神話の謎解きに挑戦!?岡山県内に伝承が残る神功皇后ゆかりの歴史スポット10選
一般的には架空の人物とされている「神功皇后」の伝承は、瀬戸内海沿岸から九州北部まで西日本各地に残されています。これらの伝承は地名の由来や神社の由緒、ひいてはそれぞれの郷土の歴史と深く結びついています。今回は岡山県内に伝承が残る神功皇后ゆかりの歴史スポット10選をご紹介しながら、その背景に秘められた神話の謎に迫りたいと思います。
1.牛窓(瀬戸内市)
古くからの港町として知られる瀬戸内市の牛窓には、多くの伝承が残されています。神功皇后が遠征からの帰途、この地で牛鬼という怪物に襲われた際に「住吉明神」が現れ、牛鬼を投げ倒して退治したそうです。そこから生じた「牛転び(うしまろび)」が転訛したのが「牛窓」の由来であるとされています。
Column
神功皇后とは
「神功皇后(じんぐうこうごう)」は巫女的な能力を持った伝説上の皇族です。遠征中に急死した夫「仲哀天皇」に代わり、住吉明神のお告げに従って遠征を続行。懐妊の身でありながら男装して九州の熊襲(くまそ:ヤマトに服属しない民)や朝鮮半島の新羅などを征服し、帰国後に皇子「応神天皇」を出産したとされます。後の時代に「神功皇后」と「応神天皇」は武運や弓術、安産、航海の安全などをつかさどる「八幡神」として広く信仰されました。もし実在したとすれば4世紀後半(古墳時代)の人物となります。
2.五香宮(瀬戸内市)
当初は「住吉三神」が祀られ、神功皇后が奉納したとされる宝物が安置されていました。江戸時代には、岡山藩主「池田光政」により京都伏見の「御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)」から「神功皇后」「応神天皇」が勧請されて、「住吉三神」と合わせて五柱の神を祀るので「五香宮(ごこうぐう)」となったそうです。境内では神明造りに銅板葺きの屋根という荘厳な社殿が目を引きますが、たくさんの猫がいることでも知られています。
3.纜石(瀬戸内市)
牛窓と前島の間にある「唐琴の瀬戸」に面して鎮座するこの岩は、神功皇后の一行が船をつないだ「纜石(ともづないし)」であると伝わっています。
4.腰掛石(瀬戸内市)
写真の中央に見える岩が神功皇后が腰を掛けたとされる「腰掛石」です。同じく神功皇后伝承に由来を持つ伝統行事「唐子踊り(からこおどり)」はこの場所でも奉納されます。
5.三ツ山(浅口市)
古くから港として栄えた浅口市寄島町にも多くの伝承が残されています。「三ツ山(三郎島)」は神功皇后が神にお供えしたオニギリが岩になったものだと言われています。当地の人々は3つの岩を神の現身(うつしみ)と考え、「神功皇后」「応神天皇」「仲哀天皇」のほか、さまざまな神が祀られたそうです。
6.寄島(浅口市)
「寄島(よりしま)」は神功皇后が遠征の帰途にこの島へ“寄った”ことに由来すると言われ、現在では干拓によって陸続きとなり「寄島園地」という公園になっています。かつて、三ツ山を見下ろせる場所に安倍晴明によって八幡宮が建立されたという伝承も残されています。
7.苫陰の井戸(浅口市)
神功皇后が寄島で水を探していた際に、疲れて砂浜に鉾を突き立てたところ水が湧き出したそうです。皇后はこの水を使って神事を行ない、島を去る際には船の苫(とま:粗く編まれたむしろのようなもの)をかけて涸れないように祈られたことから「苫陰の井戸」という名が付いたと言われています。
8.安倉(浅口市)
神功皇后が当地を訪れた際に「自分:あ」+「座る場所:くら」=「あくら」はどこか、とたずねたことに由来する地名だそうです。安倉の「安倉八幡神社」と、そこから少し西に位置する「大浦神社」は神功皇后の遠征にちなんだ壮大な秋季例大祭を行なうことで知られています。
9.両児神社(倉敷市)
倉敷・玉野エリアにも豊富な伝承が残されています。遠征からの帰途、当地に神功皇后が滞在した際に応神天皇が二歳を迎えたことから「二ツ子」という地名となり、現在は「倉敷市 二子(ふたご)」と表記されます。当初は二子にある「高鳥居山」に八幡宮が建立され、のちに神託によって現地へ遷座されて今に続く「両児神社(ふたごじんじゃ)」となったそうです。
10.鉾島(玉野市)
写真のほぼ中央に見えている砂州で陸地とつながった小さな島は「鉾島(ほこしま)」と呼ばれます。神功皇后が鉾を突き立てたとされる伝承地で、児島周辺には皇后にまつわる地名が他にも複数存在します。また、直接の関連性は不明ですが少し北に行くと「鉾立岩(番田の立石)」という鉾のように細長い岩が直立した遺跡もあり、上の写真はその場所から撮影したものです。
謎解きに挑戦!
