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「本能寺の変」の後、明智光秀は何をしたのか?秀吉に討たれるまでの10日間の行動とは

草の実堂

画像 : 明智光秀 太平記英勇伝「明智日向守光秀」public domain
画像:燃える本能寺で戦う信長(月岡芳年作) public domain

戦国時代最大のクーデター「本能寺の変」。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が主君である織田信長を討ち、天下の覇権を大きく揺るがせた。
この政変は広く知られているが、その背景や動機については今も多くの謎が残る。

本能寺の変の後、光秀は短期間ながらも京都を掌握し、織田政権の後継を狙った。しかし、わずか10日後には羽柴秀吉の猛追を受けて敗れ、歴史の表舞台から姿を消すこととなる。

この短い間に、光秀は何を考え、どのように行動したのか。本能寺の変後の光秀の動向を詳しく見ていきたい。

本能寺の変とは

画像:本能寺跡 photoAC

「本能寺の変」について、まずはその経過を振り返ろう。

天正10年(1582年)、織田信長は徳川家康と穴山梅雪を安土城へ招き、もてなしていた。この接待役を務めていたのが明智光秀である。

しかし、その最中に中国地方で毛利軍と交戦中の羽柴秀吉から援軍要請が入った。
光秀は接待を途中で切り上げ、自らの居城・坂本城へ戻り、出陣の準備を進めた。そして、手勢を率いて出立したが、その目的地は秀吉の戦場ではなく、信長が滞在する京都の本能寺であった。

6月2日未明、光秀軍は本能寺を包囲し、襲撃を開始した。

本能寺に滞在していた信長の側近や小姓らは応戦したが、圧倒的な兵力差の前に次々と討たれた。混乱の最中、信長は自らの最期を悟り、本能寺に火を放ったうえで自害したとされる。

光秀は次に二条御新造へ向かい、そこにいた信長の嫡男・信忠と対峙した。

信忠は籠城し奮戦したものの、圧倒的な兵力差に追い詰められ、最終的に自害を選んだ。こうして、光秀は信長とその後継者を一夜にして滅ぼすことに成功した。

しかし、信長・信忠ともに遺体は発見されていない。光秀はその行方を捜索させたものの、見つからなかったとされる。
この点もまた「本能寺の変」の謎の一つである。

そして、光秀がこの謀反を決意した動機については、現在に至るまで明確な結論は出ていない。

安土城に向かう

画像:安土城図 public domain

「本能寺の変」を起こした後、光秀はまず安土城に向かった。

安土城は信長が本拠とした城である。安土城をおさえることで、織田の終焉を世間に知らしめたかったのかもしれない。

また『兼見卿記』によれば、「何者かが瀬田の唐橋へ向かって逃走した」と記されており、光秀がその動向を追った可能性もある。

しかし、光秀が安土城に向かう途中、瀬田川に架かる瀬田の唐橋が落とされていたため、進軍を阻まれた。
橋が焼かれたとも伝えられるが、誰がこれを行ったのかは定かではない。

3日後の6月5日、瀬田の唐橋が修復され、光秀は再び安土城へと向かう。

この時、安土城の留守居役であった蒲生賢秀(がもう かたひで)は、本能寺の変の報を受けると、すぐに安土城を離れ近江の日野へ退いていた。つまり、安土城に織田家の家臣はほとんど残っていなかった。

光秀は難なく安土城を占拠し、周囲の要所も次々と制圧していった。

朝廷からの勅使、京へ

画像:兼見卿記を書いた吉田兼見 public domain

6月7日、安土城にいた光秀のもとに、誠仁親王の勅使・吉田兼見がやってきた。

何をしに来たのかはっきりはわかっていないが、「京の治安維持を頼みに来た」と考えられている。

当時、京都周辺にいた大軍は光秀と、信長の四男・神戸信孝だけであった。しかし、信孝はまだ24歳の若者で頼りなく、光秀は元幕府の京都奉行である。絶対的権力者の信長がいない今、治安維持のために朝廷が光秀を頼ったとしても不自然ではない。
光秀はこの際、「親王が無事で良かった」と述べたと伝えられている。

