『サッカーの起源』殺人以外は何でもありだった…中世イングランド「モブ・フットボール」とは
サッカーの母国とされるイングランドには、かつて町全体を巻き込む荒々しい球技が存在した。
その名は「モブ・フットボール」である。
モブ・フットボールとは、現代サッカーやラグビーの祖先の一つとされる中世イングランドで行われていた民俗的な球技の祭典だ。
ロンドンをはじめイングランド各地で大規模な試合が開催されていたが、現代のサッカーのような細かいルールは存在せず、殴り合い蹴り合いに発展することもある荒々しい行事だった。
殺人行為以外なら手段を選ばずボールを奪い合うことが許されていたので、負傷者が絶えないうえに街や公道が破壊されるなどの理由で、モブ・フットボールは何度も為政者によって禁じられていた。
しかし庶民は法の抜け道を見つけながら、19世紀になるまでモブ・フットボールを続けていた。
イングランドでは、今でも地域の祭事としてモブ・フットボールを続けている地域もあるという。
今回は、中世イングランドで広く親しまれた危険な娯楽「モブ・フットボール」について、詳しく掘り下げていきたい。
モブ・フットボールの起源
モブ・フットボールの起源としてよく語られるのが、中世前期のイングランドで、斬り落とした敵将の首を蹴り合ったという伝承である。
8世紀のイングランドは、ノーサンブリア・マーシア・ウェセックス・イーストアングリア・エセックス・サセックス・ケントという7つの王国が互いに覇権を争っていた、いわゆる「七王国」の時代だった。
その頃のグレートブリテン島には他にも多数の小国が林立しており、各地で小規模な紛争が絶えず起こり続けていた。
9世紀前後からは、そこに北欧から侵入してきたヴァイキングのデーン人が加わって新たな勢力となり、イングランドの情勢はさらに混沌としていった。
そんな血生臭い戦いの日々の中で、斬首された敵国の将軍の頭部を蹴って奪い合い、自国や自軍の勝利を祝うという風習が生まれたと考えられている。
あるいはさらに古い時代、古代ローマ人がグレートブリテンに侵攻してきた時に、ケルト人が殺害したローマ人兵士の頭部を蹴り合ったことが起源であるという説もある。
こうした生首起源説を裏付ける史料は限られているが、モブ・フットボールの荒々しさや戦闘的な性格を物語る伝承として、現在まで語り継がれてきた。
一方で、古代ローマで行われていた手足を使ってボールを奪い合う球技「ハルパストゥム」が起源であるという説もあるが、いずれにせよ1066年のノルマン・コンクエスト(ノルマンディー公ウィリアムによるイングランド征服)以前から、この地ではボールに見立てた物を奪い合い、一定の陣地まで運ぶ遊びが行われていたと考えられている。
イングランド各地で盛り上がったモブ・フットボール
1314年4月13日、ロンドン市長がイングランド王エドワード2世の名の下に、市民に対してこの野蛮な球技を禁止する布告を出した時の記録が、モブ・フットボールについて言及した最古の記録の1つとされる。
エドワード2世はロンドン商人たちから届くクレームに対処するために「騒音を起こして神が禁じる邪悪が生じ、多くの災難を発生させる可能性がある」として、ロンドン市内でモブ・フットボールを行う事を禁じた。
モブ・フットボールのモブとは、民衆を意味する言葉だ。
絶対的権力を持つイングランド王が神の名を借りて禁止令を出すほどに、中世のモブ・フットボールは大きな被害を出す荒々しい球技であった上に、参加する人数も現代のサッカーに比べて桁違いだったのである。
ロンドン市内で毎年謝肉祭に行われる試合は特に人気を呼び、多くの民衆がモブ・フットボールに参加した。
試合は地域の教会を中心とする町対町、村vs村という大きな規模で行われ、主な参加者は男性だったが人数に制限はなく、数百人もの人々が一斉に、豚の膀胱などを用いたボールを巡って街中を駆け回った。
勝利の条件は、ボールを決められたゴール地点まで運び込むことだった。ボールを奪うためなら殺人以外はどんな手段も許されていたので、当然ボールを奪うための殴り合い蹴り合いがそこかしこで発生する。
その光景は、さながら軍隊の衝突のようだったともいう。
ボールを追いかけて民家や商店への強引な侵入も繰り返され、家主や店主がどれだけ頑丈に家や店を守る柵や垣を作っても、モブ・フットボールの試合が行われるたびに破壊されてしまった。
物損被害だけでなく死者と負傷者が絶えない危険な行事だったが、民衆はたとえ捕まって罰金を払わされたり投獄されたりしても、やめることはなかった。
モブ・フットボールは、それほど民衆から愛され親しまれた娯楽だったのだ。
