「絶対権力者なのに不自由すぎる」徳川将軍の1日は想像以上に窮屈だった
1603年(慶長8年)、征夷大将軍に補任された徳川家康は、江戸を本拠として幕府を創設した。
約260年にわたる江戸幕府の始まりである。
この間、家康から慶喜まで15人の将軍が存在した。
では、絶対的権力者である将軍は、どのような生活を送っていたのだろうか。
今回は「徳川将軍の一日」をテーマに、その知られざる驚きの日常を紹介する。
江戸城にあった「表」と「奥」という二つの世界
将軍が君臨する江戸城には、「表」と「奥」という二つの世界があった。
「表」は政治の場、「奥」は将軍の私生活の場である。
その「奥」はさらに「中奥」と「大奥」に分かれ、大小200近い部屋が存在するいわば将軍の家庭であった。
中奥は将軍の居住区兼執務室、大奥は妻子の住まいと考えてよい。
将軍の一日は、多くの場合この大奥から始まる。
前夜に大奥で夜を過ごした将軍は、朝になると目を覚まして1日の支度へと入った。
起床の気配が伝わると奥向の女中たちが動き出し、慌ただしい朝が始まる。
将軍は8時までに洗顔を済ませ、仏間を拝み、医師の健康診断を受けた。
担当医は4人で、脈を取ったあとにいったん下がって協議して健康状態を判断する。
こうした診察は、将軍の日々の健康管理を支える重要な基準となっていた。
ちなみに徳川将軍15人の平均寿命はおよそ50歳。
大奥制度が確立されたのは4代家綱の頃とされるが、それ以前の家康・秀忠・家光の平均寿命は58歳である。
また、成人後に将軍となった8代吉宗、15代慶喜は、それぞれ68歳、76歳と長寿であった。
この二人の平均寿命は64歳と、将軍全体の平均を大きく上回る。
すべてに当てはまるわけではないにせよ、大奥での生活環境との関連を想像させる数字である。
健康診断が済むと朝食となる。献立は毎朝ほぼ同じで、キスの焼き物、野菜の煮物、味噌汁。
実はこの朝食も、将軍の健康状態を測るバロメーターだった。
配膳前にご飯の量を計り、おかずの減り具合から食欲を記録していたのである。
午前中は将軍にとって貴重な自由時間
朝食後、昼までは自由時間となる。
日課が厳密に決められている将軍にとって、この時間は貴重だった。
ただし朝には「総触れ」があり、女中たちへの御目見えは欠かせない。
そうこうするうちに昼食の時間となる。昼食は自ら注文できた。
といっても、板に書かれた献立を扇で示すだけである。
それでも好物を選べるという点では、将軍にとって楽しみな時間だった。
たとえば11代家斉は大の生姜好きで、一年を通して好んで食し、その子の12代家慶もまた生姜を好んだという。
この親子はそれぞれ多数の子女をもうけたことでも知られ、二人とも60代まで生きている。
生姜が二人の活力源だったのかもしれない。
昼食後は、武道と学問の時間となる。
武道は柳生但馬守による剣術の稽古だが、将軍は竹刀で床を三度叩く程度。
学問は幕府儒学を担った林家の林大学頭(はやしだいがくのかみ)が講義を行い、将軍は「四書五経」を聞くだけであった。
その後、下から上がってくる書類に目を通し、2時間ほど決裁業務を行う。
夕食までの間は趣味の時間である。
5代綱吉の儒学、10代家治の将棋、13代家定の菓子作りなどが知られる。
なかでもユニークなのは、家斉が七面鳥を飼い、その鳴きまねを楽しんだという逸話である。
将軍独特の入浴方法と夜の生活
夕方6時ごろに夕食となる。
品数は増えるが、基本は質素である。
夕食の前後は入浴の時間だが、その作法は独特だった。
将軍は一切手を使わず、女中が糠袋で身体を洗う。
部位ごとに糠袋を替え、使い終えたものは下げられる。
身体を拭く際も直接触れてはならず、浴衣を十数枚着せ替えながら水分を取った。
その浴衣は二度と使われず、女中に下げ渡された。
そして、10時ごろに就寝。
独り寝のときは中奥の「御休息之間」で休む。
しかし、大奥女中を指名している場合は大奥に泊まり、世継ぎをもうける役目が待っていた。
以上が、徳川将軍の一日である。
これを羨ましいと思うかどうかは人次第だろう。
徳川将軍は絶対権力者でありながら、その生活は豪奢というより、むしろ徹底管理された制度の中の人生だったといえよう。
※参考文献
樋口清之著 『もう一つの歴史をつくった女たち』ごま書房新社
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部