「磔にされた信長の叔母」4度の政略結婚に翻弄された女城主・おつやの方の悲劇
岐阜県恵那市の岩村町にあった山城・岩村城は、海抜717mに本丸が建てられた日本三大山城の1つにも数えられる城跡だ。
江戸の面影を今に残す城下町の街並みは、テレビドラマの撮影地としても注目を集めている。
おつやの方は、戦国時代の一時期にこの岩村城の城主を務めていた織田家の娘で、織田信長の叔母にあたる女性である。
過酷な運命を背負った織田家の娘といえばお市の方が有名だが、おつやの方もまた壮絶な生涯を歩んだ人物だった。
彼女は4度結婚したとも伝えられ、そのうち2人の夫を信長との戦いで失い、自分自身も最後は信長方によって命を奪われた。
苦しみながら命を落としたおつやの方は、岩村藩主となった丹羽家に祟ったとも伝えられている。
今回は、政略に翻弄され無残な最期を迎えた女城主・おつやの方の生涯に触れていきたい。
おつやの方の出自
おつやの方は織田信長の父方の祖父である、織田弾正忠家当主・織田信定の娘として生まれた女性だ。
織田家の人物は容姿端麗な人物が多かったと伝わるが、おつやの方もまた美貌の女性であったという。
誕生年についての記録がなく不明だが、信定にとって末子に近い世代の女子だったと考えられている。
当時の多くの武家の娘と同様に、おつやの方は政略結婚の駒となり、波乱の生涯を送った。
最初に嫁いだのは美濃の斎藤家の家臣であり、安藤守成や氏家卜全らとともに斎藤六宿老と称された、美濃国結城(むすぶじょう)城主の日比野清実(ひびの きよざね)であった。
しかし、1561年に斎藤義龍が急死したことを皮切りに信長が美濃に侵攻し、これを美濃の森部で迎え撃った清実は討死してしまう。
主人を失った清実の一族は、羽柴秀吉の家臣として織田氏に仕えた川並衆の日比野六太夫の庇護下に入ったが、おつやの方は織田家に戻り、織田家の家臣と再婚したとされる。
遠山景任との結婚
織田家家臣と再婚したおつやの方は、その後まもなく美濃国恵那郡の岩村城城主であった遠山景任(とおやま かげとう)と再々婚した。
景任と結婚した詳しい時期は不明だが、一説には、おつやの方が20代半ばの頃であったとされる。
領地を武田氏、織田氏、松平氏、三木氏に囲まれていた岩村遠山氏は、1558年頃からは武田信玄に臣従していたが、景任は濃尾に勢力を伸ばしてきた信長とも接近している。
景任とおつやの方の結婚は、対武田氏を意識した信長と、列強に囲まれ難しい立場に置かれた遠山氏との関係を強化するための縁戚関係に他ならなかった。
永禄年間には遠山氏は武田氏・織田氏の双方に属し、両者の外交を仲介するようになった。
しかし1569年頃から武田氏の圧力が強まると、景任を除く遠山氏の多くは武田氏から距離を置き、織田氏や徳川氏と連携するようになる。
一方、景任率いる岩村遠山氏は、武田氏との関係を保ち続けていた。
1570年には岩村遠山氏の領地内で、徳川・遠山連合軍と武田軍が激突する上村合戦が勃発したが、武田氏との関係を残していた岩村遠山氏は、この戦には参加していなかった。
その背景には、景任が岩村遠山氏の当主となった際、後に上村合戦で武田軍を率いる秋山虎繁(あきやま とらしげ)が、武田氏の威力を背景に景任の当主就任を後押ししたことがあったと考えられている。
難しい立場に居続けた景任だったが、1572年におつやの方を残して病死してしまう。
景任には子供がおらず、岩村遠山氏の血統はここで断絶してしまった。
信長からすれば、嗣子のいない景任の死は、東美濃の支配権を得る好機だった。
織田を支持する遠山氏家臣派閥の申し入れもあり、岩村遠山氏は信長の子である御坊丸(後の織田勝長)が景任の養子として継ぐことになった。
1572年、信長は岐阜城留守居であった織田信広や河尻秀隆を遣わし、岩村城を織田方の支配下に置いた。
そして岩村城に残ることを決め、幼い御坊丸の後見人となったおつやの方は、岩村城の実質的な城主となったのである。
秋山虎繁との結婚
おつやの方は、亡き夫が残した岩村城を守る立場となったが、要所である岩村城が実質的に信長に乗っ取られたことを、武田信玄が許すはずもなかった。
そして景任の死からわずか2ヶ月後に、信玄は西上作戦を開始する。
信玄自身は遠江に出陣する一方、秋山虎繁らの武田勢も東美濃方面へ進出し、岩村城を攻めた。
しかし、その頃の織田勢は各地での戦いに追われ、岩村城に援軍を送る余裕はなかった。
