下町の太陽、庶民派女優といわれながら都会の大人の女になった倍賞千恵子の大ヒット曲「さよならはダンスの後に」
シリーズ/わが昭和歌謡はドーナツ盤
今年は、あの国民的映画『男はつらいよ』第一作が公開されて55周年。製作配給元の松竹では「Go!Go!寅さん プロジェクト」と早々にキャンペーンを張っている。本誌でも5年前(2019)、『男はつらいよ』誕生50周年の大特集を組んだ。
で、久しぶりに寅さんに会いたくなって葛飾柴又に出掛けようと思い立ったのである。京成電車で上野から京成高砂で乗り換えて一つ目、柴又駅の改札を出ると、いきなり見送る妹さくらと振り返る寅さんの銅像が懐かしく目に飛び込んでくる。遅れている桜の開花と相俟って花冷えがつづく日にもかかわらず、銅像にスマホを向ける人々が後を絶たない。こちらも寅さんの肩越しにさくらを写したワンショットの画像を見直しながら、ふっと口を衝いたのは倍賞千恵子が歌う「さよならはダンスの後に」のフレーズだった。駅前での銅像の別れのシーンと重なって、何も言わないでちょうだい、さよならはダンスの後にしてね、という連想が生まれた。
あらためて倍賞千恵子という大女優が、数々の名曲を残している歌手だったことに思いを馳せる。やはり真っ先に浮かぶのは、1962年(昭和37)のデビュー曲「下町の太陽」で、大ヒットした翌年には同名映画の主題歌にもなっている。これは7年後(1969)に公開される『男はつらいよ』の山田洋次監督にとって2作目の作品で、シリアスな筋書きをしかめ面で演出する若き山田監督から何度もダメだしされて泣きながら撮影したと記している。倍賞は石鹸工場の女工役だったが、相手役の勝呂誉とのラブシーンはなかなかOKが出ずベソをかくほどだった。それまで松竹歌劇団(SKD)出身の倍賞千恵子は、映画出演より舞台で歌い踊ることのほうがよほど楽しくて、SKDに戻りたかったと述懐している。だが演技に厳しい山田洋次監督と出会って、初めてプロの女優を目指そうとふん切りがついたのである。女優、倍賞千恵子は、その後山田監督の作品には欠かせない存在となっていくが、映画、楽曲とも『下町の太陽』は倍賞をして〝庶民派〟というイメージを定着させたと言えなくもない。
楽曲「下町の太陽」は1963年の第4回日本レコード大賞新人賞を受賞し、この年の第14回NHK紅白歌合戦にも出場。以後第15回「瞳とじれば」、第16回「さよならはダンスの後に」、第17回「おはなはん」と連続出場を果たしている。『下町の太陽』以後、軸足は映画出演に傾いていったが、それでも、「下町~」から3年も経たずに、ルンバのリズムとともに「さよならはダンスの後に」(作詞・横井弘、作曲・小川寛興)がリリースされ、大ヒットしたことには驚かされた。いきなり〝下町〟から躍り出て、大人の女性の艶やかさを感じさせる世界を歌ったのである。当時ダンスができるナイトクラブは確かに流行っていたが、庶民が出入りできる所ではなかった。因みに、1965年3月10日にリリースされたこの楽曲が、年末には150万枚のミリオンセラーを記録したのだ。
(意訳すれば)――ここは懐かしいナイトクラブ、お別れする刻(とき)まで、ただ黙って踊っていたい、気のすむまで踊りましょう、何も言わないでちょうだいね、もう少し恋人のままでいたいの、カクテルをちょうだい、酔ったらまた踊ってね、今はさよならなんて言わないで――
恋人と別れたくないが、故あって別れなければならなくなった男に酔った女がすがり付いているような詞だが、これが別離の悲愴感もなく、男に遊ばれて捨てられるようにも思えない。いやらしく猥雑に聴こえないのは、軽快なルンバのリズムのせいもあるだろう。加えて倍賞千恵子の美しい張りのある声、透き通るような高音の伸びとともに、〝何も言わないで、ちょうだい〟の〈ちょうだい〉の部分だけが微かに甘えたような歌唱も、みだらには聞こえない。正確な音程もさることながら言葉のメリハリにごまかしがないのだ。