翌6月8日、光秀は安土城を出発して坂本城へ戻り、9日には京都へ上洛した。

公家たちから出迎えられると、光秀は彼らに勅使のお礼として銀を配った。
一説にはこの銀は、安土城にあった信長の財宝が用いられたとも言われる。しかし、勅使を迎えた際に金品を配るのは当時の慣例であり、金額自体も特別高額ではなかったと考えられる。

また、信長の財宝については、安土城の留守居役であった蒲生賢秀が持ち出した可能性も指摘されているが、蒲生側はこれを否定している。

周辺の動き

画像 : 高松城水攻め(明治時代、月岡芳年画) public domain

その頃、周辺の動きはどうなっていたのだろうか。

朝廷では、信長の死を受けて祝賀の宴が催されたという記録が残っている。

特に前関白・近衛前久(このえ さきひさ)は派手に振る舞っており、まるで信長の死を喜んでいるかのようだったとされている。『晴豊記』
このことから、「本能寺の変は、朝廷も関与した暗殺計画だったのではないか」という説が生まれ、朝廷黒幕説の要因となった。

一方、信長に招待されていた徳川家康と穴山梅雪は、「本能寺の変」の報告を受けて慌てて自分の本拠地に戻ろうとしていた。
有名な「伊賀越え」である。

しかし、穴山梅雪は途中で命を落とし、家康は無事に本拠に辿り着いた。

羽柴秀吉は、備中高松城を包囲中に「本能寺の変」の報を受けると、毛利軍と和睦して開城させ、直ちに軍をまとめて畿内へ引き返し、「中国大返し」と称される進軍を開始した。

山崎の戦い

光秀は9日に上洛したが、その後の3日間で秀吉が「中国大返し」によって急速に接近していることを知った。

光秀は、これを迎え撃つべく淀城(秀吉が淀殿のために建てたのとは別の、そこまで大きくはない砦)の修理をしたという。もっとも、この修理の詳細は不明であり、後世の創作である可能性も指摘されている。

画像 : 山崎の戦い(山崎大合戦之図)public domain

決戦は、天正10年(1582年)6月12日に山崎で行われた。

戦場で鍵を握ったのは「天王山」であった。
この地を制することが勝利への近道であることは、過去の戦例からも明らかであった。

しかし、先に天王山を押さえたのは、到着したばかりの秀吉軍だった。光秀軍はそれよりも遅れて戦場に到着しており、戦略的な優位を失っていた。

さらに兵力差も決定的だった。秀吉軍は3万5000から4万の兵を擁していたのに対し、光秀軍はわずか1万6000程度にとどまった。
圧倒的な戦力差に加え、布陣の遅れもあり、光秀軍は十分な準備が整わないまま戦闘に突入することとなる。

戦いは短時間で決着がついた。秀吉軍の猛攻の前に光秀軍は耐えきれず、わずか数時間で敗北した。

光秀の死

画像:月百姿「山城小栗栖月」(月岡芳年作) public domain

山崎の戦いで敗れた光秀は、一時的に勝龍寺城に退却し、立て篭もろうとした。
しかし、援軍の見込みがなく、籠城に持ち込んでも状況の好転は望めなかったため、すぐに城を捨てて本拠地である坂本城を目指すこととなった。

だがこの時、近江の坂本城ではなく丹波の亀山城を目指してしまった兵が多数いた。指揮命令系統はもはや機能していなかったようだ。

光秀自身は少数の供回りとともに近江へ落ち延びようとしたが、逃亡の途中、現在の京都市伏見区・小栗栖で落武者狩りに遭い、殺害されたとされる。

その最期については、農民に竹槍で刺されて命を落としたとも、傷を負った後に家臣の手で介錯されたとも伝えられる。

現在、小栗栖のその地には「明智薮」と呼ばれる薮が残っている。

光秀の天下は、わずか十日で幕を閉じた。「三日天下」と称されるが、実際には本能寺の変から山崎の戦いに至るまでの十日間である。

結局、光秀は秀吉の機動力と戦略に屈し、信長から奪った天下を守ることはできなかったが、彼の評価をめぐる議論は今なお続いている。

参考:『兼見卿記』『信長公記』『再審・本能寺の変 光秀に信長は殺せたのか?』他
文 / 草の実堂編集部

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