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移住の形はどう変化し、新しくなってきている?|指出一正のオン・ザ・ロード

ソトコトオンライン

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2024年5月号ソトコト 特集「ニュー・移住スタイル」の巻頭言<完全版>をソトコトオンライン読者のみなさんに大公開。

移住の形はどう変化し、新しくなってきている?

東京メトロ茅場町駅の近くに、『ニューカヤバ』というレトロな立ち飲み屋さんがあります。大通りを少し入ったところで、赤い車が停めてある非常に入りづらい入り口から奥へ進んでいきます。「おじさんの遊園地」とも言われ、メーカー別に並ぶお酒の自動販売機に自分で小銭を入れて、コップを置いてそこに注いで飲みます。焼き鳥を頼むと、生の鶏肉とネギを刺した串を受け取り、炭火の焼き台に載せてこれも自分で焼きます。編集部が築地にあった頃は、お客さんと「飲みにいきましょうか」となったときにご案内することも多く、行くと、仕事帰りのビジネスマンが和気藹々と飲んだり、しゃべったり、焼き鳥の串をひっくり返したりしています。ただ、女性客は男性客と一緒であれば入店できるというルールが昔からあるようで、男性に連れられて入ってきた女性客は、焼き鳥の焼き方やお酒の買い方を教わりながら、やはり楽しそうに飲んでいます。厨房には女将さんが立っているので、男性がいっぱいいるのですが中心には女性がいるという、女性客も安心して飲める構図になっています。

今号の特集のタイトルは「ニュー・移住スタイル」です。移住特集はこれまでに何度も企画してきましたが、移住の前に「ニュー」という言葉をつけたのは初めてです。お気づきかもしれませんが、「ニュー」は『ニューカヤバ』から取ったネーミングでもあるのです。僕らが子どもの頃、「ニューなんとか」というネーミングが流行りました。新しい靴を履いて学校へ行くと、「おニューだね」なんて言われたりもしました。その響きに楽しさや軽やかさ、安心さえ感じていたので、移住に「ニュー」をつけてみました。「退路を断って」とか、「骨を埋める覚悟」とか、「移住者はこうあるべき」といった厳しい言葉を浴びせられた移住者が、受け入れる側の地域の住民とぶつかり合ってしまうというニュースがネットで書かれているのを見ると、移住という言葉を重いと感じる人も少なからずいることが想像できるので、もう少し和らげたほうがいいと思って「ニュー」をつけました。

重いととらえられる一方で、移住という言葉が軽やかになってきているのも確かです。20代の若い人たちが移住するのが当たり前のようになってきていることからもそれは言えます。関係人口の議論が始まった2012年ごろは、東日本大震災の被災地や西日本の過疎地域に移り住んで、まちづくりやソーシャルイノベーションを起こしたいという若い人が大勢現れました。今、移住したその地で家庭を持たれたり、まちづくりの10年選手になっていたりして、もう移住者ではないフェーズに入っているのは間違いありません。彼ら、彼女らが30代、40代になってその地域で活躍されているからこそ、当時を知らない若い人たちが軽やかに移住してくることができるのでしょう。

被災地や復興、過疎が二義的になっている地域が増えているのであれば、移住はもっと軽やかになってもいいのではないかと思います。今なお地域の課題は残りつつも、東北の被災地のみなさんが今も2011年の感覚でおられるのか、島根県のみなさんは1960年代に過疎という言葉が注目された当時の気持ちのままでおられるのか。訪れる若い人たちの多くはそういう気持ちではないかもしれません。「ここ、いい場所だな」「なんかほっこりする」という気持ちで来ている人も大勢いるように感じます。移住という言葉が頻繁に使われるようになった3・11の震災以降10数年の間で、移住の形がどう変化し、どんなふうに新しくなってきているのかも伝えられたらいいなと思い、「ニュー・移住スタイル」というタイトルの特集を組むことにしました。

ちなみに、『ニューカヤバ』も以前は別の場所で営業していて、当時の店名は『カヤバ』だったらしく、現在の場所に移転して新しくなったことを機に『ニューカヤバ』に変更されたそうです。