昔、ウイスキーの広告のキャッチコピーに、〈何も足さない、何も引かない〉というのがあった。素材に忠実にピュアなまま、樽から生まれるウイスキーを表したものと勝手に解釈していたが、倍賞千恵子の歌にも演技にも共通しているような感じがある。素のままでいい、うまく見せようと無理に足そうとしない。無理して足せば、引くことが必要になる。だから飾らない。
倍賞千恵子の抒情歌に耳を傾けてみた。「あざみの歌」、「忘れな草をあなたに」、「惜別の歌」、「さくら貝の歌」、「白い花の咲く頃」等などしみじみと聴き入ってみると、生真面目とも思えるほど日本語(詞)の発音の一つ一つが明確に丁寧に伝わってくる。高音に伸びるソプラノの声に無理がなく、まったくケレン味がない。
東京西巣鴨に生まれ、幼少期は北区滝野川で育った。すぐ隣の町で育った筆者は、北区公会堂の歌謡ショーに行ったり、王子の名主の滝や飛鳥山公園で遊んだりしたが、きれいな千恵子お姉さんと遭遇していたかも知れない。現在の飛鳥山公園のモノレール「アスカルゴ」の音声案内の声の主は倍賞千恵子で、地元にご縁があり北区のアンバサダーになっている。父親が都電(路面電車)の運転士だったということも、隣のお姉さん的で、身近な存在のように感じていた。
幼少時から歌が上手く、小学生のときには姉に代わって本人が望みもしなかった「NHK素人のど自慢大会」に出場するほどだった。13歳、ポリドールの児童合唱団に所属したことで、歌手の道を歩み始めたが、高校入試の猛勉強中に、両親が示したのは松竹歌劇団の願書だった。16歳、松竹音楽舞踊学校に入学。1960年、同校を首席(!)で卒業し、松竹歌劇団(SKD)13期生として入団、若くして「逸材」と注目された。…そうか、もともと歌手を目指していたのだ。1961年松竹映画にスカウトされて歌劇団を退団、同年の映画初デビューは『斑女』(中村登監督)だった。前述したように、『下町の太陽』で山田監督に出会いその後も山田監督作品を含め数々の映画に出演していたが、女優、倍賞千恵子として決定的に運命を決めたのは、『男はつらいよ』シリーズが始まる1969年(昭和44)以降、渥美清演じる寅さん(お兄ちゃん)の妹さくらの役回りを最後まで演じ続けたことだろう。1995年まで連続48作品、1997年『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』、2019年『お帰り 寅さん』と妹さくらとして生き続けたのである。その間、山田組に欠かせない女優として、日本列島縦断3000キロをロケする旅の映画、名作『家族』(1970)にも出演。当然、〝滅多に歌わない歌手〟といわれることになったが、演技者としての彼女の映画もまた、歌唱する姿勢と同じように「素」のままで役回りを演じてケレン味がない。
一昨年公開された、映画『PLAN75』に主演した。超高齢化が進む中で、75歳以上が自ら生死を選択できる制度が施行された近未来の日本、その制度に翻弄される人々を描いた映画だった。倍賞は夫と死別し、ひとり静かに暮らしながらもPLAN75の選択を迫られる、78歳の角谷ミチ役を見事に演じた。
歳を数えては失礼だが、間もなく83歳を迎える〝滅多に歌わない歌手〟と言われてきた倍賞千恵子が、しかし今年もまた「八ヶ岳音楽堂」(6月1日)、「東京オペラシティコンサートホール」(6月22日)でコンサートの舞台に立つ。(本稿は、倍賞千恵子著『お兄ちゃん』廣済堂出版刊、参照)
文:村澤 次郎 イラスト:山﨑 杉夫