他者との共生はいかに可能か──岸見一郎さんが読む、マルクス・アウレリウス『自省録』#1【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
岸見一郎さんによる
マルクス・アウレリウス『自省録』読み解き #1
自らの戒めと内省こそが、共生への道となる――。
名君と名高いローマ皇帝マルクス・アウレリウスが、自己の内面と徹底的に向き合って思索を掘り下げ、野営のテントで蠟燭を頼りに書き留めたという異色の哲学書『自省録』。
『NHK「100分de名著」ブックス マルクス・アウレリウス 自省録』では、困難に立ち向かう人を勇気づけ、対人関係に悩む人へのヒントに満ちた不朽の名著である『自省録』を、『嫌われる勇気』で知られる岸見氏がやさしく解説します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします
(第1回/全5回)
生きづらい今にこそ読まれるべき針盤の書
(はじめに)
人生の岐路に立った時、あるいは対人関係に悩んだり、生きづらさを感じたりした時に、皆さんはどんな本を手に取るでしょうか。その一冊に是非加えていただきたいのが、『自省録』です。
書かれたのは、今から二千年近く前。著者は第十六代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(以下、アウレリウスと略記)です。彼は絶頂期のローマ帝国を治めた名君の一人で、約二百年続いた繁栄と平和に陰りが見え始めた時期の難しい舵取りを担った賢帝です。
名門家庭に生まれたアウレリウスは、その資質と見識を見込まれ、わずか十八歳で帝位継承者に指名されました。大抜擢に応えて公務に献身し、三十九歳で帝位を継承すると自ら軍を率いて国防の前線に赴きます。戦いに明け暮れる中、野営のテントで蠟燭の灯りを頼りに、あるいは宮廷の自室で書き留めていたのが『自省録』です。
本書は戦況や政局の困難を吐露した日記でも、自らの武勇や帝王学を論じたものでもありません。皇帝が書いたものだと聞けば、偉い人が高いところから教訓を垂れているのではないかと思って敬遠する人もいるかもしれませんが、そういう本ではありません。前後の脈絡なく、自分の思いを絞り出すように、ひたすら自分の内面を見つめ、戒め、己を律する言葉が綴られた手記、個人的なノートです。
アウレリウスは、皇帝の地位も、宮廷での華やかな暮らしも望んではいませんでした。彼の心が求めていたのは、少年時代から深く傾倒していた哲学でした。皇位に就き、学問として哲学を探求する道は絶たれてしまいましたが、多忙な公務の合間を縫って内省し、哲学の示すところを実践するよう自分に言い聞かせていたのです。
十二巻から成る『自省録』は、そうした折節の思索や自戒の言葉を書き留めた覚え書きです。誰かに読まれること、あるいは読ませることを前提として書かれたものではありません。彼はローマ人ですが、本書はアウレリウスの母語のラテン語ではなく、ギリシア語で書かれています。テーマが整理されているわけでもなく、書きかけのような文章や、本からの引用、論理に飛躍がある文章もあります。それにもかかわらず、脈々と伝承されてきたのは、その真摯な言葉が多くの人の心を打ったからにほかなりません。
アウレリウスの言葉が私たちの心に響く理由の一つは、等身大の自分を重ねて読むことができるところにあるように思います。
もうお前は死んでしまうだろう。それなのに、心には表裏があり、平静でいることもできていない。外から害されるのではないかという疑いは去らず、すべての人に対して親切にもなれない。思慮あることは正しい行いをすることであるとも考えていない。
(四・三七)
お前がこんな目に遭うのは当然だ。今日善くなるよりも、明日善くなろうとしているからだ。
(八・二二)
「こんな目に遭う」というのが何を指しているかはわかりませんが、いつ何時人生が終わるかわからないのに、この先もずっと生きるかのように、よくなろうとする決断を先延ばしにしている人には耳が痛いことでしょう。彼は自分が立派な人間だとは考えていませんでした。自分が不完全であることを自覚し、迷いも弱さも正直に披瀝しています。それを強い言葉で戒めつつ、人としてどうあるべきかという指針や理想を示してくれています。そうした理想を、不完全ながらも体現し、善き人になろうと煩悶、苦闘する過程を、アウレリウスは身をもって私たちに見せてくれているのです。
私が『自省録』を初めて読んだのは学生の頃です。精神科医の神谷美恵子が仕事や家事の合間に『自省録』を翻訳していることを知り、驚きとともに興味を持ったのです。
今回、『自省録』について話すことが決まった時、神谷美恵子訳の『自省録』を書棚に見つけました。久しぶりに開いて見ると、一枚の付箋が貼ってあることに気づきました。付箋がつけてあった箇所で、アウレリウスは次のようにいっています。