近代サッカーの誕生
数百年に渡って続いたモブ・フットボールが下火になり始めたのは、19世紀前半頃からである。
イギリスでは1835年に道路法が施行されて、公道でフットボールゲームを行う事が禁止された。
それに乗じて以前からモブ・フットボール開催による治安悪化や破壊行為を懸念していた教区委員会が、新設された警察の支援を受けながらモブ・フットボールを抑制し始めたのだ。
こうして公共の場所をフィールドとするフットボールは、イギリス各地で徐々に行われなくなっていった。
道路法の施行から約30年後の1863年10月26日、学校や各クラブで異なっていたフットボールのルールを整理するため、世界最古のサッカー協会であるイングランドサッカー協会(The Football Association、略称 The FA)が設立された。
これによりフットボールはサッカーとラグビーに分離されて、明確な統一ルールの下で近代サッカーの試合が開催されるようになった。
イングランドサッカー協会の設立後、近代サッカーはイギリスの繁栄と共に世界中に伝播して世界規模のスポーツとなり、1904年にはFIFA(国際サッカー連盟)が設立された。
現代も続くモブ・フットボール文化
中世の危険なモブ・フットボールが往来で行われることは少なくなったが、一部の地域では今でも祝祭日の娯楽として、モブ・フットボールの試合を開催している。
イングランド・ダービーシャー州のアッシュボーンにおいて年に1度、イースター前の「告解の火曜日」と「灰の水曜日」の2日間にかけて行われるロイヤル・シュローヴタイド・フットボールは、モブ・フットボールの伝統を現代に残す代表的な祭典の1つである。
ロイヤル・シュローヴタイド・フットボールの正確な起源は不明だが、少なくとも1667年には行われていた記録が残されており、現在も毎年、アッシュボーンの町に数千人規模の参加者や観客を集めている。
町民は町を東西に流れるヘンモア川を境に2つのチームに分けられ、町全体をフィールドとして激しくぶつかり合いながらボールを奪い合う。
殺人や不必要な暴力、乗り物でボールを運んだり隠したりする行為、墓地や教会、記念公園への侵入が禁止されている以外の禁止事項は特になく、ボールは投げても蹴っても手に持って走ってもよく、ボールを追いかけてスーパーや商店、民家の敷地に入ることも許される。
互いの目指すべき場所はヘンモア川の上流と下流にそれぞれあり、川の中にある石碑にボールを3回タッチさせればゴールと認められる。
どちらのチームもゴールできずに2日目の夜10時を迎えると試合終了となり、結果は引き分けとなる。
この伝統的で荒々しい祭りの名に「ロイヤル」という言葉が冠されるようになったのは、1928年当時イギリス王太子であった英国王エドワード8世が、試合開始時に民衆にボールを投げ入れる役目で参加した時からであるという。
ロイヤル・シュローヴタイド・フットボールでゴールを決めると、その人物には本人の名前が記されたボールが贈られる。
このボールを手に入れることはアッシュボーンの男にとって大変な名誉であり、その名は町内で長く語り継がれるという。
争いの時代に生まれたスポーツが平和の架け橋に
戦争に起因して始まったともされるモブ・フットボールだが、エドワード2世の跡を継いだエドワード3世は「ボール遊びにかまけて兵士たちが訓練を疎かにする」という理由で、父王と同様にモブ・フットボールを禁じる布告を行っている。
戦乱の世の中で初めに淘汰されるのは、民衆の衣食住に直結しない趣味や娯楽に関わるものだ。
さらには娯楽の中でも、スポーツは戦争や政治に利用されやすいコンテンツでもある。スポーツをあくまでも娯楽として楽しめるのは平和があるからこそだ。
争いが続いた時代に生まれたモブ・フットボールは、今日では世の中が平等かつ平和でなければ、選手も観客も心から楽しむことができないサッカーというスポーツに進化した。
そしてサッカーは、世界中で親しまれるスポーツだからこそ、言葉や文化の壁を越えて、他国の歴史や人々に興味を持つきっかけにもなる。
かつて荒々しい争いの中で楽しまれた球技が、今では異なる国や地域を結び付ける存在になっているのである。
参考 :
吉田文久 (著)『ノー・ルール!英国における民俗フットボールの歴史と文化』
Magoun (1929) “Football in Medieval England and Middle-English Literature” 他
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部