【実の息子を失明させて帝位に】ローマ帝国史上初の女帝・エイレーネーとは
古代ローマの伝統を受け継ぎながら、ギリシア語文化を基盤に独自の文明を築いた東ローマ帝国。
その宮廷は、壮麗な儀式と学芸が花開く一方で、皇位をめぐる策略や宗教対立、さらには血縁さえ切り捨てる冷徹な政治判断が渦巻く世界でもありました。
7〜8世紀にはイスラム勢力との長い戦争で、シリアやエジプトといった豊かな州を失い、帝国の財政と国力は大きく揺らぎます。
それでも海と城壁に守られた首都コンスタンティノポリスは東地中海最大級の都として繁栄を維持し、ローマ法とギリシア文化が交錯する宮廷文化は健在でした。
この複雑な時代のなかで、後に単独で皇帝位を名乗る最初の女性となる、エイレーネーが頭角を現します。
8世紀半ば、アテネに生まれた彼女は帝室の直系ではありませんでしたが、宮廷内の複雑な権力構造を巧みに渡り歩き、皇帝レオーン4世の皇后となりました。
そして夫の死後、幼い息子コンスタンティノス6世の摂政として実権を握ります。
母としての情と政治家としての野心の間で揺れながらも、宗教政策や宮廷運営で主導権を発揮し、権力を着実に掌握していきました。
しかし、成長した息子が自立を強めるにつれて、宮廷内では母子の権力をめぐる対立が激化します。
派閥争いと政治危機が重なるなか、エイレーネーは最終的に自らの地位を守るため、息子を失明させ帝位から排除するという、帝国史上でも特に残酷と語られる決断を下します。
彼女はどのようにして権力を手にし、なぜこの極限の選択に踏み切ったのでしょうか。
今回は、その歩みをたどってみたいと思います。
幼帝の母としての摂政
781年ごろ、アテネ出身のエイレーネーは皇帝レオーン4世の妃となり、やがて息子のコンスタンティノス6世をもうけます。
彼は生まれながらにして、幼くして帝位に就く運命を背負った皇子でした。
しかし780年、レオーン4世は突然世を去り、わずか9歳の皇子が帝位を継ぐことになりました。
ですが若き皇帝の前途には、暗雲が立ち込めていました。
帝国はアッバース朝との戦いが続き、軍の士気は揺らぎ、宮廷では将軍や高官たちが幼い皇帝の保護を口実に、権力を奪い合っていたのです。
そうした混乱の中で、摂政となったエイレーネーは、自身が皇室直系でないことから一部の貴族に軽んじられながらも、ゆっくりと政治基盤を固めていきました。
特に宮廷で重要な役割を担っていた宦官層の協力を得たことで、その立場は次第に安定していきます。
そして聖像崇敬派の支持を背後に、母としてだけでなく統治者としての力も確かなものへと変えていくのでした。
宗教政策と母の権力
一方その頃、帝国内では聖像(イコン)の崇拝を禁じ、破壊までも求めるイコノクラスム(聖像破壊運動)が激しさを増していました。
帝国を真っ二つに分断しかねない対立が続く時代にあって、エイレーネーにとって最優先の課題は宗教の安定でした。
787年には第2ニカイア公会議が開かれ、聖像崇敬の復活が正式に決定します。
これは東ローマ世界にとって大きな転換点となり、西方のローマ教皇庁との関係改善にもつながる出来事となりました。
ところがこの頃になると、成長したコンスタンティノス6世が母の影響力を重荷に感じ始め、単独での統治権を強く主張するようになります。
彼は軍の支持を得ようと遠征を重ねますが、ブルガリア軍に敗北したことで威信は大きく揺らいでしまいました。
さらに彼の結婚問題が教会の激しい反発を招き、皇帝としての支持基盤を著しく弱めていきます。
母と子が共同統治を続けながらも、心の溝が深まっていった背景には、このような宗教面と軍事面における連続した失策が重なっていたのです。
息子の失明と女帝の即位
帝国の混乱がいよいよ深まるなか、797年、ついにエイレーネーは決定的な行動に踏み切ります。
この時すでに宮廷内では、官僚や宦官といった有力な支持者が彼女の周囲を固めており、反対派である将軍たちも十分な力を持っていませんでした。
状況が整ったと判断したエイレーネーは、クーデターを決行します。
そして息子コンスタンティノス6世を捕らえ、なんと視力を奪うことで皇帝としての資格を失わせたのです。
失明させられたコンスタンティノス6世が、どのような方法で視力を奪われたのか、その後どれほど生きたのかについては史料によって記述が異なります。
しかし、実の母の手によって帝位を奪われた皇帝として、その名は後世まで強烈な印象とともに語り継がれることになりました。
女帝の治世と歴史への影響
息子を退けて単独の皇帝となったエイレーネーは、帝国の財政や軍制の立て直しに取り組みました。
宮廷では官僚制度の整備を進め、地方行政の見直しにも着手します。
また、西方でローマ皇帝の称号を得たカール大帝との関係をどのように処理するかは、帝国にとって大きな課題でした。
二人の間には婚姻交渉が進んだという記録も残されており、もし実現していれば、東西ローマの再統合という歴史の大きな転換点になっていたかもしれません。
しかし、国内の情勢は安定しませんでした。
女性が単独で皇帝として君臨することへの強い抵抗に加えて、財政難がさらに深刻化していきます。
そして802年、ついに宮廷でクーデターが発生します。
エイレーネーは退位させられ、レスボス島へと送られ、翌803年に静かにその生涯を閉じました。
現代の目で振り返ると、彼女が実の息子に対してとった手段は、やはり冷酷な印象を拭い去ることは難しいかもしれません。
しかし一方で、宗教政策の転換を成し遂げ、歴史上初めて単独で皇帝位に立った女性として、後世に大きな足跡を残した人物でもあります。
エイレーネーは、ビザンツのみならず世界史においても重要な転換期を生きた、極めて象徴的な存在と言えるでしょう。
参考 :
『ビザンツ皇妃列伝:憧れの都に咲いた花』/井上浩一(著)
『ビザンツ 驚くべき中世帝国』/ジュディス・ヘリン (著) 井上浩一(監修 翻訳) 足立広明 (翻訳) 他
文 / 草の実堂編集部