『江戸時代』単身赴任の夫を待つ武士の妻が、浮気したらどうなったのか?
江戸時代の武士夫婦の生活
江戸時代、とりわけ17世紀後半から19世紀にかけて、武士の夫婦が長期間離れて暮らすことは決して珍しいことではなかった。
最もよく知られているのは大名の参勤交代である。
江戸幕府は諸大名に対し、一定期間ごとに江戸と領国を往復することを義務づけ、その一方で正室や嫡子には江戸居住を求めた。
大名家の夫婦は、制度そのものによって別居を強いられていたのである。
しかし、長期の単身赴任は大名だけの話ではなかった。
各藩の中下級武士にも、江戸勤番や藩邸勤務、藩主の供奉などによって、数か月から数年にわたって家族と離れて暮らす者が少なくなかった。
その実態を具体的に伝える史料として知られるのが、紀州和歌山藩の下級武士・酒井伴四郎(さかい はんしろう)の日記である。
伴四郎は万延元年(1860年)、衣紋方として江戸勤番を命じられ、妻子を国元に残して江戸へと向かっている。
現存する日記によれば勤務そのものは比較的軽く、江戸滞在中は寺社参詣や名所見物、食べ歩き、三味線の稽古などに多くの時間を費やしていたようだ。
また、他藩の武士との交流も盛んであり、江戸での生活が細かく記録に残されている。
もちろん、すべての武士が伴四郎のような余裕ある暮らしを送っていたわけではないが、少なくとも江戸時代の武士社会においては、夫婦が長期間別々に暮らすこと自体は珍しいことではなかったのである。
国元に残された武士の妻たちは、どのような日常を送っていたのか
国元に残された妻たちの心情を記した史料は少ないが、当時の法令や事件記録などから彼女たちが置かれていた状況をある程度うかがうことができる。
まず武士の妻は、夫が不在であっても「家の妻」であり続けた。現代のように夫婦だけで独立した生活を送るケースは少なく、多くの武家では親族や奉公人、近隣の武士たちとの密接な人間関係の中で生活していた。
そのため夫が江戸にいるからといって妻が完全に一人になるわけではなく、むしろ周囲の視線や家の体面を常に意識して生活しなければならなかった。
一方で、長期間の別居が、妻たちに精神的な孤独をもたらしたこともまた事実だったようだ。
近松門左衛門の『堀川波鼓』では、鳥取藩士の妻たねが、江戸勤番中の夫を思いながら「夫恋しや」と嘆く姿が描かれている。
この作品は脚色を含む文学作品ではあるが、その背景には、長い別居生活が武士の夫婦にもたらした現実があったと言えるだろう。
そして、この「夫のいない夜」が時として大きな悲劇を生むこともあった。
密通が発覚したら、どうなったのか
夫の不在中、もし妻が別の男と関係を持った場合、どうなったのだろうか。
江戸幕府の法令では、密通した妻とその相手の男はいずれも死罪とされていた。
さらに、夫が密通の現場や事実を確かめたうえで妻と相手の男を殺した場合も、事情が明白であれば罪に問われないと定められていた。
また、実際の密通に至らなくても、夫のある女性と恋文をたびたび取り交わしていた場合、男女とも中追放とされた。
恋文だけで死罪になるわけではないが、既婚女性との関係は処罰の対象になり得たのである。
幕府評定所の刑事判例集『御仕置例類集』にも、密通をめぐる事件はたびたび現れる。
女性の犯罪を扱う「女之部」には、密通やその手引きに関する項目があり、さらに主人の妻や娘と密通した場合のように、家の秩序を乱す関係は別枠で整理されていた。
これらの法令や裁判記録から見えてくるのは、夫の長期不在が、妻に自由な恋愛を許すものではなかったという現実である。
では実際に夫が江戸勤番で留守にしている間に、妻の密通が発覚した事件はあったのだろうか。
鳥取藩で起きた「夫の留守中の密通事件」
夫の長期不在が実際に悲劇を生んだ事件として知られるのが、宝永3年(1706年)に起きた鳥取藩士・大蔵彦八郎(おおくら ひこはちろう)の妻敵討事件である。
この事件は先述した近松門左衛門の浄瑠璃『堀川波鼓』の題材となったことで広く知られるが、その原型となった実際の事件は、江戸時代の随筆・見聞録『月堂見聞集』にも記録されている。
『月堂見聞集』によれば、鳥取藩の台所役人だった大蔵彦八郎は、江戸勤務のため国元を離れていた。
その留守中、妻のたねは鼓の師匠である宮井伝右衛門と関係を持つようになったという。
彦八郎が帰国した後、たねは自ら密通を告白したとされる。
現代人から見れば、長期間夫と離れて暮らした末の恋愛として理解したくなるかもしれない。
しかし当時の武士社会において妻の不義は、夫個人への裏切りであるだけでなく、家の名誉を傷つける重大な事件であった。
記録によれば、彦八郎は妻たねを刺殺したうえで、たねの妹らを伴って京都へ向かった。そして宝永3年6月7日、京都・堀川で密通相手の宮井伝右衛門を討ち果たしたという。
この事件が当時の人々の強い関心を集め、後に近松門左衛門によって浄瑠璃化されたのは、多くの武士の家庭が抱えていた現実と地続きの問題だったからだろう。
もちろん夫のいない夜を過ごしたすべての武士の妻が、たねのような結末を迎えたわけではないが、江戸時代の単身赴任は夫だけでなく、国元に残された妻たちにもまた重い試練を課していたといえるだろう。
参考 : 『公事方御定書』『御仕置例類集』『月堂見聞集』『酒井伴四郎日記―影印と翻刻』他
文 / 草の実堂編集部