岩村城を包囲した秋山虎繁はおつやの方に対して「自分と結婚すれば岩村城内に籠城している者たちを助命する」という条件を出した。
信長の救援が得られないと考えたおつやの方は、御坊丸と領民や家臣の命を守るために、この条件を受け入れた。
こうして岩村城は武田の手に落ち、信玄は配下の下条信氏(しもじょう のぶうじ)を岩村城に送り込んだ。
岩村城の戦いの翌年にあたる1573年の2月には、おつやの方は虎繁と祝言を挙げている。
『甲陽軍鑑』によれば、御坊丸はこの後に甲府に送られ、信玄の手元に置かれて人質とされ、岩村遠山氏はここで完全に終焉するに至った。
長篠の戦いと岩村城落城 〜おつやの方の最期
おつやの方と祝言を挙げた翌月の1573年3月、秋山虎繁は信玄の命で岩村城に入り、大嶋城代と岩村城代を兼ねることとなった。
同月、信長勢が様子を見るため岩村城周辺に布陣したが、すでに城は虎繁の手中にあったため、何もできずに撤退している。
しかしその翌月の4月12日に、信玄が急死してしまった。
虎繁は信玄の跡を継いだ勝頼に仕えるようになったが、2年後の1575年5月に起きた長篠の戦いで武田軍は大敗し、信長はその勢いに乗って諸城に兵を向け、岩村城も信長の嫡男である織田信忠に包囲された。
虎繁は岩村城を守るために必死で防戦しながら勝頼にも援軍を要請し、当初は武田信豊と小山田信茂が援軍として送られる予定だったが、勝頼も遠江方面の防戦で余裕がなく実現することはなかった。
数ヶ月に渡り岩村城で防戦し続けた虎繁だったが、11月になると、ようやく勝頼が岩村城への援軍を出兵させた。
しかし、これを受けて織田軍も攻撃を強める。
有力な兵を次々と討ち取られ、補給路も断たれて窮地に立たされた虎繁は、ついに城兵の助命を条件に織田方へ降伏を申し出た。
織田方は虎繁らの降伏を受け入れ、城兵の助命も認める姿勢を見せた。
ところが、赦免への礼に出向いた虎繁らはその場で捕らえられ、事実上の騙し討ちに遭った。
残る城兵にも追撃が加えられて多くの兵が討ち取られ、城に残った者たちも焼き殺されたという。
おつやの方も夫の虎繁とともに捕らえられ、処刑された。
現在の岩村では、夫妻は岐阜城近くの長良川河畔で磔(はりつけ)に処されたとされる一方、古い『岩村町史』には、大将陣で「逆さ磔」に処されたという伝承も残されている。
逆さ磔とは、身体を逆さに吊るした状態で磔にする苛烈な刑で、血液が頭に逆流して脳充血や呼吸困難を起こし、長時間苦しみながら死に至る。岩村では長くおつやの方がこのような無残な最期を遂げたと語り継がれてきた。
信長は身内であるにもかかわらず過酷な刑に処すほど、織田家を裏切ったおつやの方に憎悪を抱いていたとも考えられ、おつやの方もまた最期まで信長を恨み、その行く末を呪うような言葉を残して絶命したという。
おつやの方処刑後に噂された祟り
岩村城は織田の手に渡ったが、おつやの方の死後から本能寺の変までに、河尻秀隆、団忠正などの織田家臣が城主となった。
しかし、河尻秀隆は1582年6月に甲斐で一揆勢に殺され、団忠正も信忠とともに本能寺の変で命を落としている。
その後、幾人かの城主代わりを経て江戸時代に入ると、岩村城は岩村藩主の居城となった。
しかし歴代の藩主やその一族に不幸が相次ぎ、後嗣が夭折することもあったため、いつしか人々の間で「無念の死を遂げた虎繁とおつやの方の霊の祟りではないか」と囁かれるようになった。
1657年に第3代岩村藩主となった丹羽氏純は、この祟りを鎮めるため、父・氏定が城下に建立した妙法寺の境内に、ふたりを供養する恵照山五佛寺を建立し、側室・香樹院の兄を剃髪させて住職とした。
五佛寺は後に廃寺となったが、妙法寺には今でも、おつやの方と虎繁を供養する「まくら冢」と呼ばれる供養塔が残されている。
戦乱に翻弄され、最期は裏切り者として残酷な刑に処されたおつやの方だが、岩村では領民や家臣の命を守ろうとした慈愛と、城を預かる者としての気高さを併せ持つ「女城主」として、今も人々に慕われているという。
参考文献
横山 住雄 (著) 『中世美濃遠山氏とその一族』
太田 牛一 (著), 中川 太古 (翻訳) 『現代語訳 信長公記』
恵那市観光協会岩村支部・日蓮宗桃萼山妙法寺『秋山伯耆守虎繁・女城主おつやの方 四百五十年遠忌法要』2024年
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部