「不振のときこそ不変に」──梶浦宏孝 七段の、強くなるためのメソッド【将棋講座】
わが道をゆく 強くなるためのメソッド
NHKテキスト『将棋講座』の人気連載「わが道をゆく 強くなるためのメソッド」。プロ棋士の強さの秘密、これまでどんな苦労を重ね、今後は何を目指していくのかなど、プロ棋士の知られざる素顔に迫ります。今回は、梶浦宏孝七段をご紹介します。
梶浦宏孝 かじうら・ひろたか
1995(平成7)年7月6日生まれ。東京都新宿区出身。鈴木大介九段門下。2008年に6級で奨励会入会、15年4月四段、21年5月七段。19年に第32期竜王戦ランキング戦6組で優勝、同じく第33期で5組優勝、第34期に4組優勝。NHK杯は今年度の第74回で初の本戦出場。
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将棋との出会い
将棋は5歳のとき、父に教わった。4歳上の兄と一緒に覚えたが、兄弟ではすぐに指さなくなったという。
「勝敗は忘れましたが、兄と喧嘩したことはよく覚えています」
外で走り回るよりパズルやボードゲームなど自分で思考する遊びが好きな寡黙なインドア少年だった。将棋のゲーム性が梶浦の好みとマッチして、のめり込むまで時間はかからなかった。
「キャラクターの入った漫画の入門書を母が図書館で借りてきてくれたんです。いろいろな手筋を知って面白さが倍増しました」
小学1年生になり、東京・将棋会館の道場を初めて訪れた。それだけでは指し足りず、帰宅してからも一人で盤と向き合い続けた。
「道場では9級に認定されました。家では一人将棋をよくやっていました。一人で一手ずつ二役やって、それがけっこう楽しかったんですよね」
小学2年で転機が訪れる。小学生の大会に初めて出場し、世界が広がった。
「将棋を指すたくさんの子どもたちがいて、それがとても刺激になって。将棋がさらに好きになって、将棋会館道場に行く頻度が増えていきました」
小学4年でアマ初段になった。小学生大会にも積極的に出場することになる。
「大会では山本君(博志五段)に負けてしまい、悔しかったです」
小学5年でアマ二段になった。研修会に入会して、本格的に将棋の道を歩んでいく。
「研修会にはE2で入会しました。山本君のほかに近藤君(誠也七段)や渡辺和史さん(七段)が在籍されていました。近藤君は僕より学年がひとつ下ですが、すでにC2だったので特別な感じでした。途中から高野さん(智史六段)が入会されてきました」
最後に出場した小学生将棋名人戦の東京都23区予選で3位まで勝ち進む。着実に棋力を伸ばしていた。
「その大会で優勝した山本君に負けてしまって東日本大会にはいけませんでした。小学生の大会ではあまりいいところがなかったです」
小学6年の3月、小学校卒業間際に運命の出会いが訪れる。当時、通っていた蒲田の将棋クラブで勝又清和七段から師匠となる鈴木大介九段を紹介された。
「ちょうど師匠が弟子の育成に取り組もうとしていたタイミングだったようで、勝又先生に橋渡しをしていただきました。師匠が講師を務めていたNHK将棋講座の『振り飛車自由自在』を観て振り飛車党になったので、鈴木門下になりたいという思いは人一倍大きかったんです。地元が神楽坂で、大師匠の大内先生(延介九段)宅の近所だったということも縁がありました」
不振のときこそ不変に
中学1年、研修会から仮入会で奨励会に入会。師匠から「奨励会初段になるまで次の弟子は取らない」と伝えられた。1学年下の弟弟子である田村康介七段の存在が脅威だった自身の経験を踏まえた鈴木流の教育方針だった。
「おかげでのびのびと指すことができました。その代わり同じ段級に1年いたら破門といわれていて。6級時代に昇級の一番を5、6回逃して焦ったこともありましたね(苦笑)。5級になってからは比較的、順調だったと思います」
奨励会級位者時代にターニングポイントが訪れる。蒲田の将棋クラブで当時、奨励会員だった永瀬拓矢九段に将棋を教わることになった。
「奨励会三段だった永瀬先生の研究会にお誘いいただきました。私は攻め将棋だったのですが、当時の永瀬先生は受けが強いといわれていたように、玉が単体で入玉していくのを見て、自分の将棋観が広がっていくのを感じました。プロになってからもお世話になり、いろいろなことを勉強させていただきました」
奨励会1級のときに振り飛車党から居飛車党に転向した。愛用していたゴキゲン中飛車と石田流に別れを告げた。
