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#2 『源氏物語』を英語全訳した男──安田登さんと読む「ウェイリー版・源氏物語」【NHK100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

#2 『源氏物語』を英語全訳した男──安田登さんと読む「ウェイリー版・源氏物語」【NHK100分de名著】

#2 「ウェイリー版・源氏物語」を、安田登さんがやさしく解説

「ゲンジ」は、こんなに面白い!

光る君は「シャイニング・プリンス」、天皇は「エンペラー」──。1920~30年代、イギリス人アーサー・ウェイリーによって英訳された『源氏物語』="The Tale of Genji"は、世界最古の小説として驚きをもって迎えられました。

今回、能楽師・安田登さんがNHK『100分de名著』で読み解くのは、ウェイリー訳を日本語に再翻訳した、いわば「逆輸入版」の『源氏物語』です。

安田さんは、英訳版を現代の日本語に訳し戻したとき、紫式部の描いた平安時代の情景は、誰もが読破できる、驚くほど面白い世界として立ち上がってくるといいます。

今回は本書「第1回」より、アーサー・ウェイリーについての解説を公開します。

第1回「翻訳という魔法」より

語学の天才、アーサー・ウェイリー

『源氏物語』を英語全訳したアーサー・ウェイリーは、ヴィクトリア朝末期の一八八九年、イギリス南東部ケント州のユダヤ系の家庭に生まれました。

 パブリックスクールの名門ラグビー校からケンブリッジ大学に進んだウェイリーは、初めは経済学を志したものの、途中で専攻を変更。一九一〇年、古典の学位を得て同校を卒業します。しかしこの年、彼は左目をほぼ失明。右目も危ないと宣告されます。

 一九一三年、ウェイリーは大英博物館の学芸員の職に応募します。

 らせん訳の訳者あとがきによれば、応募書類にはこうあったそうです。

楽に読める言語……イタリア語、オランダ語、ポルトガル語、フランス語、ドイツ語、スペイン語

流暢に話せる言語……フランス語、ドイツ語、スペイン語

習得した言語……ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、サンスクリット語

 これだけの言語ができるだけでも驚きですが、この時点で彼はまだ日本語を学んでいません。二〇世紀初頭のイギリスで、一から勉強を始めて、あの『源氏物語』を全訳したのだと思うと、本当にすごいとしか言いようがありません。

 ウェイリーが日本語を学ぶようになったのは、大英博物館に新設された東洋版画・素描(そびょう)部門に配属されたことがきっかけでした。二〇一三年に大規模な日本の春画展が開催され話題になったように、大英博物館は膨大な数の東洋美術品をコレクションしています。その整理を担当するようになったウェイリーは、この仕事には中国語と日本語が必須だと認識。この二つの言語を習得することにしたのです。

 中国語と日本語を勉強した彼は、東洋文学の翻訳を始めるようになります。一九一八年、陶淵明(とうえんめい)や白居易(はくきょい)などの漢詩を集めた『中国の詩一七〇篇』を翻訳。翌一九年には、『万葉集』や『古今和歌集』などの和歌を英訳した『日本の詩歌──うた』を刊行。二一年には、能の演目、十九曲を翻訳して『日本の能』を刊行しています。

 そして一九二五年、『源氏物語』英語全訳の第一巻(「桐壺」〜「葵」)を刊行。この仕事は八年後の一九三三年、第六巻(「宿木」の途中〜「夢浮橋」)の刊行をもって完結します。

 東洋文学の翻訳者として成功したウェイリーは、『源氏物語』を翻訳中の一九二九年に大英博物館を退職。ロンドン大学東洋アフリカ学院で講義をしたりしながら、翻訳の仕事を続けました。

大英博物館で『源氏物語』と出会う

 では、ウェイリーはどのようにして『源氏物語』と出会ったのでしょうか。らせん訳の訳者あとがきを再び引用します。

 さて、ある日のこと、ウェイリーは大英博物館の一室で、いつもの通り日本画の整理をしていました。ふと、ある一枚の絵が彼の目を引きます。一人の貴公子が座し、月を眺めている絵でした。広がる海、生垣のある侘しい住まい、悲しげな眼差し……、物語の一節の画賛(がさん)もありました。

 これは『源氏物語』の第十二帖「須磨」の一場面を描いたものでした。「その時、なぜかわからないが、急に『源氏物語』を読んでみたくなった」とウェイリーはのちに書いているそうです。

 ウェイリーの蔵書を調査研究した井原眞理子さんによると、彼はすぐさま大英博物館の書庫で『源氏物語』を探したものの、あったのは古い版木で刷られた非常に読みにくい印刷のもの。日本から新しい本を取り寄せたウェイリーは、読み始めるや、その世界に没頭したといいます(「ハイゲイト探訪記」『世界の源氏物語』)。

 この出会いは一九一四年頃と推測されています。翻訳を始めたのがいつなのかは、正確にはわかっていません。

 ウェイリーは語学の天才だと言いましたが、いくら天才でも、日本人が読んでも難しい『源氏物語』です。それを翻訳するのは簡単なことではなかったと思います。ウェイリーは、日本に行ったことはありませんでした。また、平安時代の王朝文学を、それに見合うクオリティと世界観を持った英語に訳すという意味での先行者(ロールモデル)もいませんでした。

 しかし、その作品の素晴らしさを確信していた彼は、「今まで書かれた世界の作品のなかで、二指か三指に数えられる最大傑作のひとつです」と言って出版社を説得します。そして一九二五年五月、第一巻が発売されると、「日本の一大傑作」「文学において時として起こる奇跡のひとつ」など、イギリスやアメリカの文壇に大反響を巻き起こします。ウェイリーの英訳は、その後フランス語やスウェーデン語などに重訳され、『源氏物語』が世界に知られる扉を開いたのです。

NHK「100分de名著」テキストでは、
第1回 翻訳という魔法
第2回 「シャイニング・プリンス」としてのゲンジ
第3回 『源氏物語』と「もののあはれ」
第4回 世界文学としての『源氏物語』
もう一冊の名著 『紫式部日記』
という構成で、ウェイリー版・源氏物語を味わいます。

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講師

安田 登(やすだ・のぼる)
能楽師
一九五六年千葉県生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。ワキ方の重鎮、鏑木岑男師の謡に衝撃を受け二十七歳で入門、国内外を問わず活躍。おもな著書に『能650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『学びのきほん 役に立つ古典』『学びのきほん 使える儒教』『別冊NHK100分de名著 集中講義 平家物語』『別冊NHK100分de名著 集中講義 太平記』(NHK出版)など。
※刊行時の情報です

◆「NHK100分de名著 『ウェイリー版・源氏物語』2024年9月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における現代語訳の引用は『源氏物語 A・ウェイリー版 』(全4巻、毬矢まりえ・森山恵訳、左右社)に、原文は『源氏物語』(全9巻、柳井滋ほか校注、岩波文庫)に、英訳はThe Tale of Genji translated by Arthur Waley Tuttle Publishingに拠ります。また、読みやすさを鑑み、引用の一部にルビの加除をしています。

◆TOP画像:『源氏物語絵巻』住吉具慶筆 東京国立博物館所蔵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)を加工
※テキストへの掲載はございません。

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