果敢に崖を駆け下りた一方で、絶対に愛馬を傷つけたくなかった武将もいた。
その武将こそが鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠だ。
源頼朝の安房での再挙兵時から源氏に帰伏した畠山重忠は、どんなに暑い時でも隣にいる者があぐらを組めなかったほど礼節を重んじる真面目な人物だったと伝わるが、とんでもない怪力の持ち主であったとも言われる。
その怪力ぶりを伝える逸話として、重忠が烏帽子親(元服の儀式で新成人に冠を被せる役目)を務めた大串重親が、宇治川の戦いで川に流されかけて重忠にしがみついてきた際に、その襟首を掴んで向こう岸まで投げ飛ばしたという話が『平家物語』に描かれている。
重忠に投げ飛ばされ、大勢の敵を目の前にして立ち上がった重親は、我こそが徒歩立ちの先陣であると大声で宣言し、敵味方から大笑いされたという。
『源平盛衰記』などの軍記物では、重忠は愛馬「三日月」とともに、義経の一ノ谷の奇襲に加わった武将として描かれている。
重忠は三日月に負傷させては忍びないと考えて、義経を始めとする他の武将たちが馬に乗って崖を駆け下りる中、三日月を背に担ぎ上げ自らの足で崖を駆け下りたという。
一方、『吾妻鏡』では重忠は義経が率いた搦手ではなく、源範頼が率いた大手軍に属していたとされる。
そのため三日月を背負って崖を下った逸話は、重忠の怪力と、馬をも守る人格者ぶりを強調するために語られた伝承と見てよいだろう。
島津義弘を機転で守った馬・膝跪騂(ひざつきくりげ)
膝跪騂(ひざつきくりげ)は、その比類なき強さから鬼島津とも呼ばれた薩摩の武将・島津義弘の愛馬だ。
膝跪騂は膝突栗毛とも呼ばれ、その名の由来については諸説あるものの、赤みを帯びた栗毛の毛色と、主人である義弘の命を機転を利かせて守った功績から名付けられたという説がよく知られている。
1572年、元亀3年に起きた木崎原(きざきばる)の戦いで、義弘は敵将と一騎打ちとなった。
敵が義弘に向かって槍を突き出しあわやという時、この栗毛の牝馬が脚を曲げて膝をつき、攻撃が鞍上の義弘に当たらないようかわしたとも、義弘の攻撃が敵に当たりやすくしたとも伝えられている。
この戦い以降、義弘は「膝跪騂」と呼ばれるようになったこの愛馬を主要な合戦にのみ従軍させるようになり、膝跪騂は戦場に駆り出される軍馬であったにもかかわらず、人間の年齢にすれば83歳という長寿を全うしたという。
義弘は自分の命を救い勝利へと導いてくれた膝跪騂を手厚く弔い、墓を建立した。
膝跪騂の墓は1707年に再建されたものが今も鹿児島県姶良市鍋倉に現存しており、膝跪騂の墓碑の東側には膝跪騂の飼育係であった橋口対馬夫妻の墓が、寄り添うように建てられている。
羽柴秀吉の中国大返しを支えた伝説の馬・奥州驪(おうしゅうぐろ)
羽柴秀吉は、主君・織田信長が自害したことを知り、即座に交戦中だった毛利氏との講和を取りまとめて、備中から京都までの道を約10日間で引き返したと伝わる。
「中国大返し」と呼ばれるこの大移動を成功させ、主君の仇となった明智光秀の軍を撃破した功績が、後の織田家内での秀吉の立場を大きく引き上げた。
この中国大返しで、秀吉が初めに乗ったとされる馬が「奥州驪(おうしゅうぐろ)」だ。
奥州驪は元は足軽で馬を持っていなかった秀吉が、出世してから手に入れた選りすぐりの駿馬といわれ、奥州産の真っ黒な馬であったという。
秀吉を乗せた奥州驪は、備中高松を発ってから吉井川を渡って片上を過ぎ、現在の兵庫県赤穂市有年にあたる宇根までの約25里、およそ100kmにあたる道のりを1頭で駆け抜けたという。
ただしこの奥州驪という馬の名が出てくるのは江戸中期の儒学者・湯浅常山が著した随筆『常山紀談』巻の五であり、中国大返しでの逸話は史実というよりは伝説に近い。
とはいえ、秀吉の主君であった信長は無類の馬好きであったので、直属の重臣だった秀吉が当時の名馬の主な産地であった奥州産の馬を愛馬としていても、何らおかしなことではない。
秀吉は信長が主催した名馬パレード「京都御馬揃え」が開催された時期に、播磨国姫路城に滞在し中国地方で対陣中だったため参加できず、大変悔しい思いをしたとも伝わっている。
若い頃の秀吉は親戚から馬1頭借りるのにも苦労をしたというが、その頃には長宗我部元親に贈った「内記黒」に勝るとも劣らない、優れた馬を所有していたと考えられる。
長宗我部元親を窮地から救った馬・内記黒(ないきぐろ)
内記黒(ないきぐろ)は、四国の戦国大名であった長宗我部元親が、豊臣秀吉から拝領した馬だ。
名前に黒とついてはいるものの、実際は年齢とともに毛色が白く変化する葦毛の馬だったという。
内記黒がいつ頃に元親に贈られたかについては明確な記録が残っていないものの、秀吉が四国を平定した時期である1585~1586年あたりと考えられている。
内記黒もまた島津義弘の愛馬・膝跪騂と同じく、主人を救った伝説がある馬だ。
1586年の戸次川の戦いにおいて、豊臣軍の主将であった仙石秀久の無謀な策が失敗に終わり、元親は主従併せて残るはわずか21騎という状態にまで追い詰められてしまった。
嫡男の長宗我部信親とも離れ離れになってしまった元親は、最早これまでと覚悟を決めて馬を捨て、敵陣に斬り込もうとしていた。
この様子を見た元親の家来の1人が、元親に走り寄って押しとどめて自らの馬に乗せようとしたところに、内記黒が戦場をくぐり抜けて駆け戻ってきたと伝わる。
家来は内記黒の帰還を大いに喜び、長宗我部家の運がまだ尽きてはいないことを確信し、内記黒に元親を乗せた。
内記黒は元親を背に敵中を突破して、元親は府内に逃れられたという。
今も高知市長浜の元親の墓所近くに残る愛馬の塚は、元親が没した際に主人を追うように息を引き取った、内記黒の墓と伝えられている。
はるか昔から紡がれる人と馬の絆
馬は犬や猫よりも身近ではないかもしれないが、はるか昔から人間と共に生きてきた動物だ。
特に武将たちにとって、馬は戦況や自らの生命を左右するほどの大切な存在であり、戦の際にはお気に入りの数頭を同行させ、馬が疲弊し過ぎないよう乗り換えながら戦場に出ていたという。
その時その場所に馬がいなければ、恐らく歴史が変わっていた場面は数知れないだろう。
時には武将たちの愛馬という観点から、歴史を紐解いてみても面白いのではないだろうか。
参考文献
黒鉄ヒロシ (著)『名馬万考: 歴史を駆け抜けた駿馬たち』他
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部