クリムト《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》―奪われた名をめぐる、芸術を超えた“人間の尊厳”の物語
アデーレ・ブロッホ=バウアーと黄金の女
金色の輝きに包まれた一枚の絵がある。《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》。
グスタフ・クリムト《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》(部分)1907年
描いたのはグスタフ・クリムト。モデルはウィーン社交界の華、アデーレ・ブロッホ=バウアー。だがこの絵が“黄金の女(Woman in Gold)”と呼ばれるようになったのは、戦争がすべてを奪った後のことだった。
そして、半世紀を経てその絵を取り戻したのは、アデーレの姪、マリア・アルトマンであった。これは、ひとりの女性が家族の記憶と名誉を取り戻すまでの、長い闘いの物語でもありました。
伯母アデーレと姪マリア
マリア・アルトマンは1916年、ウィーンに生まれた。裕福なユダヤ系の家庭で育った彼女にとって、伯母のアデーレ・ブロッホ=バウアーは特別な存在だった。
子どもを持たなかったアデーレは、妹マリーの娘であるマリアをまるで自分の娘のように可愛がり、よく屋敷に招いては、絵や音楽、詩の話をして聞かせたという。幼いマリアの目に映るアデーレは、静かで品があり、少し憂いを帯びた大人の女性だった。
アデーレ・ブロッホ=バウアー
その屋敷は、ウィーンの芸術家や思想家が集う華やかなサロンでもあった。知的で進歩的な女性として知られたアデーレのまわりには、つねに文化と会話の香りが漂っていた。
夫のフェルディナント・ブロッホ=バウアーは砂糖業で巨万の富を築き、画家グスタフ・クリムトを支援していた。夫妻のもとには当時の芸術家たちが訪れ、ウィーンの黄金時代を象徴する文化の中心のひとつとなっていた。
1903年頃、夫妻はクリムトにアデーレの肖像画を依頼する。3年の歳月をかけて完成したその絵 《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》(1907)は、金箔のきらめきに包まれた傑作として知られている。
グスタフ・クリムト《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》1907年
アデーレの静かな眼差しは、威厳と知性、そして孤独を湛えている。後年の伝記では、アデーレは「何かを成し遂げるために生まれたのに、何もできずにいる」と感じていたとも伝えられている。
彼女にとって芸術を支えることは、自らが社会に参加する手段でもあった。そしてその思いが、金の中に閉じ込められたこの肖像に刻まれている。
奪われた家と名
1925年、アデーレは43歳でこの世を去った後、夫フェルディナントは、彼女の死後もこの肖像を大切に守り続けた。だが、1938年、ナチス・ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)が起こる。
ユダヤ人であったブロッホ=バウアー家は資産の没収を命じられ、夫妻の邸宅やコレクションはすべて国家の管理下に置かれた。フェルディナントはスイスへと亡命し、亡命先で生涯を終える。一方、アデーレの姪マリア・アルトマンは若き夫とともに命からがらウィーンを脱出し、アメリカへと渡った。
国家の宝とされた“黄金の女
戦後、オーストリア政府はナチスに奪われた財産を整理するため、返還に関する法律を制定した。しかしその一方で、「国家が保管している作品は返還対象外」とする制度を設けた。
フェルディナントがすでに亡くなっていたこともあり、ブロッホ=バウアー家のコレクションは“国家への寄贈品”とみなされてしまう。こうして、《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》を含む5点のクリムト作品は、オーストリア・ギャラリー(ベルヴェデーレ宮殿)の所蔵品として登録され、「ウィーンの黄金時代を象徴する文化財」として展示されるようになった。
そのとき、作品のタイトルからユダヤ人の姓「ブロッホ=バウアー」は消され、「黄金の婦人(Dame in Gold)」という名で紹介されるようになる。
それは、個人の肖像が“国家の宝”へと変えられた瞬間だった。だが、その金色の輝きの裏に、名前を奪われた女性がいたことを知る人は、ほとんどいなかった。
亡命者としての人生
ロサンゼルスで新しい生活を始めたマリア・アルトマンは、長いあいだ祖母の肖像のことを公には語らなかった。ウィーンに残された絵は、もはや遠い過去の象徴だったからだ。
しかし、1998年。オーストリアでナチス略奪美術品の再調査が始まると、マリアは家族の遺産、そして祖母アデーレの名誉を取り戻す決意をする。その時、彼女はすでに82歳になっていた。
国を相手取った闘い
マリアはオーストリア政府を相手取り、作品の返還を求めて訴訟を起こす。マリアの決意には感情だけでなく、明確な根拠があった。
亡命先のスイスで亡くなったアデーレの夫フェルディナントは、遺言で自らの資産の相続人として甥や姪を指名していた。その中には、愛する姪であるマリア・アルトマンの名もあった。つまり彼女は、《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》の正式な相続人だったのだ。
にもかかわらず、オーストリア政府は「アデーレの遺言により作品は寄贈された」と主張し、返還を拒んだ。その遺言の文面は“夫への希望”として書かれたもので、法的拘束力を持つ遺贈ではなかった。
裁判は長期化し、ついにはアメリカ合衆国最高裁まで持ち込まれた。2004年、最高裁は歴史的な判断を下す。「個人は外国政府を相手取って訴訟を起こすことができる」と。この判決により、マリアの訴えは正式に認められた。
彼女は語った。
「これはただの絵ではない。家族の記憶であり、失われた尊厳を取り戻すための闘いなのです。」
名を取り戻すということ
2006年、長い闘いの末、ついに《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》を含む5点のクリムト作品が返還された。
2006年3月、ウィーンで絵画「アデーレ・ブロッホ=バウアー」に別れを告げるポスター。
それは、単なる所有権の回復ではなく、「名前を取り戻す」ことそのものだった。ナチス時代にユダヤ人の姓を消すため、「ブロッホ=バウアー」という名は作品から抹消されていた。
アデーレの名前が戻ったことで、絵は本来のタイトル《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》を正式に取り戻す。それは、失われた記憶と尊厳を蘇らせる象徴的な出来事だった。
“黄金の女”が語りかけるもの
マリアは晩年、インタビューでこう語っている。
「私は伯母の名を、そして私たち家族の尊厳を取り戻したかったのです。」
その言葉が示すように、彼女の闘いは単なる“絵画返還訴訟”ではない。それは、奪われた名前、奪われた記憶、そして奪われた人間の尊厳を取り戻すための闘いだった。
《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》は、いまも静かに輝いている。金色の光の中には、クリムトの美学とともに、名を奪われた人々の記憶が宿っている。マリア・アルトマンの闘いは、芸術を超えた「人間の尊厳の回復」の物語であり、彼女が取り戻したのは、ひとつの名だけではなく、失われた時代の声そのものだった。
アデーレの視線は、いまも絵の中から問いかけてくる。
「あなたは、私を覚えていますか?」と。
そして、マリアの声が応える。
「ええ、お伯母さま。あなたの名は、もう二度と奪われません。」