ころころした子犬、足のない幽霊。写生画の革新者・円山応挙とは?
ふわふわの毛並みに丸い体つき、そしていたずらっぽい表情。見ているこちらが思わず微笑んでしまう、可愛らしい子犬の絵。 このような作品を描いたのは、18世紀の京都で活躍した、円山応挙(1733-1795)です。精緻な写生によって「写生派」というジャンルを生み出し、日本美術に大きな影響をもたらしました。 現在では、画題をリアルに描くことはごく一般的な手法だと思う方も多いでしょう。しかし、応挙の生み出した「写生」は、当時としては革新的な技術だったのです。やがて写生派は京都画壇を席巻し、現代まで続く大きな影響を与えました。 本記事では、現在の私たちも心惹かれる応挙の代表的な作品と、彼の生涯について解説します。
思わず笑顔に!円山応挙の愛らしい子犬たち
円山応挙『朝顔狗子図杉戸絵』(部分)
円山応挙は「写生の人」と呼ばれ、多くの写生帖を残しました。人物はもちろんのこと、風景や植物画など、その鋭い観察眼でさまざまな絵を描き続けたのです。
その中でも印象的なのは、生後間もない子犬の絵です。ただ写実的に子犬たちを描くのではなく、そのふわふわした毛並みや愛くるしい仕草などを、巧みに表現しました。
子犬独特の丸みを帯びたフォルム、くりくりとした丸い目など、応挙の描く子犬たちはとても愛らしい姿です。
実際の犬の目はそのほとんどが黒目ですが、応挙の描いた子犬には白目の部分がはっきりと描かれており、それが多彩な感情をうまく表現しています。
応挙は、動物の形や動きをよく観察して、可愛らしさや人の心を掴むポイントをよく研究していました。それは子犬たちの毛並みの質感や表情だけではなく、動作やポーズなどにも現れています。
もふもふの毛皮、応挙が写生した「虎」の魅力とは
金刀比羅宮表書院『虎の間』より(部分)
古くから、虎は多くの画家たちの画題に取り上げられていた生き物でした。しかし、江戸時代の日本には虎は生息しておらず、画家たちは中国絵などを手本として虎の絵を描いていました。
応挙は、実物大の虎の毛皮を写生して、実際の虎の体や表情、毛並みなどを再現しました。各部分の長さなどが記された、詳細な観察資料も残されています。
現在、動物園などで本物の虎を見る機会がある私たちからすると、応挙の描いた虎はそこまでリアルなものに感じられないかもしれません。
実際の虎よりもずいぶんと丸みがあり、手足もぽってりとしていて、その表情まで含めると、全体的に猫を思わせるような雰囲気です。しかし、それがかえって可愛らしく、魅力を引き出しています。
応挙は香川県の金刀比羅宮(ことひらぐう)の障壁画をはじめ、多くの虎の絵を描きました。こうした作品により、虎の絵の名手としても知られているのです。
応挙は「足のない幽霊」を最初に描いた?