東高円寺のアパートから青山の一軒家へ。僕の東京移住体験。


僕はこれまでの人生の中で何度か移り住んだ経験があります。

最初は、高校3年生の春。群馬県高崎市から東京へ移り住みました。群馬県立高崎高等学校という男子校の進学校に通っていましたが、そこは自主・自律をとても重んじる学風で、入学して一番驚いたのは、高下駄を履いている先輩がいたことです。高下駄を履いていながら、当時流行っていたDCブランド『MEN’S BA―TSU』や『MEN’S BIGI』のおしゃれな服を着ているので、「どういうことだ?」と眺めていました。制服を着て来るもよし、私服でもOKのその高校と、僕の家は900メートルぐらいしか離れておらず、通学路には17歳で亡くなった、高校の先輩でもある、画家で詩人の山田かまちの美術館もありました。

おそらくほかの高校にはないユニークな制度、というか文化がありました。「自主カット」と呼ばれるもので、午前中だけ授業を受けて、午後からは帰ってもよいという文化です。僕は午後になると、釣り竿を持って近くの川や湖に釣りに出かけていました。「なんていい学校だ」とつぶやきながら釣り糸を垂れていたものです。

そんな自由な学校で思春期を過ごし、3年生も終わりに近づくと、みんなは卒業後の進路を決めていくことになります。僕は東京の大学に行くと決めていたので、東京の大学へ行くみんなと情報を共有していました。情報源はもちろん雑誌でした。思春期ですから、異性にも興味があります。なので、何を読むかというと雑誌『オリーブ』です。この雑誌を読む女の子「オリーブ少女」がどこに出没するか知りたいからです。『オリーブ』によく出てくる東京の地名は、代官山と自由が丘。だから東京へ行く男子はみんなそこに住みたいという話題で持ちきりになるのです。短絡的ですね(笑)。

そんなふうに東京の地名に憧れ、妄想を膨らませ、東京のまちの賑やかさのなかに身を置けるかもしれないという高揚感に包まれていました。その高揚感は、今は中山間地域に移り住む若い人たちにも共通してあるのではないでしょうか。僕らの時代はインターネットやSNSなんてありませんから、北関東・群馬の男子たちは雑誌から仕入れる情報が集積されるリアルな場所に身を置くことで、欲求が満たされ、成長できるに違いないと信じて疑わなかったのです。


僕は上智大学法学部国際関係法学科に合格しました。早速、東京のどこに住もうかと夢を膨らませました。『オリーブ』の情報に従うなら代官山か自由が丘、あるいは原宿か表参道か。でも、妄想は膨らませてみたものの、自分がそういうまちに暮らしているイメージがあまり湧いて来ませんでした。そこで、北関東の男子が持っているもう一つの選択肢を採用することにしました。JR中央線です。中央線には、女の子にモテたいという気持ちとは違う楽しさ、サブカルチャーの楽しさが満ちていたのです。中央線沿線で物件を探そうとするなかで中野と高円寺に目星をつけ、不動産屋さんを何軒か回りましたが、一軒、ノリのいいお兄さんのいる不動産屋さんがありました。お兄さんは当時流行っていた「オイシイ」という言葉を連呼しながら、「次の物件がまたオイシイんですよ」と間取りが書かれた紙を僕の前に置くのでした。「オイシイ」の言葉の活用法を学びながら物件を見に行くと、部屋としてはいいのですが、家賃が高い。『オリーブ』以外の雑誌でも『ポパイ』の「大都市探険地図」という特大号を肌身離さず持っていて、こんなふうにおしゃれに暮らしたいとページをめくっていたのですが、残念ながら18歳の僕には予算オーバーの物件がほとんど。すると“オイシイ兄さん”は、「ちょっと離れるけど、東高円寺の物件を見ます?」と提案してくれました。中央線にそんな駅はないぞと思って尋ねると、「知らないの? 丸ノ内線だよ」と。「そっちのほうが安いから見に行こう」と言われ、東高円寺駅前へ向かいました。着いた途端、「ここは東京なのか?」というレトロな風景が目に飛び込んできました。八百屋さん、駄菓子屋さん、昔ながらの本屋さん。駅前のアーケード通りを歩いていたとき、「このまちなら安心して暮らせそうだ」と思いました。「東」とついてはいるけど、高円寺は高円寺。だから「高円寺のあたりに住んでいる」と人にも言えるので、借りることにしました。フランス語で「水」という意味の「ドロウ」という名前のマンションで、家賃4万円ほどの部屋でした。

