庶民の町として発展した江戸の下町・深川で、山東京伝、松平定信らの足跡を追う。大河ドラマ『べらぼう』ゆかりの地を歩く【其の七】
都心のビジネス街は指呼の間(しこのかん)。日中はビジネスマンらしき出で立ちの人々も多く行き交う深川は、それでもどこか昔ながらの下町情緒が漂っている。ここは徳川家康が江戸の町づくりを進めていた慶長年間(1596〜1615)、摂津国(現・大阪府と兵庫県の一部)からやって来た深川八郎右衛門が隅田川河口を埋め立て、深川村と名付けたのが始まり。この地は明暦3年(1657)に起こった「明暦の大火」以後、日本橋や神田にあった貯木場が深川やその東側の木場へと移ってきたことに加え、大川(隅田川)と中川(旧中川)を結ぶ小名木川や仙台堀川などの運河による舟運ルートが確立し、大きく発展。そして膨れ続ける江戸の人口をのみ込んでくれた。今回はそんな深川で、この地と縁が深い『べらぼう』登場人物の足跡を追ってみることにしたい。江戸時代は庶民の町であった一方、郊外には風光明媚な風景が広がっていたことから、粋な人たちが別荘を構えた地でもあった。そんな面影も同時に追ってみよう。
【今回のコース】『べらぼう』時代の情緒が漂う深川を歩く
今回のコースは以下の通り。
地下鉄東西線木場駅→(10分)→木場公園→(30分)→曲亭馬琴誕生の地→(10分)→一乗院・朋誠堂喜三二の墓→(10分)→深川釜匠→(2分)→霊巌寺・松平定信の墓→(10分)→清澄庭園→(5分)→清澄公園→(5分)→清洲橋→(3分)→平賀源内電気実験の地
蔦重と二人三脚で話題作を次々発表した作家の生誕地
木場が確立したのは元禄14年(1701)で、江戸中の材木を一手に扱う活気あふれる庶民の町となった。同時に水面が輝く堀割りとそこに浮かぶ材木が、水郷のような見事な景観を醸し出していたと言われている。その様子が江戸市中とは一線を画し、風流人たちが別邸や別荘を建てて、優雅な日々を楽しんでいた。
今は水郷のような景観は残されていないが、仙台堀川や大横川に囲まれた広大な木場公園が現代の風流を醸し出していると言えるかもしれない。公園の周辺は木場4丁目、5丁目にあたるが、この辺りにあった質屋「伊勢屋(岩瀬)伝左衛門」の長男として宝暦11年(1761)に生まれたのが戯作者・浮世絵師として時代の寵児となった、山東京伝(さんとうきょうでん)である。
安永2年(1773)になると、父とともに京橋銀座に転居する。その際、通称であった京屋伝蔵が略され京伝と呼ばれていたので、そのまま雅号とした。浮世絵の世界では北尾重政に学び、北尾政演(まさのぶ)と号していた。本名は岩瀬醒(さむる)というから、何ともややこしい。天明2年(1782)に発表した『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』が大田南畝(おおたなんぽ。別名・蜀山人〈しょくさんじん〉)に認められ、人気の戯作者となり蔦屋重三郎(蔦重)の耕書堂からも、多くの作品を世に送り出している。
山東京伝が生まれた家の場所ははっきりわからないが、木場公園はかつての貯木場であったから、その周辺であったと思われる。多目的広場やテニスコート、『東京都現代美術館』まである広大な公園なので、ここだけで1日過ごすこともできるだろう。だが今回の散歩は、深川界隈がメインなので早速そちらに向かうことにした。木場は寄らず深川だけを歩く場合は、東京メトロ半蔵門線と都営大江戸線が乗り入れる清澄白河駅を使うと便利だ。
