不登校から医学部へ 「成績オール1」で苦しむ母と子 “夜遊び”で「心配」が「大丈夫」に変わった!
中2で不登校になり、壮大な紆余曲折を経て、医学部合格への道を切り開いた元野球少年。その親はどんなサポートをしたのか。母親・倉孝子(くら・ゆきこ)さんに話を聞きました(第2回)。起立性調節障害で息子は昼夜逆転生活。 “普通の高校生活”を諦(あきら)めねばと覚悟した母親を待っていたのは、「成績オール1」の現実と深い孤独感でした。しかし、発想を転換して息子を「夜遊び」に連れ出したことで、親子に思わぬ変化が訪れます。
親が「心配」を「大丈夫」という言葉に変えたとき、子どもはどう変わるのでしょうか。
90冊以上の著作を持つ教育ジャーナリスト・おおたとしまさ氏が迫ります。
成績オール1に大ショックながらも矛盾に気づいた
おおたとしまささん(以下おおた):「“普通”を諦(あきら)める」という失意の中で、学校に行かない生活が始まりました。
倉孝子さん(以下孝子):そうしたら通知表が、オール1になったんです。
私も子どもも転校が多かったので、学校によって成績のつけ方が全然違うのを知っていました。評定平均なんて当てにならないな、という気持ちは持っていました。
でも、息子・俊徳(としのり)はまあまあ勉強ができていたから、いざオール1になると、やっぱりすごくショックでした。
不登校になり始めた当初は、テストだけでも受けていました。朝は行けないから、夕方に行って受ける。1〜2教科だけ受けて、残りは家に持って帰って提出してね、というふうになりました。
1がつくような出来じゃなかったのに、家でやった分は参考点でしかないから成績に反映されない、休んでいると提出物がないから努力点がないとみなされて評価はできない、ということでした。
「努力していない」という言葉に、まず納得できませんでした。テストでそこそこの点をとっても、それは反映されない。本人はめちゃくちゃ努力してテストを受けに行って、家でも問題を解いたのに、「努力が足りない」と言われる。
札幌は内申点が中1から高校進学に反映されるので、たとえ中3で学校に行けて頑張って勉強したとしても、ここでオール1がついたら、もう絶対に希望の高校には行けない。これでもう決定的に行けないんだな、と。
それがショックでした。別にトップ校を目指していたわけではないんですけど、普通の高校への進学はもう無理、という状況でした。
でも、ショックを受けている自分がいる一方で、目の前にいる俊徳は、私にとっては何も価値が変わっていない、そのままなんですよね。なのに、通知表にオール1が付いただけで残念な気持ちになるっておかしいな、と気づいたんです。
それで、もういいや、と思いました。俊徳は、自分にとって大切な存在なんだから、成績とか、人からの評価がどうであってもいいや、って。
おおた:そこは本当に、一皮むけた瞬間ですよね。それまで気づかずにすがってしまっていた「学校信仰」みたいなものを、手放した瞬間。
目の前の現実がどうしても受け入れられないときに「自分が当たり前だと思っている価値観や前提のほうが、じつは思い込みに過ぎなかった」と思える人は、そんなに多くないんです。心理学みたいな分野を学んだことがあるんですか?
孝子:そういうバックグラウンドは全くないんですけど。ただ、子どもが生まれてから教育にはすごく関心があって、俊徳が赤ちゃんのころからいろんな勉強会に行っていたんです。
そこで不登校のお母さんたちにも会って、「不登校って誰にでも起こり得るんだな」と思ったことがあったり。
発達の先生のお話を聞いたときに、「一番大事なのは学校に行かせることじゃなくて、親子関係を作ること。子どもが行きたくないと言ったときは、子どもの意見を尊重したほうがいい」と、まだ俊徳が幼稚園のころに聞いていて。それが頭に残っていたんです。
おおた:当時はわりと現実味のない理想論に聞こえていたかもしれないと思うんですけど、それが頭の片隅に残っていて、実際そうなったときに、自分の視点を変える助けになったわけですね。
孝子:周りからの評価ではなくて、自分にとっての、俊徳の存在の大切さを再認識したということなんだと思います。
ママ友・親戚とも疎遠 “宇宙に一人でいるよう”だった
孝子:それまではもう、全く先が見えなくて。俊徳は、学校の友達との関係がほとんど途切れてしまいました。私のほうも、ママ友たちが心配して連絡をくれるんですけど、それを素直に受け取れなくて。どんどん疎遠になって、知り合いが誰もいないような気持ちになっていきました。
親族もやっぱり、残念に思うわけじゃないですか。その「残念だ」と思われている気持ちが痛くて。誰にもこの気持ちを理解してもらえない、責められているような気持ちになってしまって。すごく孤独だな、と思いました。宇宙で一人でいるような感覚でした。
夫が「俊徳は大丈夫だから」と言ってくれていたように、私も心の底では「この子はきっと大丈夫」と、ちょっと思っていたんです。でも、周りはそう思ってくれないんだな、と感じていました。
親族からにじみ出る「残念だね」「この先どうするの?」という雰囲気が、辛かった。心配して言ってくれているんですけど、逆に「やっぱりまずいんだ」と、不安を増幅させました。
でも、心配してくれることが悪いことじゃ全然ないんです。実際、みんな、最大限に気をつかって、言葉を選んで、接してくれていたと思います。