というわけで、僕の東京生活は東高円寺から始まりました。思い出深いのは、『ペリカンパパ』という明け方まで営業している地下にあったパブ。20歳になったばかりのお酒初心者の僕をいつも静かに迎えてくれて、イケメンのスタッフが寡黙にサーブしてくれる居心地のいい店でした。その男性スタッフは、後で知ることになるのですが、『BLANKEY JET CITY』の浅井健一さんでした。ほかにも、女子美術大学の学生が好んでスパゲティを食べている、仲のいいご夫妻が営むパスタ屋さんがあったり、イソップ寓話みたいなかわいいカフェがあったり、釣り雑誌が買える小さな本屋さんがあったりと、みうらじゅんさんっぽい80年代カルチャーとの遭遇はほとんどなかったものの、その分のカルチャーギャップが東高円寺をより好きになった理由です。そして「息子」という立場から「一人」という立場になって、社会に少しずつ接点を持てるようになれたのは、一人暮らしを始めた東高円寺のおかげと言って間違いはありません。

大学卒業後、雑誌『アウトドア』編集部で働いているとき、大学時代に一番仲がよかった友達から、「おもしろい物件が見つかったから一緒に住まない?」と誘われました。関西出身の友達で、彼が住んでいた北区の十条のアパートと杉並区の東高円寺の僕のアパートを互いに行き来したり、着ている服や靴を貸し合うくらい親しい間柄でした。彼はイギリスの音楽が大好きで、一緒に聴きながら「これは何々だよ」「かっこいいね」と話したりしていました。そんな彼が見つけた青山にある2階建ての一軒家を、僕も一目で気に入りました。隣には大家さんが住まわれていて、借りるには大家さんの面接をパスする必要がありました。ちゃんとした服を着て、履歴書も持って行ったかな。話をして、「あなたたち、いいわね」と面接に受かり、借りられることになりました。家賃は2人で12万円くらいでした。

そこは昔、ヨガの道場だったらしく、2階のリビングルームの壁は抜かれてありませんでした。僕らは広い部屋の両端にベッドを置き、小さな衝立で仕切ってプライバシーを確保しました。携帯電話もなかったので、互いの友達が遊びに来ているときは、家の前に彼は小さなイギリスの国旗を、僕はフランスの国旗を立てて知らせました。たとえば仕事帰りに旗が立っていると、僕は近くの居酒屋に晩御飯を食べに行って時間をつぶしたりすることもありました。家の前には広い駐車場があり、そこで友人たちや編集関係の人たちを誘ってクスクスパーティを開いたり、フライフィッシングの太い釣り糸を遠くに飛ばす練習をしたりしていました。釣り糸は、前、後ろ、前、後ろと前後に反動をつけながら、最後に前に向かって「ヒュッ!」と飛ばすので、自分の背後にも広いスペースが必要になりますが、この駐車場は、そのスペースもふんだんにある格好の練習場所でした。知人の紹介で、その一軒家での生活が雑誌『メンズノンノ』で取材されたこともあります。発売された雑誌を楽しみにしてめくるとモノクロページでの掲載だったので、とても残念に思ったことを覚えています(笑)。

ルームシェアをした彼と僕は、交友関係のチャンネルが微妙に違っていたので、僕が知らない彼の知り合いとか、彼の知らない僕の友達とかが混じり合うことで人間関係が広がっていきました。自分のアルゴリズムの外にいる知らない人たちと出会うきっかけは、一人で暮らしていたらなかったのかもしれません。

