「心配しすぎじゃない?」焦る私とのんきな夫。息子の気になる発達と家族の理解、支援に繋がるまで
監修:初川久美子
臨床心理士・公認心理師/東京都公立学校スクールカウンセラー/発達研修ユニットみつばち
息子の特性に気づき、向き合い始めた日々
幼稚園に通っていた頃の息子は、少人数で遊ぶときには特に問題もなく楽しそうにしていましたが、大人数での集団行動はあまり得意ではありませんでした。そのため、園の先生からは年に2回の面談で「少し心配なところがあります」とお話をいただくことがありました。
具体的には、クラスの集会で指示を聞くことや手順を覚えることが難しく、その場に居続けられず部屋の外へ出てしまうこともある、というお話でした。私はその頃「成長の過程で変わっていくのかもしれない」と考え、あまりピンと来ていなかったのですが、年中、年長になっても状況は変わらず、集会では部屋の隅や外で待つ姿も目立つようになりました。
そうした姿を見聞きするうちに、私自身も少しずつ「待っているだけではいけないのかもしれない」と感じるようになりました。さらに、興味のないことを覚えるのが難しく、文字や数の習得、お箸や遊具など日常の動作にもつまずきがありました。
日常の小さな困りごとと集団での様子が重なり、就学を前にだんだんと「対処が必要だ」と思うようになったのです。
そして年長の夏頃、息子がいよいよ「幼稚園に行きたくない」と言い始めたことをきっかけに、療育に通わせるために医療機関を受診する決断をしました。こうして園での指摘や日常の小さな気づき、そして子ども自身の声が積み重なり、母親である私はようやく息子の特性を受け止めることになったのです。
そして次に直面したのが、私自身が受け止めた思いを、家族にどう伝え、どう理解してもらうかという課題でした。
家族に伝える難しさ、受け止めてもらうまでの時間
私自身は息子の特性を受容していったものの、その思いを夫や両親に伝えはじめた時には、どうしても認識のズレや意識を合わせる難しさを感じることがありました。
まず、最初に相談した夫は『息子には特性がある』ということ自体は受け止めてくれました。
しかし、私が「今すぐ療育へ」「就学先は特別支援学級も視野にいれたい」と話を進めると、「そこまで急ぐ必要があるの?ちょっと心配しすぎじゃない?」「特性があるといっても、学級を変えるほどの問題なの?」と戸惑っていました。
夫の気持ちも理解できます。確かに、集団行動が苦手といっても、ほかの子に大きな迷惑をかけるわけでもなく、不器用さも年相応に見える部分もありました。小学校に入ってみなければ分からないことなのに、なぜ今からそこまで準備をするのか……と感じるのは自然なことですし、私自身も長く悩んできた部分です。
私が時間をかけて受容した過程を、夫はこれから追う必要があり、その分だけ時間差がありました。
さらに祖父母に話をした時には、また別の壁にぶつかり、そもそも「問題があるようには見えない。特別扱いは過保護では?」という感じで、説明しても「そんなに大げさなこと?得意や不得意はみんなあるでしょ?」とピンと来てなさそうでした。
世代や立場による考え方の違いは、なかなかすぐには超えられないものだと感じます。それでも、説明を重ねた結果、いまは祖父母たちなりに私たちの考えを尊重して「見守るよ」という姿勢で支えてくれています。
そうした身近な人とのやりとりを経て、「そもそも全員が同じ温度で受容する必要はないのでは」と考えるようになりました。
受容してもらえるかどうかにこだわらなくても
家族内で、ある程度の共通認識を得るのも大事ですが、重要なのは「本人が困っているかどうか」、そして日常的に子どもを支援している身近な大人たちが「どの程度、支援が必要だと考えているか」(主観でなく、合理的に)です。
最初、そこまで対応を急ぐものなのかあまり腑に落ちていなかった夫に対しては、幼稚園での様子や、相談先から得た情報、療育でどんな支援が行われているか、特別支援学級と通常学級のそれぞれのメリット・デメリットを細かく情報共有しました。そのうえでゆっくりすり合わせながら「息子がこれからつまずきそうな所、困りそうな問題」を一緒に考えるようにしました。
息子の場合は、とくに人の多い場所での感覚過敏が集団生活においては大きな課題でした。障害の重い軽いという判断軸ではなく、「息子が今後通う小学校で安心して学び続けられるかどうか」を軸に考えることで、夫と私は意見を一致させることができました。
