1000人殺して一人前?ヤブ医者だらけだった江戸時代の医療事情とは
現代社会には、資格を持っていなければ就くことのできない仕事がある。
その中でも、特に取得が難しい資格として一般的に知られているのが医師資格だろう。
医者になるには、医科大学や大学医学部などで6年間の医学教育を受けた後、医師国家試験に合格して医師免許を取得する必要がある。さらに診療に従事するには、その後2年以上の臨床研修を受けなければならない。
しかし、医者という仕事そのものの歴史は非常に古い。
紀元前5~4世紀ごろの古代ギリシャでは、ヒポクラテスとその学派が病気を呪術や迷信だけで捉えるのではなく、患者の症状や経過を観察する医学を発展させた。
日本の医学も古くから中国医学の強い影響を受けてきた。
平安時代には、律令制度のもとで医療や薬の調合を担当する「典薬寮」という役所が置かれ、その中には「医師」という官職も定められていた。それほど日本における医師の歴史も古い。
現在につながる医師国家試験が導入されたのは第二次世界大戦後だが、日本で近代的な医師資格制度への転換が始まったのは1874年(明治7年)に「医制」が公布されてからである。
翌1875年(明治8年)から医師開業試験が始まり、その後、全国統一の試験制度や医師免許制度が整えられていった。
つまり、それ以前の日本では、現在のような医師免許を持っていなくても医者になることができたのである。
髪を結うのが面倒だから医者に転職?
前述のとおり、日本で医師が資格による許可制へと移行したのは明治以降のことで、それ以前は医師として開業するための全国共通の資格は必要なかった。
新たに医者を目指す者は、医師のもとで学んだり、医学書を読んだりして知識と経験を身につけていたが、どこまで学べば医者になれるという統一された基準はなかったのである。
「千人殺さなければ一人前の医者とは言えない」といった物騒な言葉まで伝えられているほど、実際の診療経験が重視された時代でもあった。
しかし、それもあくまで一人前の医者としてやっていくための話である。
極端にいえば、ただ町医者を名乗るだけなら資格も試験も必要なく「医者だ」と名乗れば医者として開業することができたのだ。
当時の医者には剃髪する者も多かったため「髪を結うのが面倒になったから医者になる」といった、現代では考えられないような理由で医者に転じる町人もいたという。
また、江戸では一つの職業に生涯とどまらず、さまざまな仕事を渡り歩く者も珍しくなかった。
医者をやめて幇間(ほうかん・宴席などで客を楽しませる芸人)や易者、坊主などになり、その後また医者に戻るといった者もいた。
医者の中には名字帯刀を許される者もおり、医師という肩書きに社会的な魅力があったことも確かだ。
その一方で、資格によって医師の能力を保証する制度がなかったため、十分な知識や経験を持たない、いわゆる藪医者も存在した。
とはいえ、医者を名乗れば誰でも患者が集まり、安定して仕事ができたわけではない。
知識も経験も乏しい医者は患者から敬遠され、腕の良い医者には評判を聞きつけた患者が集まった。
本当に医者として身を立てるためには、やはり優れた医師のもとで医学を学び、何年も修行を積む必要があったのである。
医者の中でも別格の存在だったのが、将軍やその家族の診療を担う幕府の医官たちである。
そこまで出世するには医学の知識や実績はもちろん、将軍の身近に仕えるにふさわしい教養も求められた。
このように十分な医学知識を持たない藪医者から、将軍の診療を任される名医まで、江戸時代の医者の実力には極めて大きな差があったのである。
医療保険もない江戸時代、庶民はどう病気を治したのか
もう一つ、当時の医療で現代と大きく異なるのが、医療保険が存在しなかったことである。
現代の日本では国民皆保険制度が整備されており、原則としてすべての国民が公的医療保険に加入している。
医療機関で支払う自己負担の割合も定められており、1カ月の窓口負担が一定額を超えた場合には、超過分の払い戻しを受けられる高額療養費制度もある。
当然ながら、江戸時代にはこのような仕組みは存在しなかった。
医師への支払いには「薬礼」「薬代」などがあり、現代の診療報酬のような全国統一の料金体系もなかったため、治療にかかる費用は医師や治療内容によって大きく異なっていた。
そのため庶民は、まず食養生や薬草、灸など身近な方法で病気や怪我に対処することも多かった。
灸には艾(もぐさ)を使うため、江戸では艾を売り歩く商人の姿も見られたという。
また、市販薬も広く流通しており、店舗だけでなく行商人から少量の薬を買うこともできた。
こうした民間療法や市販薬で対処する一方、必要に応じて医師の診察を受ける人もいたが、誰もが同じように医療を受けられたわけではなく、収入や住んでいる地域によって医師へのかかりやすさには大きな差があった。
そうした中、貧しく治療を受けることが難しい人々を救済した代表的な施設が、歴史の教科書でもおなじみの「小石川養生所」である。
小石川養生所は、8代将軍徳川吉宗が町医者・小川笙船の提案を受け入れ、1722年(享保7年)に小石川薬園内へ開設した施療施設だった。
当初の定員は40人だったが、翌年には100人規模へ拡張され、貧しい病人を無料で受け入れている。
もっとも開設当初から庶民に歓迎されたわけではなく、「薬の効能を試すため人体実験をされる」といった風評が広まり、患者がなかなか集まらなかったという。
その後は入所基準を緩和し、利用者を増やしながら幕末まで貧民医療を担い続けた。
1722年から1859年までに小石川養生所へ入所した患者は3万2282人にのぼり、そのうち1万6502人が全快したと記録されている。
現代の病院とは設備も医療水準も大きく異なるが、医療保険のない時代に、貧しい人々が無償で治療を受けられる数少ない施設だったのである。
参考文献:
江戸文化歴史検定協会『江戸文化歴史検定公式テキスト中級編 江戸諸国萬案内』
杉浦日向子『一日江戸人』水戸 計『お江戸はつらいよ』
坂井建雄ほか「我が国の医学教育・医師資格付与制度の歴史的変遷と医学校の発展過程」『医学教育』41巻5号、2010年
文 / ニコ・トスカーニ 校正 / 草の実堂編集部