恵比寿にも住みました。引っ越したのは「恵比寿ガーデンプレイス」ができた頃で、もう一人友達が増えて一軒家に3人で住みました。家賃は15万円くらいだったかな、1人5万円で2部屋ずつ使えたのでお得感がありました。リビングも広々としていて。20代の若者が1人で15万円の家賃は払えないけれど、3人で住むことを不動産屋さんに提案して待っていると、それで貸そうという大家さんが1人、2人と現れるのです。現れたらすぐに住むかどうか決めないと流れてしまうのですが、その方法で友達が見つけてきた家でした。奥まったところに建っていて、入り口が狭くて僕のベッドが通らなかったので、1階の和室の広い窓から塀を乗り越えるようにして運び込んだことを覚えています。その後も、駅でいうと中野や梅ヶ丘に住みましたが、高崎から東京へ出てきてライフスタイルをバージョンアップしていくことができたのは、いろんなまちに移り住んだ結果かなと思います。同じ場所に住み続けるのもいいのですが、ちょっと違う場所に住むことで、自分の知らない新しい人との関係が生まれ、その関係がどんどん多様になっていったことは、今の仕事や生活を形づくる上でも大切な経験だった気がします。

スコットランドへ留学。英語と釣りの技術を磨く。

東高円寺から青山に移り住む前、大学3年生の春から1年間休学し、スコットランドのエディンバラへ留学しました。ケンブリッジ大学英語検定試験(Cambridge Assesment English)の最上位レベル(Cirtificate of Proficiency in English)を取得することが目的でした。というのも、上智大学に通っていると、「英語もペラペラなんでしょうね」とみんなから言われるので、せめて大学を卒業するまでに英語力を、読解力だけじゃなくて英語の文化に近づけるような力を身につけたくなり、『Edinburgh Language Foundation』という、今はもう検索にかけても出てこない、エディンバラ城の近くにあった小さな語学学校に通うことにしました。スコットランドを選んだ理由の一つは、大学2年生のときに亡くなった開高健さんの晩年の釣り場のひとつがスコットランドのツイード川だったこともあります。僕はフライフィッシングを始めた頃で、開高健さんにも憧れていたのでスコットランドを選んだのです。

住まいは、なるべくネイティブが暮らす近くで生活したほうがいいと考え、寮ではなくホームステイを選びました。お世話になったローランド・ロビンソン一家は、まちで人気のチーズ屋さんでした。彼は以前、軍に所属し、マレーシアに滞在したことがあるらしく、そこで覚えたカレーやサテといったアジアンな料理も販売していました。売れ残ったメニューが僕の夕食になることもあり、とてもおいしかったです。彼らの家にはビグルスという名の大きな犬がいて、暇になると僕の部屋のドアを頭で押し開けて入ってきて、しばらくゴロゴロすると出ていくのでした。3歳のローラと7歳のジュリエットの姉妹も僕に懐いてくれて、遊んだりしました。まるで家族の一員のように扱ってくれて、スコットランドの暮らしを楽しく味わうことができました。

語学学校に通う生徒の多くはブルガリアやブラジルなどから国費で来ている留学生で、世界や社会のことを論じる機会も多々ありました。僕に対しても、「日本の未来をどう思っていますか?」と尋ねてきました。みんな若いのに自分の国やまちのことを真剣に考えているんだなと感じました。それもスコットランドに移り住んで知ったことです。

学校長は、『Momus』というミュージシャンのお父さんで、世界的に有名なフライフィッシャーでもありました。僕もフライフィッシャーだと伝えたら、授業以外の時間はフライフィッシングの話をする関係になり、ある日、「カズ、週末に時間はあるか?」と声をかけられ、「あります」と答えると、「城主が友人で、その古城のなかを流れる川を貸し出しているから釣りに行ってみてはどうか」と提案してくれたので、喜んで釣りをさせてもらいました。ローランドがつくってくれたマスのサンドイッチを手にしながらのマス釣り。最高の思い出です。

語学学校と、生活や趣味を通して英語を学ぶことができたおかげで、世界で一番難しいとされている「プロフィシエンシー」を取得することができ、奇跡だと言われました。これは英語を母語としない国で英語の先生ができるといわれる資格なので、例えば僕はベネズエラで英語の先生をすることもできるようなのです。ただ、使わないと喋れなくなっていくもので、何年か前に二子玉川で英語教室の無料コースを利用し、思い出しながら英語を喋っていると先生から「どこで習ったの?」と聞かれ、「エディンバラで、ケンブリッジのプロフィシエンシーを取りました」と言うと、「プロフィシエンシーを持っている人は初めて見たよ!」と驚いていました。自分で言うのもなんですが、それくらい貴重な資格なのです。

