『風、薫る』チュウのモデルは新宿中村屋の創業者!相馬愛蔵と大関和の知られざる絆
NHK朝の連続テレビ小説『風、薫る』で、ヒロインが看護婦として働く帝都医大附属病院の入院患者として登場した青年・丸山忠蔵(若林時英)。
病院だけに出会いと別れが繰り返されるなか、退院後もずっとヒロインたちと縁が続いているキャラクターです。
「チュウ」と呼ばれ親しまれている忠蔵は、今やバイトしていた甘味屋の後を継ぎ主人となりました。
実はこの丸山忠蔵は、脚本の吉澤智子さん曰く「モデルとして参考にした実在の人物がいる」とのこと。
それが、明治生まれの実業家で新宿中村屋の創業者で日本初のクリームパンを生み出し、後に「純印度式カリー」を発売した相馬愛蔵(そうまあいぞう)です。
愛蔵は、史実でもヒロイン・一ノ瀬りんの実在のモデル大関和(おおぜき ちか)と、退院後も長い付き合いが続いていました。入院中に和から受けた恩を忘れずにいたのです。
今回は、相馬愛蔵の歩みと、大関和との絆をご紹介しましょう。
※現在は「看護師」ですが、記事内では当時の名称「看護婦」としています。
和の献身的な看護に感謝し恩返しを誓う愛蔵
相馬愛蔵は明治3年(1870)、長野県安曇野にある豪農の家に生まれました。
17歳の頃に上京し、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学します。
希望に満ちた学生生活が始まると思っていた矢先、不運なことに学生寮で先輩に疥癬(かいせん※)を移されてしまいました。
※疥癬:ヒゼンダニという小さなダニが皮膚に寄生して起きる皮膚病。夜も眠れないほどの痒みに襲われる。
そこで愛蔵は、帝国大学医科大学第一医院へ入院し、運命の恩人・大関和と出会います。
当時、疥癬は硫黄を主成分とした軟膏を手で患部に塗るしか治療法がありませんでした。軟膏は強烈な悪臭を放つため、病院で働く看病婦も嫌がったそうです。
そんななか、看病婦取締だった大関和だけは嫌な顔をせずに手当てし、医師にかけあって軟膏を塗る回数を1日3回に増やしたそうです。
和のおかげで早く退院できた愛蔵は、「この恩は忘れずいつか恩返しをしよう」と誓うのでした。
農家出身で書生だった愛蔵が商売人になったワケ
愛蔵は学校卒業後に北海道で養蚕を学び、故郷に戻り蚕種業に携わる一方、社会奉仕に目覚めて禁酒運動や廃娼運動にも力を注ぎます。
そして、孤児院支援の募金活動で訪れた仙台で、後に妻となる星良(相馬黒光)との縁が生まれ、明治30年(1897年)に結婚しました。
けれども妻は田舎暮らしが合わずに体調を崩し、治療のために上京。東京で暮らすうちに体調が安定したため、相馬夫妻はそのまま東京に住むことを決めました。
愛蔵はもともと「勤め人」を嫌っていたため、東京で生計を立てるには「商売をするしかない」と考えます。
そこで目を付けたのが「パン」でした。
まだ一般家庭にはあまり普及していなかったパンが日本の食卓に馴染むのか、自分たちの暮らしで確かめるため、1日2食をパン食に変えて三ヶ月続けたといいます。
その結果「パンは日本の食卓に根付く」と判断した夫妻は、新聞広告をきっかけに本郷帝大正門前の『中村屋』を居抜きで買い取ります。
こうして明治34年(1901)12月30日、相馬夫妻の商売が始まったのです。
愛蔵は、なぜ先代が「中村屋」を売りに出したのかも調べています。
すると先代の主人が米相場に手を出して失敗したことや、夫婦が贅沢な生活を好んだことで、経済的な破綻を招いたことがわかりました。
そこで愛蔵は、株や相場には手を出さない、着物は新調しないなど、自分たちなりのルールを設けます。
自分の能力次第で出世も可能になった明治時代は、多くの若者が東京で「一攫千金」や「立身出世」を夢見ていた時代でもありました。
そんな風潮の中、まだ30歳だった愛蔵は質素倹約に励み、誠実な商売を心掛け、着実に信用を積み重ねていったのです。
日本初の「クリームパン」
ある日、相馬夫妻は初めてシュークリームを食べ、そのおいしさに感動します。
そして、このクリームをあんぱんの「餡」の代わりにパンの中に入れれば美味しいはずと考えました。
早速、作って店頭に出したところ大好評。
こうして創業から3年目の明治37年(1904)「日本初のクリームパン」が誕生したのでした。
ただ商品を販売するだけではなく、お客さんを驚かせたり喜んだりすることが好きだった愛蔵は「模倣を廃す」「独創性を大切にする」などがポリシーだったそうです。
そのひらめきは洋菓子だけではありません。
ある日、大量発注された赤飯が突然キャンセルされ「一石五斗の水に浸したもち米」の処分に困ったときがありました。
そこで愛蔵は、もち米を少し潰して桜色をつけ、中にあんこを入れて桜の葉で包み「新菓葉桜餅」として販売したのです。
ちょうど葉桜の季節で、風情ある和菓子として大ヒットしたのでした。
