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複雑な現実と、どう向き合えばいいのか――小黒康正さんが読むトーマス・マン『魔の山』【100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

複雑な現実と、どう向き合えばいいのか――小黒康正さんが読むトーマス・マン『魔の山』【100分de名著】

トーマス・マンをノーベル文学賞に導いたとも言われる20世紀ドイツ文学の傑作『魔の山』。

NHKテキスト「100分de名著」では、九州大学教授の小黒康正さんが、山奥の療養所「ベルクホーフ」を舞台にした、『魔の山』を読み解きます。生と死、秩序と混沌、合理と非合理……価値観のはざまで揺れる青年の物語は、現代の私たちに何を示唆しているのか。

今回はそのイントロダクションをご紹介します。

私たちの現実を映す魔境の物語

 トーマス・マン(一八七五〜一九五五)の小説『魔の山』(一九二四年)は、そのタイトルが奇しくも示すように、世界文学における「最高峰」のひとつと言えましょう。

 この小説は、スイスのダヴォースにある国際結核療養所を舞台に、主人公ハンス・カストルプの一九〇七年から一九一四年までの七年間の滞在を描きます。彼はいとこを見舞うために三週間の予定で療養所を訪れるのですが、自身も肺を病んでいることがわかり、長期滞在を余儀なくされてしまうのです。

 そこで彼が見たのは、世界各国から集まる患者たちの自堕落な生活と、死が日常化した日々。彼はここから出ることができるのか。主人公が封じ込められた「魔の山」とは、いったい何を表しているのか――。

 私がこの複雑難解な小説と出会ったのは、大学三年生の春休みです。そろそろ卒業論文のテーマを決めなければならないという時期だったのですが、私は迷いに迷っていました。そんなときに『魔の山』を読み、直感的に「これだ」と思ったのです。

 私がまず魅了されたのは、この小説の独特な語り口でした。『魔の山』においては、語り手がものすごく饒舌なのです。小説の語り手にはいくつか種類がありますが、そのひとつが「全知の語り手」であります。神のようにすべてを知っている語り手が、このようなことが起きた、あのようなことが起きた、と読者に物語を伝えるナレーターの役割をするのです。

 しかし『魔の山』においては、語り手が単なるナレーターを超えて、たくさんのことを説明します。たとえば、自らが語る物語のことを「二重の意味で時ときの小説なのだ」と、読み手の解釈を先に言ってしまうようなこともするのです。

 この説明過多は小説内にとどまりません。作者のトーマス・マン自身も、出版後に詳細な自作解説をおこなっています。有名なのが、一九三九年にアメリカのプリンストン大学でおこなった「『魔の山』入門」という講演です。語り手といい作者といい、この饒舌さはいったい何だろう。私はそこにも魅力を感じました。

 しかし、その後『魔の山』を読み続けるうち、何かが違うことに気づきました。トーマス・マンの研究を進めていくとわかるのですが、彼は小説内外においてかなり饒舌だけれど、そのいずれにおいても、肝心要のところは言わないことがあるのです。

 つまり、饒舌な作家が沈黙する瞬間にこそ、本当の意味での饒舌があるのではないか。その気づきを入口に、『魔の山』を登ってみる。これが、最初の出会いから三十七年という長い付き合いにおよぶ、私なりの『魔の山』登山ルートであります。

 さて、先ほども述べたように、『魔の山』は古今東西の文学のなかでもとりわけ複雑難解な作品、しかも、日本語訳では文庫本上下巻、千数百ページにおよぶ大著です。この小説の語り手は、小説冒頭の「まえおき」で、この物語を語るには「一週七日では十分ではなく、七か月でも十分ではあるまい。(中略)まさか七年はかかるまい!」と言っています。このように長大で、一筋縄ではいかない作品を、いま読む意義はどんなと
ころにあるのでしょうか。

 まず、この作品は一読してその意味や、「魔の山」という世界に込められたメッセージが、ダイレクトにわかる小説ではありません。なぜダイレクトにわからないのか。それは、『魔の山』という小説が、私たちが生きている複雑な現実をリアルに反映しているからです。

 現代の私たちが生きている現実は、決して単純で平坦なものではありません。それは極めて複雑で険しいものと言えます。パンデミックが起き、世界中ではいまなお戦乱が絶えません。答えが出せない理不尽な現実を前にして、私たちはしばしば途方に暮れるのです。

 また、社会のみならず、私たち一人ひとりの人生も矛盾に満ちています。そうした矛盾や複雑さを、まるごと反映しているのが『魔の山』という小説なのです。

 小説のなかで、主人公ハンス・カストルプがダヴォースの療養所に滞在するうちに時間の感覚を失っていくという描写があります。読者も、『魔の山』を読み始めるとだんだんと小説世界の魔力にやられてしまい、時間の感覚を失っていくでしょう。

 時間の感覚を失うことは、現実世界では決してよいことではありません。私のような大学教員であれば、授業は時間どおり終わらせなければなりませんし、約束をすっぽかせば大変なことになります。

 一方で、私はこうも思うのです。私たちは、自分たちを取り巻く現実について、その複雑さをもう少しゆっくり見る必要があるのではないか。

 そのためには現実の時間とは違う時間の流れのなかに入っていく必要があるのではないか。

 読者として『魔の山』に入っていくことは、日々生きている時間をもう一度見つめ直し、この時代がいかに複雑なものであるかを見直す、いいきっかけになるのではないかと私は考えています。

 インターネットやスマートフォンが発達した現代で、私たちは膨大な知識を簡単に手に入れることができるようになりました。その反面、複雑さに向き合うことがだんだんできなくなっているように感じます。私たちは物事にすぐに白黒をつけようとする傾向に陥っているのではないでしょうか。そうした現代において、『魔の山』のような長編小説は、人生の複雑さにしっかりと向き合う力、すぐに答えが出ない問題に挑み続ける力を、個々のうちに培ってくれる。そう私は思っています。

 それでは、文学の世界にそびえる『魔の山』の登山に、一緒に出発しましょう。

「100分de名著 トーマス・マン『魔の山』」では、第1回「『魔の山』とは何か」、第2回「二つの極のはざまで」、第3回「死への共感」、第4回「生への奉仕へ」という全4回を通して、12年の歳月をかけて書かれた『魔の山』を読み解きます。

講師

小黒康正(おぐろ・やすまさ)
九州大学教授
一九六四年生まれ。九州大学大学院人文科学研究院教授。日本独文学会会長。トーマス・マンをはじめ、ドイツ文学研究の第一人者。著書に『黙示録を夢みるとき トーマス・マンとアレゴリー』(鳥影社)、『水の女 トポスへの船路』(九州大学出版会)、『対訳 ドイツ語で読む「魔の山」』(白水社)、訳書にヘルタ・ミュラー『心獣』『呼び出し』(三修社)、クリストフ・マルティン・ヴィーラント『王子ビリビンカー物語』(同学社)など。※刊行時の情報です

◆「NHK100分de名著 トーマス・マン『魔の山』 2024年5月」より
◆脚注、図版、写真、ルビなどは記事から割愛しています。

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