Yahoo! JAPAN

#6 列挙に見えてくる、漱石の「教え」の語法──阿部公彦さんによる、夏目漱石への再入門『吾輩は猫である』【NHK別冊100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

#6 列挙に見えてくる、漱石の「教え」の語法──阿部公彦さんによる、夏目漱石への再入門『吾輩は猫である』【NHK別冊100分de名著】

阿部公彦さんによる作家・夏目漱石への再入門 #6

近代日本を代表する作家・夏目漱石。誰もが知るその作品の数々とともに、妻子を持つ家庭人、こだわりある趣味人、教師、読書家、勉強家、漢詩を書く人、弟子を持つ「先生」、学者、といったように、様々な顔を持っていたことも知られています。

『別冊NHK100分de名著 集中講義 夏目漱石』では、文学研究者・阿部公彦さんが多面的な漱石とその作品についてまわる漱石の心身の「葛藤」に的を絞って読むことで、一度は読んだことのある漱石作品を、2度3度と味わいつくします。

今回は本書より、第1講『吾輩は猫である』の読み解きを全文特別公開します。(第6回/全6回)

「胃弱」と列挙

 どうやら、いつも「胃弱」について語ってしまう『吾輩は猫である』には、単なる冗長さや軽口とばかりは片づけられないものも潜んでいるようです。「胃弱」は主人と猫との日常で大きな位置をしめています。「胃弱」こそが主人の日常。「胃弱」的な世界がそこには広がっています。

『吾輩は猫である』の世界を見渡してみると、「胃弱」が日常化していればこその話題があちこちにちりばめられています。食事のマナー、料理の作り方、酒の飲み方などです。なかでももっとも大事なのは「養生」をめぐる談義です。「胃弱」はたしかに体の失調ですが、胃潰瘍や胃炎といった明確な病名がつく前の「胃弱」は、急性の病とは違って緩慢な体調の不良を引き起こすにとどまります。その対策をとるべく主人はあれこれと試みます。前述の引用の少し先には「胃弱」をめぐる主人のそうした試行錯誤が日記から引用されています。

 先達(せんだっ)て○○は朝飯を廃すると胃がよくなると云うたから二三日朝飯をやめて見たが腹がぐうぐう鳴るばかりで功能はない。△△は是非香の物ものを断てと忠告した。彼の説によると凡て胃病の源因は漬物にある。漬物さえ断てば胃病の源を涸(か)らす訳だから本復は疑なしという論法であった。それから一週間ばかり香の物に箸を触れなかったが別段の験(げん)も見えなかったから近頃は又食い出した。××に聞くとそれは按腹揉療治(あんぷくもみりょうじ)に限る。但し普通のではゆかぬ。皆川流という古流な揉み方で一二度やらせれば大抵の胃病は根治出来る。安井息軒も大変この按摩術を愛していた。坂本竜馬(りょうま)の様な豪傑でも時々は治療をうけたと云うから、早速上根岸まで出掛けて揉ましてみた。ところが骨を揉まなければ癒(なお)らぬとか、臓腑の位置を一度顚倒なければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な揉み方をやる。後で身体(からだ)が綿の様になって昏睡病にかかった様な心持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。

 朝飯を食べない、香の物を食べない、按摩……と主人が「胃弱」を克服するために試したものが並べられています。すべて失敗に終わった試みばかりですが、主人の試行が〝列挙〟という形で並べ立てられていることには注目したいところです。これらはうまくいかなかった“例”の一覧なのです。先行する言葉があって、それに続いてこれらが具体例として持ち出されているにすぎません。それらは現実に主人の身に起きたことであるにもかかわらず、まるで何度でも起きうるように感じられます。出来事としてのかけがえのなさや“一回限り性”を与えられてはいないからです。

『吾輩は猫である』という小説の特異さはここにあります。近代小説には個人に起きた、プライベートで取り返しのつかないことを描くという約束があります。その一回限り性を通して、近代的個人の心理や記憶や、その人生の一回限り性が保証されてきました。しかし、『吾輩は猫である』では列挙が横行します。何かが起きても、それは〝例〟に見えてしまう。金田家の令嬢をめぐる事件や、泥棒の事件ですらそうなのです。どうしてでしょう。

養生訓と『吾輩は猫である』

 ひとつ確実に言えるのは、この作品が小説の体裁をとりながら、養生訓のような視線を持っているということです。主人をはじめ登場人物たちは、病気になった人や早死にした人のことを想起しながら、いかに健康でいるか、いかに身体の不調を克服するかを話題にします。病と健康と死が彼らの大きな関心事なのです。