一方で、いわゆるこういったことに縁の薄いママ友や親類などになにげなく話す機会があっても、根本的なところで息子がなぜ支援を必要としているのかを理解してもらうのはまだまだ難しい部分があります。
「しつけの問題では?」「大きくなれば自然に馴染むのでは?」といった純粋な疑問を投げかけられることもあります。
それでも、息子が学校に通い、少しずつできることを増やしていることを前向きに伝えると、少しずつ理解していってくれているように思います。今は、周りの人には、正しく理解してもらうのは難しくても「できる範囲で寄り添ってもらえれば十分」と思えるようになりました。そして、身近な人に納得してもらうためにも、まずは自分が情報を得ること、支援について知ることが何より大事だと感じています。
支援は自分から声をあげてこそ届く
これまで家族の理解や障害受容について触れてきましたが、子どもの年齢やご家庭の事情によっては、本人の受容や発達特性以外の要因が関わることもあり、その際には専門家の視点がますます重要になると思います。いずれにしても大切なのは、家族も本人も「外との繋がり」を持ち続けることだと思っています。
家族という狭い枠のなかで行き詰まったときこそ、第三者に助けを求め、力になってくれる人を増やしながら、
少しでも前向きな手がかりを探していくことが必要です。
ただし、そうした情報や支援は、自ら動かなければ得られません。特に困りごとが表面に出にくいグレーゾーンの子どもは、相談先によって「支援が必要」と言われることもあれば「気のせいでは」と受け流されることもあります。
それでも違和感を抱えたまま立ち止まるよりも、少しずつでも動き出すことで、子どもの可能性が広がっていくことがあります。だからこそ、子どもが小さいうちは日々の子育てで難しいこともあるかもしれませんが、「支援は待つものではなく、自ら求めていくもの」と意識することが大切だなと感じています。
その一歩が、子どもにとって未来を広げる大切なカードになり、描きたい未来へと繋がっていくと信じています。
執筆/河野りぬ
監修/初川先生
お子さんの特性や診断、支援をめぐって、夫さんや親族(祖父母)からの理解を得ることの難しさ、その難しさをどう捉えるか。そして、家族以外のママ友など少し距離のある方々へ理解をどう求めるかについての思いのシェアをありがとうございます。
お子さんに発達的な特性(ばらつき、得意不得意の差の大きさ等)や発達障害と思われる行動が見られる際に、家庭内でも家族がとても困り、悩んでいる場合もありますが、家庭内ではさほど困っていないけれど、集団場面や家庭外で困りごとを呈するタイプのお子さんはいます。お子さんのそうした特性が、環境によって様子が変わることがあるからです。個別で話をしたり何かをしたりする分には困らないけれど、集団の中で話を聞くのが難しい、落ち着いて活動ができない、そもそも集団の中だととても居心地が悪そうといった、環境によってお子さんの苦手な状況が引き出される場合がそれにあたります。河野さんのお子さんの場合にも、うまくいかない状況が幼稚園の中で出ていました。家庭の中は、本人にとって居心地がよかったり、刺激もそう多くはなかったりするので、そうした差がお子さんの行動の差に繋がっているのでしょう。そうした場合、園での様子をつぶさに見ているわけではないので、そもそも保護者が先生と共有しづらいこと、あるいは園の先生と直接やりとりしている保護者(母など)はピンと来ても、ときどきしか見聞きしない保護者や親族からすると、なかなか共有しづらい面はどうしても出てきます。
お子さんが医療受診し、その後の支援を考えるうえで、夫さんやご親族に説明されたとのこと。なかなか伝わらずご苦労されたかと思います(お疲れ様でした)。特に、祖父母など世代が違うと難しさが大きいかもしれませんね。ただ、思うところはあっても、お子さんの親である河野さん夫婦の意見を尊重してくださったのは何よりです。そして、こうしたことは一朝一夕には伝わらなかったり、共有できなかったりするのが自然なことなので(関わりの濃度や知識の差などにもよります)、すべての人に一律に理解してもらおうとしない決断をされたのもよかったです。
