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体操のオリンピック日本人女子メダリストは意外と少ない 団体「銅」を獲得した6人とは

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田中理恵Ⓒゲッティイメージズ

意外と少ない体操の日本女子メダリスト

日本のお家芸ともいわれた体操競技。1952年ヘルシンキ大会で初メダルを獲得すると、続くメルボルン大会で初の金メダル。不参加大会とアトランタ、シドニー大会を除き、14の大会で98のメダルを獲得している。現在も内村航平や白井健三など世界トップレベルの選手が活躍している。

男女でメダルの内訳を見てみると、男子のメダルは92個、女子は6個。体操日本女子の歴代オリンピックメダリストは1964年東京大会で団体銅メダルを獲得した6人のみとなっている。

【1964年 東京大会】
池田 敬子  団体総合 銅
相原 俊子  団体総合 銅
小野 清子  団体総合 銅
中村 多仁子 団体総合 銅
千葉 吟子  団体総合 銅
辻 宏子   団体総合 銅

日本人女子でメダルを獲得した6人はどんな人物だったのだろうか。

「ローマの恋人」池田敬子

体操日本女子の功労者と言えば、まずは池田敬子(旧姓・田中)だろう。池田敬子は、1933年広島に生まれた。1953年に全日本体操競技選手権大会で優勝、翌年にはローマで行われた世界体操競技選手権の平均台で日本女子体操史上初の金メダルを獲得し、「ローマの恋人」と呼ばれた。

1956年のメルボルン、1960年のローマ、1964年の東京と3大会連続でオリンピックに出場しており、1964年の東京大会では団体総合で銅メダルを獲得。個人総合6位、平均台で6位に入賞も果たしている。さらに全日本選手権では10回の優勝を飾るなど、女子体操界に素晴らしい記録と功績を残した。

池田敬子は母親として現役で競技に挑み続けた女子選手としても知られており、なんと団体総合で銅メダルを獲得した東京オリンピックの1年前に次男を出産している。長男を出産した際にも、わずか4カ月後に全日本選手権で優勝しており、そのパワフルさは人々を驚かせた。

36歳で現役の一線を退いてからも、母校である日本体育大学の教授、名誉教授、副学長を歴任。現役時代から体操クラブを開くなど指導者、教育者としての活躍を続け、2002年には日本体操女子で初めて国際体操殿堂入りを果たした。

親子で銅メダルの相原俊子

相原俊子(旧姓・白須)は1939年広島県で生まれた。先輩である池田敬子に憧れ、体操競技の名門・三原高校に進学。さらに日本体育大学に進み、男子体操界の名選手であり後に夫となる相原信行とともに体操を学んだ。

ローマオリンピック金メダリストの相原信行とは、ともに東京オリンピックの出場を目指すものの、相原信行は東京オリンピックへの出場はかなわなかった。一方、相原俊子は1964年の東京オリンピックにおいて団体総合で見事銅メダルを獲得。さらに跳馬で4位、段違い平行棒で4位に入賞した。

引退後は、夫とともに群馬県高崎市に体操クラブを開き、指導者として活躍。息子・相原豊に英才教育を施し、1992年バルセロナオリンピック銅メダリストに育て上げた。

引退後は政界進出した小野清子

小野清子(旧姓・大泉)は1936年宮城県で生まれた。1960年のローマ大会、1964年の東京大会と2大会連続でオリンピックに出場しており、東京オリンピックの団体総合で銅メダルを獲得した。

夫は日本人としてオリンピックメダルの歴代最多獲得選手である小野喬で、夫婦揃ってオリンピック2大会連続出場、東京オリンピックでは夫婦揃ってメダリストとなった。

東京オリンピックの1年前に出産しており、二児の母親として東京大会に出場した。競技引退後、1986年に参議院議員に初当選。2007年の政界引退まで、国家公安委員会委員長、内閣府特命担当大臣などのポストを歴任、華々しい経歴を重ねた。

中村多仁子の夫・三栗崇は金メダル

中村多仁子は1943年新潟県で生まれた。世界体操競技選手権大会では、1962年プラハ大会で団体総合3位、1966年ドルトムント大会で団体総合3位、段違い平行棒3位といずれも表彰台に上がっている。

オリンピックでも1964年東京オリンピック団体総合3位、1968年メキシコオリンピック団体総合4位の実績を持つ。夫はローマオリンピック団体総合、東京オリンピック団体総合で金メダルを獲得した三栗崇。

競技引退後は東海大学名誉教授として後進の育成にあたっており、近年はシニア向けの健康体操としてシルキー体操を提唱するなど、精力的に活動を続けている。

千葉吟子は日体大名誉教授に

千葉吟子(旧姓・虻川)は1938年に秋田県で生まれ、池田敬子、相原俊子と同じく日本体育大学に在籍した選手である。

1962年、1963年の全日本選手権で個人総合2連覇を達成。1964年の東京オリンピックにおいては団体総合で銅メダルを獲得した。

現役引退後は数々の世界大会で国際審判員や審判長を務め、現在は日本体育大学の名誉教授となっている。

地方のハンデと2度の大怪我を乗り越えた辻宏子

辻宏子は1938年に石川県で生まれた。当時はハンデとされた地方からオリンピックの表彰台にまでたどり着いた。強化合宿のたび、東京~金沢間を夜行列車で片道8時間かけて通った逸話が残る。

藤花高(現金沢龍谷高)ではインターハイ2連覇と活躍したが、一極集中で発展し続ける東京に対し、地方は人も物も不足しており、練習環境に恵まれてはいなかった。それでも、創意工夫と不断の努力によって、オリンピック出場を果たす。

競技人生は怪我との闘いで、1960年のローマオリンピック最終予選の直前に右アキレス腱を負傷して断念。1964年の東京オリンピックにおいて団体総合で銅メダルを獲得しているが、実は同年1月には左アキレス腱断裂の重傷を負っていた。負傷からわずか1カ月で退院、そのまま高知県の桂浜で行われた強化合宿に参加し周囲を驚かせた。

一度はあきらめかけた体操だが、地方のハンデと2度の大怪我を乗り越えて同年5月の最終予選を突破、そして体操日本女子悲願のメダルを獲得した。

東京五輪後に引退し結婚。夫は1968年メキシコオリンピックの団体総合金メダル、ゆか銅メダルの加藤武司で、夫婦揃ってメダリストとなった。

その後は湘北短大(神奈川県厚木市)の教壇に立ちながら国際審判員としても活躍。1983年の世界体操競技選手権大会(ブタペスト)や1988年のソウルオリンピックで国際審判員を務めた。現在も体操教室で指導を行うなど勢力的に活動を続けている。

体操ニッポンと呼ばれる活躍で目を向けられるのはこれまで男子が中心だったが、これからの体操女子の活躍にも大きな期待が寄せられる。注目選手も多い今、新しい時代の始まりとなるかもしれない。

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記事:SPAIA編集部

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