「曽呂崎と云えば死んだそうだな。気の毒だねえ、いい頭の男だったが惜しい事をした」と鈴木君が云うと、迷亭は直ちに引き受けて

「頭は善かったが、飯を焚く事は一番下手だったぜ。曽呂崎の当番の時には、僕あいつでも外出をして蕎麦で凌いでいた」

「ほんとに曽呂崎の焚いた飯は焦げくさくって心(しん)があって僕も弱った。御負(おま)けに御菜(おかず)に必ず豆腐をなまで食わせるんだから、冷たくて食われやせん」と鈴木君も十年前の不平を記憶の底から喚び起す。

「苦沙弥はあの時代から曽呂崎の親友で毎晩一所に汁粉を食いに出たが、その祟りで今じゃ慢性胃弱になって苦しんでいるんだ。実を云うと苦沙弥の方が汁粉の数を余計食ってるから曽呂崎より先へ死んで宜(い)い訳なんだ」

 また、医者と主人の妻の間ではこんな会話がかわされます。

「(中略)然し先生も余程変っていなさいますな。この天気の好いのに、うちに昵として──奥さん、あれじゃ胃病は癒りませんな。ちと上野へでも花見に出掛けなさるごと勧めなさい」

「あなたが連れ出して下さい。先生は女の云う事は決して聞かない人ですから」

「この頃でもジャムを舐めなさるか」

「ええ相変らずです」

「先達て、先生こぼしていなさいました。どうも妻(さい)が俺のジャムの舐め方が烈しいと云って困るが、俺はそんなに舐める積りはない。何か勘定違いだろうと云いなさるから、そりゃ御嬢さんや奥さんが一所に舐めなさるに違ない──」

 一般の養生訓には健康でいるための秘訣が文字通り“列挙”されています。「食」をめぐるさまざまな教えはそのなかでも中心的な役割を果たしていて、何を食べなさい、何を食べてはいけない、こんなふうに食べなさい、とあれこれ具体的な例があげられます。貝原益軒の『養生訓』から一節を引用してみましょう。

 飯はよくひとを養うけれども、同時によくひとを害するものである。だから飯はとくに多食してはいけない。つねに適度の分量を定めておかなければならない。

 飯を多く食べると、脾胃(ひい)をいため、元気をふさいでしまう。ほかのものを食べすぎるよりも、飯の過食は消化しにくくて大害になる。

 他家を訪問して、そこの主人がせっかくととのえてくれたご馳走に箸をおろさないと、主人の誠意を無視するようで心苦しく思うならば、飯を普通時の半分にし、副食物を少しずつ食べるのがよい。こうすれば、副食(さい)がやや多くても調和がとれて食物にいためられない。

(貝原益軒『養生訓』巻第三 飲食 上、伊藤友信 訳、講談社学術文庫所収)

『吾輩は猫である』の世界の向こうには、このような〝例〟に基づく「教え」の語法が透けて見えます。主人をはじめ、登場人物たちは食についての流儀を開陳したり、受け売りを口にしたりしますが、そのどれもが「いかに食べるか」をめぐる談義へとつながっていくのです。美食談義ではありません。むしろ「いかに食べるか」は「胃弱」とセットになって話題にされます。あくまで「胃弱」の危惧をふまえた上での「いかに食べるか」なのです。

「いかに……」が意識された途端、私たちの世界との付き合い方は変わります。世界をありのまま受け入れるのではなく、自ら描いた理念へと世界を押し込めようとする。だから、行為は一回限りのものとしてではなく、何度も練習し反復できるものとしてイメージされるのです。私たちの生は失敗したり、うまくいったり、予期したり、回避したりできるものとして想像されるようになるわけです。

 このような生との付き合い方は、現実にはごく一般的なものかもしれません。しかし、小説世界にそうした生を導き込むのはなかなか難しいのです。先に触れたように、近代小説の中では行為は一回限りのものとして描かれるのがふつうでした。『吾輩は猫である』は慣例として「長編小説」と呼ばれてきたものの、近代小説の型からは少々外れているように感じられますが、原因はこのあたりにあるでしょう。人々は生についての談義をかわし、行為の失敗や成功を話題にはするものの、果たしてかけがえのない“小説的な生”をほんとうに生きているのか。一回限りの生の緊張感を背負っているのか。

『吾輩は猫である』の生は、距離を置いた猫の視線に従属しています。たとえ猫が人々の生き様を緻密に観察し写生的に描いたとしても、この距離ゆえに人々の「生」は「例」となってしまう。しかも、作中に出てくる人物たちも、もっぱら「行動する人」ではなく「語る人」として登場します。彼等にとっても「生」は語るための対象であり、材料なのです。もちろんこれは、この作品にリアリティが欠如しているということではありません。『吾輩は猫である』のリアリティは、まさにこの語りや談義に根を持っていると言えるでしょう。そして彼等の語りがいやおうなく帰ってくる、死、食、狂気、衣服、人間の生理的な現実などをめぐる「言論」のなかに、この作品の原動力が詰まっているのです。