家族や親族の理解を得るにあたって、大事にされたことが「本人が困っているか」であったことがとても素晴らしいと感じます。登園渋りなど不適応を表していることから、環境調整やお子さん本人への支援が必要だということを中心に理解を得ていく。とても良かったと思います。本人の困りは場合によっては見えづらいですが、何か活動に参加できないことで、楽しくない思いをしていたり、先生方から怒られてしまったり、お子さんのうまくいっていないことを汲み取っていくこと、それを中心に据えることは大事なことです。また、お子さんに関わる大人(先生など)がどの程度支援が必要だと考えているかにも着目されたのもとても良かったと思います。似たようなつまずきを持つお子さんをこれまでも支援されてきたであろう方々が、河野さんのお子さんに支援をしたらどんなふうに成長していきそうか、あるいは、お子さんの困りが軽減しそうかというところの予測はなかなかに大事な指摘になるだろうと思います。
また、医療機関や療育機関から勧められる「あったら良い手立てや介入(療育など)」も基本的にはせっかくだから活用してみようと検討していただくとよいのではと思います。手立てや療育はすべてのお子さんに対して行われるものではなく、必要なお子さんや条件を満たしたお子さんに提供されるものです。そしてそれは、おおむね「利用したらきっと良い展開が待っているであろう」から提案されるものでもあります。一般的に、療育等は低年齢の方が利用しやすく、年齢が上がると支援機関が減ったり、混んでいたりもします。そのあたりも加味してご検討いただきたいところです。
さて、最後に河野さんが書かれていた「支援は自分から声を上げてこそ」に関してですが、外の人、特に園や学校の先生方や専門機関の方などと繋がっていくことの大切さは私も感じるところです。どうしても家族だけで考えていると煮詰まることもあり、さまざまな立場から見えることや専門家の助言などを受けながらやっていくことは大事です。子育てをしている中で、「あれ?」という違和感を持ったらまずその違和感を大事にしていただき、それを誰かに話すところから始めてほしいと感じます。担任の先生でも家族でも、話してみて、違和感を共有できる人を見つけてほしいと感じます。自分から相談を申し込んだり、受診できたりする人はぜひそうしてほしいと思います。そこにハードルを感じる方は、園や学校の先生からどこか紹介してもらったり、自治体の子育てひろばや電話相談など敷居の低そうなところで話してみたりするところからぜひと思います。保護者の方の違和感は、お子さんを細やかに見ているからこそ出てくるものです。その違和感を大切にして、そしてそれを分かってくれる人や機関と繋がれるときっと心強いだろうと感じます。
(コラム内の障害名表記について)
コラム内では、現在一般的に使用される障害名・疾患名で表記をしていますが、2013年に公開された米国精神医学会が作成する、精神疾患・精神障害の分類マニュアルDSM-5などをもとに、日本小児神経学会などでは「障害」という表記ではなく、「~症」と表現されるようになりました。現在は下記の表現になっています。
神経発達症
発達障害の名称で呼ばれていましたが、現在は神経発達症と呼ばれるようになりました。
知的発達症(知的障害)、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、コミュニケーション症群、限局性学習症、チック症群、発達性協調運動症、常同運動症が含まれます。
※発達障害者支援法において、発達障害の定義の中に知的発達症(知的能力障害)は含まれないため、神経発達症のほうが発達障害よりも広い概念になります。
ASD(自閉スペクトラム症)
自閉症、高機能自閉症、広汎性発達障害、アスペルガー(Asperger)症候群などのいろいろな名称で呼ばれていたものがまとめて表現されるようになりました。ASDはAutism Spectrum Disorderの略。
ADHD(注意欠如多動症)
注意欠陥・多動性障害の名称で呼ばれていましたが、現在はADHD、注意欠如・多動症と呼ばれるようになりました。ADHDはAttention-Deficit Hyperactivity Disorderの略。
ADHDはさらに、不注意優勢に存在するADHD、多動・衝動性優勢に存在するADHD、混合に存在するADHDと呼ばれるようになりました。今までの「ADHD~型」という表現はなくなりましたが、一部では現在も使われています。