ここまで読んでいただいて、どのような感想をお持ちになったでしょうか。架空の人物にしては伝承地が多く、行動内容もかなり具体的だと思いませんか?本当に実在性のない人物なのでしょうか…。私なりにいろいろと調べてみて、ひとつ発見したことがあります。
それは、神功皇后の伝承地には必ず三つの島(岩)があるということです。浅口市の「三ツ山」については説明不要ですね。同じくらいの大きさの三つの岩が、ほぼ等間隔で並んでいます。
倉敷・玉野エリアはどうでしょうか?「両児神社」の由緒によれば、境内のある山はかつて島で、しかも三つの島が並んでいたそうです。現在は完全に陸地化していて海辺の面影はまったくありませんが、参道の前方に広がる田畑はかつて海で、正面に見えている山並みも「早島」という島でした。
「牛窓」にも三つ並んだ島(岩)があります。「黒島」の向かって右に並ぶ「中ノ小島」「端ノ小島」「百尋礁」です。上の写真は満潮に近い時間帯のものなので右端の岩礁「百尋礁」が少しわかりにくいですが、ほぼ等間隔で三つ並んでいます。「黒島」は古代から祭祀が行なわれていた聖域で、立派な前方後円墳があり、鎮座する「武内神社」の御祭神は神功皇后の右腕として活躍した「武内宿禰(たけのうちのすくね)」です。
ちなみに、今回は紹介していませんが岡山県内にはもうひとつ神功皇后ゆかりの地があります。それは備前市「三石(みついし)」です。「三石明神社」には、やはり皇后と三つの岩にまつわる伝承が残されています。ここまでくると、もう偶然ではありませんね。
海の神との関係
それでは、謎解きを始めましょう。この「三つの島・岩」が体現しているものとは「海の神」=オリオン座の中央にある「三つ星」ではないかと私は考えます。昔の船乗りは「三つ星」を航海の目印にしていたので、航海の安全をつかさどる「海の神」は必ずと言ってよいほど三柱で構成されています。(上図参照)
ここで、牛窓の名前の由来を思い出してください。「住吉三神」が「三つ星」を神格化したものだとすれば、「住吉明神が牛鬼を退治した」というエピソードは、星座の世界において「オリオン座がおうし座を追いかけている」という事象になぞらえたものではないでしょうか。
まとめ
以下は私なりの個人的な推論です。
~古代に瀬戸内海で活躍していた海の民は「三つ星」に由来する海の神を信仰していたので、三つの島や岩が並んでいる場所を見つけると神の現身(うつしみ)と考え、聖地として祀っていた。4世紀末に当時政治や文化の中心地だった畿内で大規模な遠征軍が編成されると、海の民が輸送を担当する次第となり、彼らの聖地で航海の無事を祈願しながら瀬戸内海を西進し、征討が無事に終了すると、聖地へ感謝を捧げながら畿内へと帰還した。この出来事が人々に深く記憶され、祭祀に従事した巫女(おそらく皇族出身)がモデルとなって神功皇后伝説が生まれた~
さらに想像力を膨らませれば、海の民には天文の知識と一緒に海外の神話が伝わっていて、「オリオン(海の神ポセイドンの息子)」とその恋人「アルテミス(弓矢を携えた武人で安産の女神)」のイメージを住吉明神と神功皇后に重ねたのではないか?これは、さすがにファンタジーの度が過ぎるでしょうか…。とりあえず、この記事がきっかけで神功皇后伝説に興味を持つ方が一人でも増えて、現地を訪れてくれたら幸いです。長文失礼いたしました!