スコットランドで英語を学んだメリットは、その後、アウトドアや釣り雑誌の編集者となってアメリカへ釣りの取材に行ったときに感じました。フロリダにある『Bagley』という世界的に人気の釣具メーカーで、木製ルアーにヤスリをかけたり、色を塗ったりしている工場で働く女性たちに話しかけると、ゲラゲラと笑われるのです。「その英語、どこで覚えたの?」と。「スコットランド」と答えると、「なるほど」という顔をされました。「不思議なイントネーションに聞こえる」と言って、また笑われました。

移住して、新しい場所に住むときは、そんなコミュニケーションツールを持っていくことも大事です。僕にとってのそれは、スコットランド仕込みの英語だったのです。あの時は取材の場を和やかにするツールとして、すごく役立ちました。

新しい移住者を呼ぶ、「やわらかいインフラ7」。

最近、「やわらかいインフラ」という考えを提案しています。地域に若い人が移り住みやすくなっている要因は、行政からの手厚い移住政策や子育て世代の優先制度もあるのでしょうが、もっと軽やかなものじゃないかなと、地域に移住した若い人たちを数多く取材したなかで感じています。これまでにたくさんの地域を見てきたなかで、次に挙げる7つの「やわらかいインフラ」がある地域は、新しい移住者が現れやすいと実感するようになりました。関係人口にも該当することで、移住に関しても、若い人たちがここなら楽しく過ごせそうだと背中を押されるだろうインフラ。名づけて、「やわらかいインフラ7」です。それぞれ説明しましょう。

1つ目は、おいしいコーヒー。コーヒーは今や日本の国民飲料で、多様化も進んでいます。コーヒーを飲むことでホッとする瞬間を味わいたいとか、コーヒーを飲むこと自体が幸せだと言う人もいます。個人でも、コミュニティでも楽しめる飲み物になるコーヒーは、みんなの「心を動かす燃料」とも言えます。ただ、喫茶店のコーヒーではありません。コーヒースタンドのような、テイクアウトもできる新しい感覚のコーヒーがいいですね。

2つ目は、バチバチのWi-Fi環境。「マズローの欲求5段階説」という心理学者の理論がありますが、移住においてこの欲求を当てはめて考えてみるなら、6つ目の欲求は「Wi-Fi欲求」でしょう。僕の中学生の息子はどこへ行ってもまずWi-Fiが飛んでいるかを確認します。秋田県湯沢市の高校生たちは放課後、市役所に集まるそうですが、それもWi-Fiがバチバチ来ているから。「自分の能力を生かして成長したい」と説くマズローの自己実現欲求を満たすためにも、若い世代にとってWi-Fiは必需品なのです。大人だって、リモートワークのときにタイムラグがある、音声が聞き取りづらい、最悪つながらない、そんなトラブルのためにチャンスを逃したくないですよね。Wi-Fi環境はみんなの生命線だと言っても過言ではないのです。

3つ目は、同世代の仲間。その理由は、複数の同世代の仲間がいることで、見られる対象が分散され、自分に向けられる関心や興味の度合いが薄らぐから。自分一人だけ注目されるのはしんどいのです。もちろん、仲間がいれば一緒に何かやろうとする機会も増えますし、ファッションとしてユニホームを着て楽しんでいるのも、私たちはこういうチームだということを伝えると同時に、仲間意識が育まれるからでしょう。ファミリーもそう。地域に同世代のファミリーが暮らしていれば、まちの情報を教えてもらったり、悩み事を相談することもできます。地域おこし協力隊で地域に入った友達を追いかけて、「私も!」と移住してくる女子もいるように、同世代の仲間は新しい仲間を引き寄せるのです。