商売は順調に成長し、明治40年(1907)愛蔵は新宿に支店を開設します。
そこには、愛蔵の郷里の後輩で彫刻家の荻原碌山(おぎわら ろくざん)が足繁く通ったそうです。
その繋がりで、のちに日本文化に影響を与えた芸術家・文人・演劇人も「中村屋」に出入りするようになり『中村屋サロン』がスタート。
芸術に深い造詣を有した相馬夫妻は、物心両面で芸術家を支援しました。
明治42年(1909)、中村屋は新宿支店を現在地に移転して本店としました。
困っている人を見過ごさない精神
明治時代が終わり大正に入ると、洋食や洋菓子が一般家庭にも普及していきます。
愛蔵は洋菓子やロシアパンの職人を雇い、商売を広げていきました。
そんな最中の大正12年(1923年)9月1日、相模湾北西部を震源とする関東大地震が発生し、避難民となった人々が新宿へ逃れてきました。
食料が不足して価格も高騰するなか、罹災を免れた中村屋は夜通しパンやまんじゅうを製造し「奉仕パン」「地震饅頭」として原価に近い価格で販売します。
「商人の義務としても、手を束ねていられる時ではない」
※相馬愛蔵『一商人として ―所信と体験―』より引用
人々は、侠気溢れる愛蔵や眠らずに製品を作り続ける従業員に深く感謝しました。
自利を捨て利他を重んじるこの行為で、中村屋はますます人々の信用を集めることになったのです。
インド独立運動の志士をかくまい誕生した印度カリー
大正4年(1915)、インドの革命家ラス・ビハリ・ボースが日本に亡命してきました。
英国政府に追われて国外退去を命じられたボースを、相馬夫妻は中村屋にかくまうことになり、その期間は四ヶ月半に及びました。
そのときに連絡役を務めた夫妻の娘・俊子は、この縁から1918年にボースと結婚します。
その後、「買い物途中に休める場所が欲しい」というお客様の要望を受け、愛蔵は喫茶室を設けることを検討します。
そこでボースが「喫茶部で印度カリーを出しては?」と提案したことで、純印度式カリーが発売されることになりました。
当時の日本は、小麦粉を使った欧風カレーが主流。
スパイスが効いた骨付き鶏が入った印度カリーは、最初は驚かれたものの、徐々に評判となり飛ぶように売れました。
以来「純印度式カリー」は中村屋の名物料理になったのです。
これも相馬夫妻の「困っている人は見捨てない」精神から生まれた出来事でした。
愛蔵と大関和との絆
ここで、愛蔵と大関和の関係を少し遡って見てみましょう。
愛蔵が北海道から故郷に戻った頃、和が病院を辞めて高田女学校の寄宿舎監になったと聞き、愛蔵は改めて礼を言うために和を訪ねました。
その後、和は高田で開かれた「廃娼演説会」で、愛蔵の学校の先輩で社会運動家の木下尚江(きのしたなおえ)と出会います。
尚江は、愛蔵から和について「当代信頼すべき婦人」と聞かされており、二人はすぐに打ち解けました。
やがて尚江が恐喝取財罪で逮捕され、鍛冶橋監獄署に収監されると、和は毎週のように食べ物などを差し入れます。すると尚江は、面会の場で突然、和に結婚を申し込みました。
しかし、愛蔵はこの縁談に強く反対します。
尚江が「廃娼運動」に関わりながら遊郭通いをし、女郎を身請けしていると聞き、調べたうえで事実だと知ったからです。
敬愛する恩人の和を、女性関係に問題のある尚江と結婚させるわけにはいかない。
そう考えた愛蔵は和に手紙を書き、「自分が口に出すことではないが、到底賛成できない。このことは尚江にも伝えた」と誠実に伝えました。
その手紙を読んだ和は気持ちが醒め、真実を告げてくれた愛蔵に感謝します。
愛蔵の妻・相馬黒光は著書『穂高高原』の中で、「木下氏がこの忠告(愛蔵の)をいれて結婚を断念したというに至っては、氏の恋が絶対無二のものでなかったことを自白するに等し…」と書き記しています。
その後、相馬夫妻が中村屋を創業した際には、和がすぐに駆けつけ、帝大病院の知り合いに頼んで、病院内で中村屋のパンを扱えるように取り計らいました。
変わらない和の思いやりに、愛蔵はさらに深い感謝の気持ちを抱いたそうです。
最後に
相馬愛蔵は、昭和29年(1954)に85歳で永眠。愛妻・黒光も翌年、80歳でこの世を去ります。
愛蔵は「無意味なお世辞を排し、良い商品を廉価で販売する」というモットーを、ぶれることなく貫き通しました。
「食」で人々に活力を与えるとともに、文化芸術を育む人材を支援、困っている人々を助けた人物でもありました。
『風、薫る』のドラマでは描ききれない、明治という時代を象徴する登場人物たちの背景を知ると、よりストーリーを楽しめると思います。
参考:『一商人として』相馬愛蔵・相馬黒光、『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる 他
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部