第6回【東宝映画スタア☆パレード】植木 等 ─ もうひとつの「アナザーストーリーズ」
今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。
東宝所属俳優ではないが、東宝とはれっきとした出演契約を交わしていた植木等(※1)。そのため、ハナ肇主演の松竹映画『馬鹿まるだし』(64)にゲスト出演する際には、ノンクレジットを余儀なくされている。東宝一筋だった植木だけに、初主演作『ニッポン無責任時代』(62)以降、所謂「クレージー映画」への出演はわずか9年半の間に(72年の『喜劇 泥棒大家族 天下を盗る』を除いても)三十本を数える。
2024年夏に放送されたNHK「アナザーストーリーズ」〝天下の無責任男!〟編。筆者も企画当初にブレーン的立場で関わったが、今や無責任男の誕生秘話や植木自身のキャラへの反発について、新たな視点で語れる人など皆無。一時は番組の成立さえ危ぶまれたほどで、放送された番組を見てもご子息の比呂公一氏を除いては、目新しい論点や驚きの新証言はなかった。
そもそも、無責任男・平均(たいらひとし)のモデルとなった人物の驚きの実像や、植木が国民栄誉賞を受けられなかった真相など、NHKでは放送できるはずもない(※2)。
そこで今回は、当番組とは全く別の視点から、植木等と〝無責任男〟について深掘りしてみたい。
『ニッポン無責任時代』(以降『時代』)が、東宝サラリーマン映画のアンチテーゼ(※3)として田波靖男が書いたオリジナル脚本『無責任社員』に、前61年に「スーダラ節」でブレイクした植木等を当てはめ、再構築したものであることは番組でも語られていた。当初、主演にフランキー堺を想定していたことは、二人の音楽家としての関係性(植木はクレージーキャッツ加入前には、フランキーがリーダーを務めるバンド、シティスリッカーズの一員だった)を振り返れば、なかなかに感慨深いものがある。
主人公の名が植木を配役する以前からタイラヒトシだったことは、まさに運命のいたずらと言うべき偶然だが、この〝悪漢ヒーロー〟は、『時代』でいきなり出現したわけではない。
本作に先駆けて公開された『如何なる星の下に』(62)は、山本富士子、池部良、森繁久彌などが出る文芸映画。豊田四郎監督による文芸作とは言っても、ずいぶんと軽いノリの、風俗映画の香りがする作品で、だからこそ起用されたであろう植木は、ここで芸能界をスイスイと渡り歩く〈C調〉なタレントに扮している。アナザー風に言えば、この映画こそが植木にとっての「運命の分岐点」であった。
かつては山本富士子の妹・池内淳子と関係を持ち、今は池部良の前妻・淡路恵子の亭主に収まっている植木は、まさに軽佻浮薄なプレイボーイ(役名は大屋五郎)。池内は植木に振られたことで睡眠薬自殺してしまうのだから、これは相当に重たい役である。
それでも、本作での植木は「こりゃシャクだった」とか「わかっちゃいるけどやめられねぇ」など、自らの持ちネタを連発するだけでなく、普通なら嫌がるような〝色悪〟役を「気楽な稼業ときたもんだ」とでも言うかのように飄々と、そして嬉々として演じている(ように見える)(※4)。
すなわち、この映画(脚本は重鎮の八住利雄)で植木は、数ヶ月後にセンセーショナルに登場するタイラヒトシのプロトタイプをすでにこなしており、この大屋五郎というC調男が『時代』にスライドしていったことは、当時東宝映画を見続けていた人たちにはすっかりお見通しだったのだ。ところが、大屋五郎と平均との関連性・連続性を指摘する声は、何故か全くと言っていいほど聞こえてこない。
▲『如何なる星の下に』劇場パンフレット(寺島映画資料文庫所蔵)
『時代』出演時の植木の忙しさたるや、尋常なものでなかった。テレビや舞台、レコーディングに取材と、時間はいくらあっても足らず、映画の撮影には早朝の1時間半と深夜10時以降しかスケジュールが取れなかったという。そこで、植木には〝影武者〟が必要となり、これを請け負ったのが勝部義夫という役者だった。
昭和30年代初頭から、東宝「Bホーム」俳優として様々な映画に出演していた勝部。いわゆる「大部屋」俳優であるから、ひとつの作品に通行人やらバーテンやら新聞記者やら、三つも四つもの役で登場することもしばしば。怪獣・特撮モノはもちろん、クレージー映画にもほとんどの作品に出演している(中でも凄いのは『ホラ吹き太閤記』の五役!)(※5)。
「本人がいないとき、手のアップ、相手と会話をするっていうシーンの背中は、全部僕なんですよ」