4つ目は、おしゃれな本屋。まちに本屋があるかどうかで、まちの雰囲気はがらっと変わります。しかも、おしゃれな本屋ならまちのアイコンになりますから、たとえ本を買わなくても、人が集まる場になるでしょう。本屋は子どもの好奇心や気づきを育む場でもあります。栃木県宇都宮市の釜川エリアでも、クラウドファンディングで資金を募り、小さな本屋をつくろうとされています。おしゃれな釜川エリアがさらに素敵になって、移住者も関係人口も増えそうな予感がします。

5つ目は、盛り上がるブルワリー。ブルワリー自体が盛り上がってもいいし、ブルワリーに来るお客さんが盛り上がってもいい。地元の農産物を使って醸造することもできるので、地域で丸ごと盛り上がれそうです。おいしいコーヒーと補填的な存在で、情報交換の場にもなるし、移住した後や移住する前からも地域の人とつながりをつくる場にもなるでしょう。

6つ目は、使い勝手のいいコワーキングスペース。自宅で一人で仕事をしたり、noteを書いていたりすると、ちょっと寂しくなったり、煮詰まったりするときもあります。そんなとき、コワーキングスペースを借りて仕事をしたら気分転換にもなるし、やってきた仲間と情報交換しながら楽しく作業ができそうです。僕にとっての最高のコワーキングスペースは、萩・石見空港の1階にある会議室です。コワーキングスペースと銘打ってはいませんが、Wi-Fiが飛ぶ、無料で開放された空調完備の空間で、僕が利用したときに限ってはほとんど一人なので、フライトまでの時間まで集中して仕事ができます。機会があれば利用してみてください。コワーキングスペースは共有スペースと個室を上手に使い分けながら利用すると、仕事や作業を深めつつ、仲間とのつながりを広げることができる価値のある空間になります。

7つ目は、最高のパン。特に若いファミリーの移住者は、仕事も育児もされていることが多いので、時間をかけてお米のご飯を炊くよりもパンのほうが便利。おいしいパン屋さんは絶対に必要と言ってもいいかもしれません。先日、岩手県釜石市で開かれた復興庁主催の関係人口のワークショップに招かれた際、同じく登壇者として招かれていた神奈川県・真鶴町で『真鶴出版』を営まれている川口瞬さんが、「真鶴町は移住者に人気がありますが、なかでもパン屋を開業したいという移住者が来るとみんなで取り囲み、手厚く対応します」というようなことを笑いながらおっしゃっていたほど、パン屋さんは大事です。ブルワリーと同様、地元の食材も活用できますね。

以上が、「やわらかなインフラ7」です。みなさんの地域にあるでしょうか? 20代、30代、40代の人たちが中心になって、移住先のライフスタイルを変えてきた今、自家焙煎のコーヒー屋さんやクラフトビールのタップルームは各地に見られるようになりました。ただ、そうした「やわらかいインフラ」の整備が進んでいない地域もあります。その世代に合うライフスタイルの提案がまだ成し得ていないということです。「やわらかいインフラ」を設けることで、「ニュー・移住」の人たちは増えるだろうと思いますから、ぜひつくってみてください。

特集の最後にご紹介する群馬県前橋市のまちなかも、「やわらかいインフラ」が当てはまるように思いました。まちのアシスタントという意味で名づけられたサービス「マチスタント」を担当する田中隆太さんに案内していただいて、「ニュー・移住者」と地元の人が数珠つなぎで関係性を築き、楽しく、活気あるまちになっていっているのを肌で感じました。「マチスタント」の活動を田中さんは移住政策だとは言っていませんが、「マチスタント」を通してインフラがやわらかく整っていくことが、結果的に移住者を増やすことにつながっているような気がしてなりません。「ニュー・移住」の特集を組むことになったときに前橋が思い浮かんだのは、『ニューカヤバ』ではありませんが、「大人の遊園地」みたいに、自分も仲間に入れそうだと思わせてくれるまちづくりが進んでいるからです。焼酎がコーヒーに、焼き鳥がパンに置き換われば、「若い人たちの遊園地」のようなまちになっていくと思います。それこそが、新しい人たちに求められている「やわらかいインフラ」なのです。

記事は雑誌ソトコト2024年5月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。


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