お前自身には成し遂げ難いことがあるとしても、それが人間に不可能なことだと考えてはならない。むしろ、人間にとって可能でふさわしいことであれば、お前にも成し遂げることができると考えよ。
(六・一九)
大学院に入った年、母が突然脳梗塞で倒れ入院しました。私は大学に行かず、病院に泊まり込んで、母の看病をすることにしました。長い時間病院にいなければならないという体力的な問題を除けば、巡り合わせで母の看病ができたことはありがたいことでした。就職していたら病院で寝泊まりすることなど到底できなかったでしょうから。問題は講義や演習に出席できないことでした。そこで私は研究室の仲間に遅れを取らないように、病室にギリシア語の本を持ち込んで勉強をすることにしました。その時に読んだ一冊が『自省録』だったのです。神谷訳の『自省録』に付箋が貼ってあったということは特に心に響いたのでしょう。
ある日、もはや回復の見込みがないことを医師から告げられました。やがて見るように、アウレリウスが依拠するストア哲学は忍従の哲学といわれることもありますが、決して諦めることを勧めるわけではありません。親が死ぬことを避けることはできないけれども、それをどう受けとめるかは自分で選ぶことができます。
「親は、いつかいなくなる。それはつらいことだが、誰もがそれを乗り越えてきたのだから、お前にもできる──」
『自省録』を開いた私は、アウレリウスにこのように語りかけられた気がしました。
私は意識を失いベッドに身を横たえている母を見て、人間はこの状態でなお生きる価値があるかということを、死についてしばしば言及する『自省録』を読みながら考えていました。母はその後間もなく亡くなりました。
私は、病院で毎日ノートを書いていました。もっぱら母の病状や受けた治療などを記していたのですが、そのノートにそれ以外にも考えたことや本から引用した文章を書いていました。これは私にとっての『自省録』だったのです。
すべてのものは儚はかない。記憶するものも、されるものも。
(四・三五)
すぐにお前はすべてを忘れるだろう。そして、すぐにお前のすべても忘れられるだろう。
(七・二一)
後世の私たちにとって幸いなことに、アウレリウスのこの予言は外れました。忘れられるどころか、彼の名と言葉は時空を超えて多くの人の記憶に刻まれ、その心を照らし続けています。その理由は、普遍的な真理が〝生きた言葉〟で語られていること、とりわけ、時代や国・地域の違いを超えて、誰もが共感して読めること、その時々の〝今〟に通用する内容であることなどにあるのでしょう。
彼が紡ぐ言葉、行間からにじむ苦悩、それでも前を向いていこうとする姿勢には、生きづらい世の中を生き抜くヒントがあります。仕事に追われ、幸福を感じられない人には、哲学を愛しつつも政務に追われ、理想と現実の狭間で葛藤していたアウレリウスが自分に重なって見えるかもしれません。裏切りや謀略に悩まされていた彼の言葉は、競争社会の中で不信と孤独に苛まれている人に寄り添い、励ましてくれるでしょう。『自省録』は、対立を否定し、協力して生きることを繰り返し訴えています。これはまさに排他主義が広がる現代への警鐘、今こそ読まれるべき一冊だと思います。
「お前は──」とアウレリウスが自身に語りかけた言葉は、読者である「私」たちに向けられているようにも聞こえます。心に残る短い言葉もあれば、すぐには意味を捉えることが難しい記述も時にありますが、その真意を読み解きつつ、幸福とは何かについて、他者と共生する知恵や困難との向き合い方について、一緒に考えていきましょう。
著者
岸見一郎(きしみ・いちろう)
専門の哲学と並行してアドラー心理学を研究。精力的に執筆・講演活動を行っている。著書に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健と共著/ダイヤモンド社)など、訳書に、アドラー『人生の意味の心理学』(アルテ)、プラトン『ティマイオス/クリティアス』(白澤社)など。
※全て刊行当時の情報です。
■『NHK「100分 de 名著」ブックス マルクス・アウレリウス自省録 他者との共生はいかに可能か』(岸見一郎著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛している場合があります。
*本書で紹介する『自省録』の言葉は著者訳です。
*引用訳文末にある数字「(□・◯)」は、『自省録』中の「□巻・◯章」を指します。
※本書は、「NHK100分de名著」において、2019年4月に放送された「自省録」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「生の直下で死と向き合う」、読書案内などを収載したものです。