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社会の分断を防ぐヒントとなる「哲学」――朱 喜哲さんが読む、ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』【100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

社会の分断を防ぐヒントとなる「哲学」――朱 喜哲さんが読む、ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』【100分de名著】

いま、哲学は何をすべきなのか――その実践の書を読みとく

現代アメリカを代表する哲学者でありながら、真理を探求する近代哲学を根本から否定したリチャード・ローティ。分断やポピュリズムを乗り越え、連帯可能な社会を目指すための「新しい哲学」の役割を追求しました。

哲学者で大阪大学招へい教員の朱喜哲さんがローティの『偶然性・アイロニー・連帯』を読みとく『100分de名著』テキストでは、その実践的な思想を解説していきます。

今回は本書「はじめに」より、現代において「安心して会話ができる場所」を消さないためのヒントとなる、ローティ哲学へのいざないを公開します。

哲学者とは会話の守護者である

 二〇一六年のアメリカ大統領選でドナルド・トランプの当選が決まった三日後、ツイッター(当時。現在のX)に投稿されたある本の引用画像が大きな注目を集めました。十八年前の一九九八年に刊行されたその本には、次のように記されていました。

〔……〕労働組合員および組合が組織されていない非熟練労働者は、自分たちの政府が低賃金化を防ごうとも雇用の国外流出を止めようともしていないことに遅かれ早かれ気づくだろう。時同じくして、彼らは郊外に住むホワイトカラー層──この人たちもみずからの層が削減されることを心底恐れている──が、他の層に社会保障を提供するために課税されるなど御免だと思っていることにも気づくだろう。

 その時点において何かが決壊する。郊外に住めない有権者たちは、一連の制度が破綻したと判断し、投票すべき「強い男」を探しはじめることを決断するだろう。その男は、自分が当選した暁(あかつき)には、せこい官僚、ずるい弁護士、高給取りの証券マン、そしてポストモダンかぶれの大学教授といった連中にもはや二度と思い通りにさせない、と労働者たちに約束するのだ。

 まさにトランプ新大統領の誕生を予言したかのような内容です。法学者リサ・カーによるそのツイートは大量に拡散され、引用元の本はその日のうちに入手困難になりました。

 その本のタイトルは“Achieving Our Country ”(邦題『アメリカ 未完のプロジェクト』晃洋書房/引用は筆者による訳)、その著者が、今回取り上げるアメリカの哲学者リチャード・ローティ(一九三一~二〇〇七)です。ローティはすでに亡くなっていたため、トランプ大統領の就任には立ち会っていないのですが、「強い男」(Strongman)という形容を含め、その出現を正確に言い当てていたことから、彼の仕事は再び大きな注目を集めるようになりました。

 では、ローティとはどのような哲学者だったのでしょうか。ローティの思想を一言で言うなら、「哲学とは『人類の会話』が途絶えることのないよう守るための学問である」というものになります。これは、ローティが自身初の単著『哲学と自然の鏡』(一九七九年)で述べていることをテーゼ化したものですが、これがローティの哲学全体を貫くテーゼにもなっています。

「哲学が人類の会話を守る」とは、いったいどういうことなのでしょうか。

 ごく簡単に言うと、伝統的な哲学とは「真理を探究するもの」とされています。古代ギリシャのプラトン以来、哲学者たちは真理を追い求め、真理に到達することを目指してきました。到達を目指すということは、言い換えれば、いつかは探究を終わらせることを目指すのが哲学の営みだということになります。探求が終われば、それ以上の議論や会話は不要になります。しかし、それでいいのかと問うたのがローティです。哲学の使命はむしろ、そうした議論や会話を終わらせようとする勢力に抵抗し、それらを批判的に吟味することで、会話が絶滅しないようにすることなのではないか。そうローティは考えました。つまり、ある意味で「アンチ哲学」を唱えたのがローティなのです。

 では、真理の探究をやめたとき、哲学は何をなすべきなのか。それを明らかにしたのが、今回みなさんと読む『偶然性・アイロニー・連帯』(一九八九年)です。デビュー作で放った問いに自ら答えてみせたという意味で、本書はいわば実践の書です。ローティが晩年、「自分の書いた本の中ではいちばん気に入っている」と述べた本書は多くの言語に翻訳され、狭い「哲学業界」を超えて幅広い読者を獲得しました。

 私がローティと出会ったのは、哲学を志して大学に入ったころです。当初から私はそのまま大学院に進み、願わくは哲学を仕事にしたいと考えていました。そんな私にとって、ローティは最初、不真面目な哲学者のように映りました。哲学を批判する彼の主張は素直には受け入れづらかったですし、『偶然性・アイロニー・連帯』で説かれているある意味で実利的な実践編も、理論的な一貫性にこだわっていた私には中途半端で未徹底なものに思われました。

 ところが、ローティの本を読めば読むほど、反駁(はんばく)しようとすればするほど、それが一筋縄ではいかないことがわかってきます。そうして長く付き合っているうちに、だんだんと自分に変化が起きてきました。「真理は探究しなくていい」というローティの一見不真面目な主張を考え続けていくうち、自分が哲学の課題として悶々と考えていたことのいくつかについて、「あ、それはやらなくていいのかもしれない」と腑に落ちた。つまり、哲学というある種の〝病〟が治療されていく側面があったのです。

 私は現在、企業と大学の双方に所属しながら、哲学の研究と教育を行っています。哲学の使いどころについて視野が広がったいま、改めて、ローティは重要な哲学者だと自信を持って言えるようになりました。

 今日、世界では政治的な分極化がますます進んでいます。特にSNSを中心に、エコーチェンバー、フィルターバブル、論破」といった、議論や会話が成り立たなくなってしまう事態が深刻になっています。そのとき、一種の処方箋になるのがローティです。『偶然性・アイロニー・連帯』は、われわれがどうすれば会話を止めずに立ち回ることができるかについてのヒントや、その理論を提供してくれる本として読むことができます。また、いまの時代はいわゆる「炎上」が日常茶飯事となり、ひとたび失言があればすぐそこに人格的非難が集中します。その結果、安心して会話ができる場所が世の中からどんどん消えていっている。『偶然性・アイロニー・連帯』は、それを消さないようにするための足場にもなりうる本です。

講師

朱 喜哲(ちゅ・ひちょる)
哲学者、大阪大学招へい教員
専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。また研究活動と並行して、企業においてさまざまな行動データを活用したビジネス開発に従事し、ビジネスと哲学・倫理学・社会科学分野の架橋や共同研究の推進にも携わっている。著書に『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(共著、さくら舎)、『世界最先端の研究が教える すごい哲学』(共編著、総合法令出版)、共訳書に『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(ロバート・ブランダム著、勁草書房)などがある。
※刊行時の情報です。

◆「NHK100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』2024年2月」より
◆脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における『偶然性・アイロニー・連帯』からの引用は、岩波書店版(齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳、2000年)に拠ります。

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