木場から深川方面へは、かつて材木などを江戸市中に運ぶために張り巡らされた水路のひとつ、仙台堀川沿いにある遊歩道を西へと向かった。この堀の名前の由来は、かつて堀に沿って仙台藩の深川蔵屋敷があり、この堀を利用して仙台から運ばれた米などの物資を運び入れていたからだと言われている。今はかつて深川に住んでいた松尾芭蕉が『おくの細道』で詠んだ18句の句板が立てられている場所もあって、長く歩いていても飽きることがない。都会の喧騒を忘れられる、気持ちのいい道だ。
ドラマの人気者の墓と今後登場する重要人物の生誕地
仙台堀川に沿って散歩していると、海辺橋の北東側、清澄通り沿いに「曲亭馬琴(きょくていばきん)誕生の地碑」がある。馬琴はまだドラマには登場していないが、後に蔦重の店で手代として奉公する重要人物。馬琴は父親が旗本の松平信成の用人を務めていたため、その屋敷内で生まれている。
馬琴が9歳になった時、父親が亡くなったために棒禄が半減された。それを不満に思った馬琴は、14歳になると松平家を出奔。文筆で身を立てようと山東京伝に師事する。やがて京伝の口利きにより、蔦重の店に手代として雇われることとなる。
そんな馬琴の代表作と言えば『南総里見八犬伝』である。誕生の地には通常の碑とは異なり、刊行された当時の八犬伝を模った106冊の本が積み重ねられたモニュメントが建てられている。これは江東区ふれあいセンター・平野児童館前にあるので見つけやすい。
馬琴誕生の地のすぐ近くには、一乗院という日蓮宗の寺院がある。寛文10年(1670)に創建され、350年以上この地域に根付いている。この寺院が持つ一乗院墓苑に、蔦重の出版事業成功のために欠かせない人物であった朋誠堂喜三二の墓がある。
喜三二は享保20年(1735)、江戸の武士である西村久義の子として生まれた。14歳の時に母方の縁戚で秋田藩士の平沢常房の養子となり、平沢姓を継いで常富(つねまさ)と名乗った。平沢家は秋田藩の定府藩士のため、江戸での留守居役を務めている。藩の重役として吉原にも出入りしていて、情報収集や社交の場として活用していた。
喜三二は多くのペンネームを使い分け、武士としての公務と文芸活動を巧みに両立させ、当時の江戸文化に大きな足跡を残した。それは黄表紙や洒落本といった戯作で、確固たるスタイルを残すことになる。蔦重とのコンビも絶妙で、耕書堂成功の立役者になった。
喜三二の墓は一乗院の本堂がから少し離れた場所の、一乗院の墓苑内にある。この墓苑の場所がわからない場合、一乗院で尋ねれば親切に教えてくれる。墓苑に入ったら通路を突き当たりまで進み、右に折れると角の手前に古い墓石が見える。小さな合祀墓だが墓石には「平澤氏累代之墓」と、はっきり刻まれているので見つけやすい。
庶民の腹を満たし続けた素朴で味わい深い江戸グルメ
朋誠堂喜三二の墓から北へ2ブロックほど進むと、「深川江戸資料館東」の交差点前に至る。交差点の左手には江東区立の『深川江戸資料館』があり、右手を見れば江戸の下町の代表的な味、深川めしの『深川釜匠』店構えが目に入る。やはり深川散歩なら、この江戸名物を食べないわけにはいかないでしょう! ということで、さっそく店内へ。
かつて江戸湾の豊かな干潟が育んだアサリは、江戸庶民の味として親しまれた。『釜匠』ではアサリとしめじをこだわりの出汁で炊き上げた「深川めし」と、ザックリと刻んだネギと油揚げ、それにアサリを特製の出汁で煮込み、最後に卵の黄身だけ落とした「深川丼ぶり」が自慢。どちらも魅力的で悩んでしまったが、今回は「深川めし」のほうをいただくことにした。
秘伝の出汁とアサリから滲み出た旨味が、ごはんの一粒一粒に染み込み、ふっくらと炊き上がったごはんは、すぐに箸が止まらなくなるほど。アサリの絶妙な塩味やおこげの香ばしさは、間違いなく江戸の庶民から愛された素朴な味を感じさせてくれた。それと驚かされたのがアサリと葱、刻み海苔の量。昔のようにアサリが簡単に手に入らない今のご時世、この贅沢を味あわない選択肢はない。