これは勝部自身の証言(「しまね映画祭」10周年記念誌)だが、確かに二人の体形は酷似しており、植木のスタンドインを務めるには最適の人物と言える。続編『ニッポン無責任野郎』で、植木が「無責任一代男」を歌うシーンにアベックの通行人として登場した勝部義夫が、『時代』で植木本人が着た黄土色のスーツを身に着けているのが、その何よりの証しである。
▲『ニッポン無責任時代』で植木と共演した勝部義夫(右)。確かに『無責任時代』のスーツを着ている(イラスト:Produce any Colour TaIZ/岡本和泉)
勝部はこうして端役として出演もしながら、植木不在の際に代わりにテストやリハーサルをこなしていたのであろう。この方こそ、第二の視点になるべく人であるが、残念ながら2023年5月に故郷の島根で没しており、もう話を聞くことはできない。
あんなにハンサムな顔立ちなのに、何ゆえに主役級の「Aホーム」俳優になれなかったのか――、桜井浩子さんに訊いてみたことがあるが、その答えはまたの機会にお伝えしたい。
これはピアニストの世良譲さんから直接伺った話。「スーダラ節」を歌うにあたり、悩んだ植木が父親・徹誠氏からもらった「この歌は親鸞の教えにも通じる。迷わず歌え」なる助言は、世良さんに言わせれば「マユツバ」だという。こうした逸話も植木さんのサービス精神の発露かもしれず、どうやら話半分で聞いた方がよさそうだ。(※6)。
第三の視点ではないが、公開当時『時代』を認めた人についても語らねばならない。
なにせ本作を評価したのは小林信彦と大島渚くらい。「キネマ旬報」のベストテンに入れたのはたった一人で、「映画評論」でも小林と佐藤忠男の二人だけだったというから、評論家筋からは完全に無視されていた事実が窺える。
そんな中、東宝内部でこれを推しに推したのが外国部の渡邊毅氏である。番組にも筆者の紹介で登場しているが、この方の功績は本作を海外に売り出したことにある。つけた英題は『ハッピー・ゴー・スリッキー(〝調子のいい奴〟の意)』。「これで東宝は、10年メシが食える」と主張する渡邊氏の稟議書に決済を下したのは、かの川喜多長政(当時外国部顧問)なのだという。しかし、『時代』が東南アジアで大売れしたことも、ほとんど語られることはない。
やはり東宝女優で、小谷承靖監督の奥様だった田辺和佳子さんが、筆者への手紙の中で植木さんについて語った言葉をもって、本稿の締めとしたい。
「植木さんは、やさしい、思いやりの気持ちをお持ちでした。セットに入ると、照明部の〝お二階さん〟にも、『お早よう! 今日も、いい男に写るよう照らしてくれよ』と声をかけ、皆で大笑い。リラックスして、古澤憲吾監督の『シュートする~』の声を聞いたものです」
何だか「こりゃ泣けてくる」話ではないか。
※1 植木の東宝スクリーン初お目見えは、グループ全員で出演した『裸の大将』(58)。
※2 平均のモデルとなった人物が起こした大事件や国民栄誉賞未受賞の理由については、拙著『今だから!植木等』を参照されたい。
※3 田波は自著で、この脚本を「ハードボイルド小説へのオマージュのつもり」で書いたと証言している。
※4 植木自身が80年代初頭の再ブレイクあたりまで嫌悪感を抱き続けた無責任男よりも、こちらの方が数段〈嫌な奴〉に見えるが、植木がこの映画について語ることはなかった。
※5 バタ臭い顔つきのせいか黒澤明から疎まれた勝部は、黒澤映画への出演は『隠し砦の三悪人』一本のみ。
※6 植木本人のサービス精神から生まれたホラ話は、これ以外にも「お呼びでない」ギャグ誕生に纏わる逸話(小松政夫の〝出番の声がけミス〟から始まった)がある。
高田 雅彦(たかだ まさひこ)
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝映画封切館の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。東宝撮影所が近いという理由で選んだ成城大卒業後は、成城学園に勤務。ライフワークとして、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動、クレージー・ソングの再現に注力するバンドマンでもある。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)、近著として『今だから! 植木等』(同2022年1月刊)がある。