 他方でおもしろいこともある。「胃弱」という言葉はオブセッションとなって亡霊のように作品に頻出し、その宿命的な〝くすみ〟が人々の意識に影を落とすのです。この点において『吾輩は猫である』は通常の意味で小説的です。その些末さ、卑近さ、薄暗さが小説的な何かを保証している。この作品では、こうして小説らしさと小説らしくなさとが拮抗していると言えます。漱石が「胃弱」へのこだわりに依存する形で『吾輩は猫である』の小説的な恰好を整えたのは意味深いと言えます。この作品は漱石特有の生への執着の仕方を示すものでした。生を“やり方”や言葉へと還元し、「生きること」を「生きることの試み」へと読み替える。そうやって観念で生を支配しようとする一方、そんな観念性など消し飛ぶような、「胃弱」という巨大で薄暗いぼやけた宿命に取り憑かれる。漱石の後の「胃弱小説」も、デビュー作のこのようなやり方を踏襲することになります。

本書『別冊NHK100分de名著 集中講義 夏目漱石 「文豪」の全身を読みあかす』では、・第1講 『吾輩は猫である』の「胃弱」
・第2講 『三四郎』と歩行のゆくえ
・第3講 『夢十夜』と不安な眼
・第4講 『道草』とお腹の具合
・第5講 『明暗』の「奥」にあるもの

という全5回の講義を通して、漱石の葛藤に共鳴し、その全身を読みあかしていきます。

■『別冊NHK100分de名著 集中講義 夏目漱石 「文豪」の全身を読みあかす』(阿部公彦 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書における『吾輩は猫である』『三四郎』『夢十夜』『道草』『明暗』の引用は新潮文庫版に拠りますが、読みやすさを考慮して一部ふりがなを補っています。なお、出典には今日的価値観にはそぐわない表現がありますが、文学的価値および原典尊重のため、そのまま掲載しています。

著者

阿部公彦(あべ・まさひこ)
東京大学教授。1966年横浜市生まれ。東京大学文学部卒。同大学修士課程を経て、ケンブリッジ大学で97年に博士号取得(博士論文は Wallace Stevens and the Aesthetic of Boredom「ウォレス・スティーヴンズと退屈の美学」)。現在、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授。98年、小説「荒れ野に行く」で早稲田文学新人賞受賞、2013年、『文学を〈凝視〉する』(岩波書店)でサントリー学芸賞受賞。英米文学研究と文学一般の評論に取り組む。著書に『英詩のわかり方』『英語文章読本』『英語的思考を読む』(以上、研究社)、『小説的思考のススメ』『詩的思考のめざめ』(東京大学出版会)、『名作をいじる』(立東舎)、『英文学教授が教えたがる 名作の英語』(文藝春秋)、『事務に踊る人々』(講談社)などの啓蒙書やエッセイ、『モダンの近似値』『即興文学のつくり方』(以上、松柏社)、『スローモーション考』(南雲堂)、『善意と悪意の英文学史』(東京大学出版会)、『幼さという戦略』(朝日選書)などの専門書があり、翻訳に『フランク・オコナー短編集』、マラマッド『魔法の樽 他十二編』(以上、岩波文庫)などがある。
※すべて刊行時の情報です。

【関連記事】

おすすめの記事

新着記事

  1. 【2025クリスマス限定】北九州出身ミシュランシェフ監修「井筒屋だけの特製チキンセット」が話題に【限定200セット】

    行こう住もう
  2. アジングタックルで秋のロックゲームに挑戦【熊本】スイミングでアコウをゲット!

    TSURINEWS
  3. 入園入学に向けた準備について(ミキハウスクラブアンケート調査)

    ミキハウス 妊娠・出産・子育てマガジン
  4. MONGOL800キヨサクも参戦!沖縄のローカルが集う食の祭典「OKINAWA FOOD FLEA vol.26」2025年11月15・16日

    OKITIVE
  5. リレー便でタチウオ11匹&良型アジ15匹を手中【静岡・わし丸】台風明けの海で好スタート

    TSURINEWS
  6. 【熊本市中央区】気軽に心置きなく食べて飲んで!お洒落すぎる立ち飲み屋「obanzai」

    肥後ジャーナル
  7. 【近鉄百貨店】和歌山にフライングタイガーが再登場! これからの季節にぴったりな雑貨が大集結

    anna(アンナ)
  8. <チャッカリ女子高生>修学旅行のお小遣い、残りは返す?使っていい?コスメを買った娘に激怒

    ママスタセレクト
  9. 猫との『キス』でうつるかもしれない病気3選 知っておくべき感染の危険性も解説

    ねこちゃんホンポ
  10. 【エリザベス女王杯】馬券に絡まなかったのは2024年のみ!最重要となるステップとは!?ステップレースから見る過去10年の傾向

    ラブすぽ