深川めしは見た目以上にボリュームがあるので、小食の人は食べきれないかも。そんな時のためにテーブル上にラップが用意されているので、おにぎりにして持ち帰ることもできる。ただし「深川丼ぶり」のほうは汁がかかっているのでおにぎりにはできない。それと持ち帰りはあくまで自己責任なので、保管には要注意だ。
出版統制例を含む改革により蔦重らを苦しませた老中の墓所
『釜匠』を後にして『清澄庭園』方面へ向かうと、『深川江戸資料館』の並びに霊巌寺がある。もともとは寛永元年(1624)、隅田川の河口を埋め立ててできた霊巌島(現在の中央区新川)に、雄誉霊巌上人(おうよれいがんしょうにん)が創建した浄土宗の寺院だ。明暦の大火で焼失したことをきっかけに、現在地の深川に移転している。
この寺院の境内には、寛政の改革を断行し厳しく風紀を取り締まったことから、蔦重にとって最大の障壁となった松平定信の墓がある。国の史跡に指定されている墓所は、塀で囲まれていて門の前から遥拝するという、大変立派な造りになっている。さすがは御三卿出身で、老中として辣腕を振るった人物だったことを偲ばせてくれる。本人は大の黄表紙ファンだったので、今後はさらに蔦重との絡みが多くなるであろう。
また霊巌寺の境内では、「江戸六地蔵」のひとつに数えられている「銅造地蔵菩薩坐像」も拝むことができる。これは享保2年(1717)4月、深川地蔵坊が願主となって、神田鍋町の鋳物師・太田駿河守藤原正儀によって鋳造されたものだ。坐像には約1万人もの結縁者の名前が陰刻されている。
憩いの場となった名園を抜け、奇才が活躍した場所に立つ
霊巌寺の次は、今回最後の目的地である平賀源内がエレキテルの実験を行った場所の跡へと向かう。その前に、江戸時代の大名屋敷に用いられた泉水、築山、枯山水が主体となっている回遊式林泉庭園が見られる、『清澄庭園』に立ち寄ってみた。もともとこの地の一部は、江戸時代の豪商・紀国屋文左衛門の邸跡だったと伝えられている。その後、下総の藩主・久世(くぜ)大和守の下屋敷になったが、明治になるとすっかり荒廃していた。
明治11年(1878)、三菱の創業者である岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画。明治13年(1880)に「深川親睦園」として竣工。その後も整備が続いた。
関東大震災時に避難場所として多くの人命を救ったことから、岩崎家は庭園の東半分を東京市に寄付。それが現在の『清澄庭園』だ。その後、1977年に西半分も寄付され、こちらは開放公園となり、地域の人たちの憩いの場として親しまれている。どちらも都会とは思えないオアシス。庭園は日本の庭園美の真髄にも触れられるので、時間が許すならぜひ立ち寄りたい。
『清澄庭園』と清澄公園を抜けると、すぐに隅田川に行き当たる。佐賀町河岸通りに沿って河口方面に少し歩けば、川べりに立つ読売新聞の江東ビル前に出る。そこに「平賀源内電気実験の地」が立っている。この付近に平賀源内の自宅があり、源内は安永5年(1776)に日本で初めてエレキテル(摩擦起電機)の復元修理に成功。しばしば自宅で実験し、見せ物や医療器具として大名や豪商たちに販売したりしていた。現在、実験が行われたとされる地には、石碑だけが建てられている。
次回は『べらぼう』ゆかりの史跡があるだけでなく、観光地・散歩コースとしても魅力的な場所を紹介したい。場所がどこなのかは、リリースまでのお楽しみに。
取材・文・撮影=野田伊豆守
野田伊豆守(のだいずのかみ)
フリーライター・編集者
1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。