円山応挙『幽霊図』
応挙が描いたのは、可愛い動物だけではありません。現在では一般的な「足のない幽霊」のイメージを作ったのは、応挙だったことをご存じでしょうか。
実際には、17世紀末の浄瑠璃本の挿絵に足のない幽霊が描かれていたとされているものの、現在の私たちのイメージする幽霊像を確立したのは、応挙の作品だと言われています。
幽玄な女性の姿が描かれた「幽霊図」では、女性の腰から下の部分が描かれていません。
薄く透けている髪や、うっすらと引かれた紅の表現が、この幽霊の儚さを表現しています。
幽霊を描いているだけあって、どこか不気味なこの作品。しかし、同時に、思わず引き込まれてしまいそうな魅力も放っています。
円山応挙の生涯とは?一代で名を馳せた「応挙派」の祖
玩具店での仕事から絵の道へ
円山応挙肖像『近世名家肖像』より
円山応挙は、1733年に丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)に生まれました。
農家の次男として生まれたものの、幼い頃から絵を描くのが大好きだった応挙は、家業にはあまり熱心ではありませんでした。そこで両親は、8歳の応挙を金剛寺に修行に出したといいます。
しかし、そこでも応挙は不首尾に終わり、10代前半から半ば頃、京都・四条新町の呉服屋で奉公人として働き始めました。
その後ガラス製品の「びいどろ道具」や人形など、おもちゃを扱っていた店で働くこととなった応挙は、人形の彩色などを手掛けました。後年、応挙も描いた「眼鏡絵」は、この玩具店の目玉商品のひとつだったと言われています。
この仕事の経験がきっかけで、応挙は絵師の道を志すことになりました。
中国画家の影響と有力後援者との出会い
円山応挙『孔雀図』
応挙が画業を始めてから、比較的初期に大きな影響を受けたのが、沈南蘋(しんなんびん)だと言われています。
沈南蘋は中国・清時代の画家で、1731年に長崎に来航し、2年後に帰国しました。写生的で濃厚な花鳥画が特徴的で、南蘋の滞在中に直接教えを受けた日本人画家たちを通じて全国的に広まった画風でした。
特に江戸時代中期の画家たちに大きな影響を与えており、応挙も南蘋の影響を強く受けたひとりでした。
応挙が写生画のスタイルを確立させた1765年頃、有力な後援者との出会いを果たします。
その人物とは、滋賀の円満院の祐常(ゆうじょう)法親王でした。
早くから才能を見抜いてくれた祐常法親王との出会いは、応挙にとって重要な転機となりました。この支援により、応挙は創作活動に専念することができるようになったのです。
豪商・三井家との親交と絆
円山応挙『郭子儀祝賀図(かくしぎしゅくがず)』
やがて祐常法親王が亡くなると、今度は三井越後屋の人々が応挙の有力な後援者となりました。
『郭子儀祝賀図(かくしぎしゅくがず)』は、三井家の家業をまとめた三井高彌への隠居祝いとして制作されました。時代の名将で子孫繁栄・長寿を全うした郭子儀にあやかり、その姿を高彌に重ねて描いた作品です。
三井家と応挙との親交が始まった時期は定かではないものの、少なくとも1772年頃には交流があったことがわかっています。また、11家あった三井家の中でも、北三井家の4代目である高美(たかはる)とは、特に友好的な関係を築いていました。
「応挙派」の祖として多くの門弟を抱える
円山応挙『雪松図屏風』(部分)
1780年代に入ると、応挙は多くの門弟を抱え、工房を形成するほどになりました。
一代で画壇に名を馳せた応挙は、「応挙派」という新たな流派の祖として活躍したのです。
この頃になると、屏風や障壁画などの大型作品を制作することが多く、画家個人が成し遂げるのが難しい仕事が増えてきました。そこで応挙は、門人たちのそれぞれの能力を考慮しつつ、仕事を割り当てていたといいます。
応挙は精力的に大仕事を成し遂げ、その画風を多くの門弟に伝承してきましたが、1793年頃からは、眼病やさまざまな病に悩まされるようになりました。
そして1795年、63歳でこの世を去りました。
まとめ
日本の絵画の世界に登場してからというものの、「京の絵は写生ばかりになってしまった」と言われるほど多大な影響力を与えた応挙。
当時の絵画界を席巻した応挙の画風は、世界をただリアルに再現するだけではありません。
対象物を観察し、それぞれの美しさや特徴を引き出した応挙の作品は、いまや「リアリティ」に慣れてしまった私たち現代人にとっても、非常に魅力的に映ります。
応挙の作品は、単なるリアリティだけではなく、対象物への優しい眼差しが反映されており、それが鑑賞者の心を打つのかもしれません。
◆参考書籍一覧
『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい円山応挙 生涯と作品』著:樋口一貴(東京美術)
『別冊太陽 円山応挙 日本絵画の破壊と創造』(平凡社)
『ジュニア版 もっと知りたい世界の美術3 リアルですごい日本絵画の誕生 若冲と応挙』監修:金子信久(東京美術)