「奨励会に入会したとき、師匠にはいずれ居飛車も指すようにと言われていました。タイトルを過半数持たれていた羽生先生(善治九段)がオールラウンドプレーヤーだったことも大きく影響していて、目標にしなさいと。やってみたらすごく新鮮でそれ以来、居飛車党になったんです。当初は知識不足がもろに出ることもあったけど、負けてもいいからとにかくやってみることが大事だと感じました。振り飛車は軽くさばいていきますが、居飛車は重くじっくりいかないといけないので、感覚の違いはかなりありました」
三段リーグには2012年秋から参加し、2期続けて5勝13敗に終わる。奨励会入会から初めて大きな壁に当たった。
「すごくつらかったです。自信を失っていて。いろいろ考えすぎて頭がパンクしそうだったので頭を丸めました」
すると3期目に13勝5敗と覚醒した。
「初めの2期は実力が足りていなかったです。師匠から『自信を持って指しなさい』とアドバイスをいただきました。気の持ち方は本当に大きいと思います」
その後、11勝7敗を経て、5期目に13勝5敗で四段に昇段した。一貫していたのは調子が悪いからといって取り組み方を変えなかったことだと振り返る。
「調子が悪いときはそれも実力ですので、素直に受け入れることにしています。小手先のことを変えるだけでは意味がないと思っていますので」
刺激と収穫の竜王戦
2015年4月に四段昇段を果たしてからしばらく苦労が続いたが、棋士4年目にしてようやく花開く。2019年、第32期竜王戦6組で優勝を飾った。
「竜王戦は就位式で各組の優勝者へのメダルの授与もあり、ファンの方に名前も覚えてもらえるのでうれしいです。決勝トーナメントは初戦で近藤君に負けて悔しかったですね」
翌年の第33期竜王戦5組で優勝。決勝トーナメントではベスト4に進出するも、羽生九段に敗れた。完敗だった。
「木村先生(一基王位・当時)や佐藤先生(康光九段)と指せることでモチベーションが上がっていました。羽生先生との将棋は横歩取りで、手も足も出ずにやられてしまって。当時の棋力や知識からいえばしかたがなかったと思います。順当に負けたので悔いはなかったです」
しかし、翌年の第34期竜王戦4組で優勝。3期連続優勝で七段に昇段する。決勝トーナメントでは羽生九段に勝った。
「角換わりの定跡形から外れたあとに難しい局面が続き、最後に抜け出すことができて。信じられない気持ちでした」
その後、永瀬王座(当時)に敗れて、ベスト4で敗退した。
「終盤で形勢がよくなったかなと感じたのですが、実際はそうではなくて。永瀬先生は局後に際どかったとおっしゃっていましたが、読みが正確で完璧に見切られていたのだと思います。感想戦では読み負けている場面が多く、手の見え方や読みの分厚さでトップの棋士とはまだまだ差があると感じました」
棋士にとって棋力を高めるためにAIは欠かせないツールである。梶浦も有効に活用している。
「対局中に考えていたことや形勢判断をAIの評価と照らし合わせて、なるべくAIをお手本として、思想を勉強しています。AIがどの形をよしとしているか。なぜそういった形勢判断を示すのかを推理しています。感覚がマッチしつつあると自分では感じています。先日、AIが評価する手を連発して勝った将棋があり、充実感がありました」
簡単なようで難しい目標
目標は順位戦で昇級すること。「竜王戦で活躍できたのはもちろんうれしいですが、順位戦は他の棋戦のシード権にも関わってくる根幹になる棋戦です。上のステージで戦ってみたい」と力を込める。
さらに自身の指した将棋を「対局中に局面を理解するために、頭の中で言語化したいと思っています」と言う。
「AIの示す手や定跡を暗記する勉強法が流行していると思っています。ただ、AIは最善手を示してくれますが、指し手の意味や理由までは教えてくれません。ですので指し手の意味を明確に説明するのは簡単ではありません。プロとして自分の指した手の意味をきちんと説明できないのはおかしいと思っています」
梶浦がお手本としているのは羽生九段である。奨励会時代は羽生九段の記録係を何度も務めてきたし、棋譜も繰り返し並べて勉強してきた。
「羽生先生は感想戦のときに誰でも理解できる言葉で指し手の意味をきちんと説明されますが、実は難しいことなんです。AIを使われるようになってからも変わりません。形勢判断や指し手を自分の言葉で表現できるようにすることが普及面にもつながるので目標にしています」
◆『将棋講座 2025年2月号』より「わが道をゆく」
◆文:内田晶
※高野智史六段の「高」は正確には「はしごだか」です。
※近藤誠也七段は2025年1月16日に八段に昇段しました。