周りのリアクションがどうであったとしても、私はきっと同じように辛かったと思います。ただひたすら、受け手である私の心が、素直に受け取れない心境だった、ということなんですよね。
昼夜逆転した息子を「夜遊び」に連れ出して
おおた:どんなに考え尽くされた優しい言葉でも、素直に受け取れないときはありますよね。
孝子:お医者さんに「私が仕事を辞めたほうがいいでしょうか」と聞いたら、「辞めないほうがいい。学校に行ってほしいというお母さんが家にいるほうが、子どもにとってはストレスだから、絶対に辞めちゃダメ」と言われたので、仕事は辞めませんでした。
だから私が出勤するときは、当然、息子は寝ています。帰ったときは、起きているんだろうけど部屋に閉じこもっているか、元気なときはリビングでだらだら寝転がってYouTubeを見ているか。
寝るのは、本人に聞いたら深夜2時くらいと言っていました。調子が悪くなると、ずっと眠れずに朝6時に寝ることもあって。本当に昼夜が逆転していました。親子関係が悪化していたわけではなくて、良くいえば、そっとしておいた、という感じです。
起立性調節障害と診断されていたころの俊徳さん。弟とキャッチボール。 写真提供:倉孝子さん
孝子:そんな状況に私自身が慣れてくると、息子を「夜遊び」に連れ出すようになりました。軽いものでいえば、夜に散歩に行ったり、映画のレイトショーを観に行ったり。
あとは、私が飲み会に行くときに一緒に連れて行って、遅くなって、タクシーで帰ってくる、ということもしていました。夜は元気で、起きていられるので。
最初は嫌々ついてくる感じだったと思うんですけど、何回か行くと、意外と楽しいと言ってくれて。中学生は普通、飲み会には行かないじゃないですか。だから、大人の様子や話が面白かったみたいです。
周りも「なんで中学生がここにいるの?」という反応の人もいましたが、事情を話すとみんな寛容で、「そうなんだ、別にいいよね」という感じで。それがすごく大きかった。
息子も「いろんな人に会えたこと、いろんな大人の話を聞けたのが良かった」と言っています。うちは親族がみんなサラリーマンなので、サラリーマン以外のいろんな生き方を見られたのが良かった、と。
あるときなんか、農家の方がすごく気遣ってくれて、「うちに遊びに来ていいよ」と畑に連れて行ってくれたり。あの飲み会で知り合った関係がいまでも続いています。
「心配」を「大丈夫」と言い換え続けた
おおた:口出ししない、手放そう、と覚悟を決めても、やっぱり不安になって揺り戻しがあるんじゃないかと思いますが。
孝子:これには、私には明確なきっかけがあるんです。当時、私は自分の趣味活動に邁進(まいしん)していました。環境問題にはまっていたんです。
そんなとき、バリ島にある世界的に有名なオルタナティブスクールを出て、日本の大学を休学して、環境問題について各地で講演して回っている環境活動家の若い女性が札幌に来るというので、私がお話会を主催したんです。
彼女がすごく素敵な子で。「なんでこの子はこんなに素敵なんだろう」と思っていたら、案の定、「お母さんはどういうふうに育てたんですか?」という質問が会場から出ました。彼女はこう答えたんです。
「私自身は、体育と美術だけが5で、ほかは1とか2ばかりの子だったんですけど、お母さんが常に『あなたはそのままでいいんだよ』というメッセージをくれていた」と。
それを聞いて、はっと気づいたんです。私が愛情からしていることは、もしかすると、今の息子の状態を否定することになりかねないんだな、と。そこから、「心配」という言葉を使うのは絶対にやめて、「大丈夫」という言葉に言い換えよう、と決めました。
おおた:孝子さん自身が、周りから心配されたときにそれを否定ととらえてしまった経験があるのに、自分も同じことをしているとはなかなか気づけないんですよね。
孝子:当然、すぐに頭を切り替えられるわけではないんですけど、「大丈夫、大丈夫」と言っているうちに、どんどん自分がその言葉に洗脳されていって、気持ちが本当に大丈夫になっていったんです。息子が、もう中学3年生になっていたころですね。中3の春かな。
おおた:言葉を変えると、気持ちがあとからついてくる。案外そういうものかもしれませんね。
孝子:ちょうどそのころ、息子が「オレはラッパーになる。ラップの大会に出る」と言い出しました。
おおた:息子さんの中でも、何かが動き出しましたね。
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次(第3回)は、不登校の息子が突然ラップ大会へ出場!? フリースクールでの出会いを経て、異例の高校受験に挑みます。
取材・文/おおたとしまさ(教育ジャーナリスト)
●おおたとしまさPROFILE
教育ジャーナリスト。1973年東京生まれ。リクルートから独立後、教育に関してさまざまな観点から取材を行い、著書は90冊以上。2026年5月に『フリースクールという選択』(講談社+α文庫)を上梓。どこの組織にも属さない在野の視点で現代の教育への考察・提言を続けている。メディアへの出演や講演も多数。
“フリースクール探し”で最初に読む本、登場! 『フリースクールという選択』(著:おおたとしまさ/講談社+α新書)